9/兄の帰還。または凱旋。または里帰り。
飛行機に乗り込んで早数時間。もう少しだ……もう少し。
そう思うと、飛行機の揺れに呼応するかのように俺の心臓が揺れた。緊張と不安、そして恐怖と高揚感が混ざり合った奇妙な心音。それは俺の人生の中では経験したことの無い音色で、それを心地よいとさえ――
「さっきから、貧乏ゆすりが酷すぎませんか?」
感じてはいなかったようで、俺の膝は面白いくらいにガクガクだった。高所恐怖症の俺にとって、飛行機はキツイ。というのは嘘で、単に落ち着かないだけ。ましな言い訳が思いつかないため、話題変更を試みる。
「そういえば、このファーストクラスってのは本当に座り心地がいいもんだな。流石藤宮だ」
「その話題、もう8回目です」
「……」
シュナに突っ込まれながら、俺は通路を通りかかったキャビンアテンダントに12回目の飲み物の要求をした。極度の精神不安定状態が続いていて、喉はカラカラだった。
12回目だというのに嫌な顔は微塵も見せず、キャビンアテンダントは極上の営業スマイルで俺に100%オレンジジュースと手渡してくれた。それをキャビンアテンダントの目の前で飲み干すと、更にもう一度貰った。そんな状況ですら、キャビンアテンダントは嫌な顔1つ見せない。しかし、今度は俺が口をつける前に通路を向こうへ消えていった。
「次は暫く回ってこないな。あのキャビンアテンダント」
「そうですね」
シュナの流すような心ない返事を受け取りつつ、俺は搭乗から何十回目か分からない座りなおしをする。いい加減ケツも限界だった。
「ちょっとトイレ行ってくる」
別に尿意に襲われ敗戦した訳では無いけど、とにかく立ち上がりたかったのでトイレに行くことにする。立ち上がり一度大きく伸びをすると、シュナに肘で早く行けと合図されたので俺はゆっくりとトイレに向かった。
「いい加減飛行機もうんざりだな」
トイレの鏡の前で呟き、溜息を漏らすと、目の前の人物も同じように溜息を漏らした。アメリカじゃ、もう俺は寝てる筈の時間だ。しかし、精神不安定状態が祟ってか一向に睡魔は襲ってこない。シュナもそれを察してか、俺と一緒に起きてくれていた。
「と思ってたんだが、どうもお構いなしみたいだな」
トイレから戻った俺を迎えてくれたのは、気持ち良さそうに寝息をたてているマイシスター。すみれさんが膝元に毛布を掛けているところだった。
「弟が精神不安定に陥ってるってのに呑気に眠っちまいやがって」
「そう言わないであげてください。今日は疲れているのですよ。泣いたり笑ったり忙しかったですから」
すみれさんが毛布を掛け終わり、シュナの目に掛かっている前髪を耳に掛けなおしながら言った。俺は、少しの間を置いて同意する。
「……そうだな」
シュナは意外にも寂しがり屋な性格だった。普段の気丈で清楚なイメージからは似つかない大粒の涙とぐしゃぐしゃの顔。シュナのクラスメイトが見たら驚いて口が閉まらなくなるか、ひっくり返るかのどちらかだろう。
「シュナは、日本へ来ること後悔しないかな?」
「そうですね。私には答えかねますが……。ただ敦様が今頃泣きじゃくってるのは想像できますが」
「違いないな」
シュナとは直接血が繋がってないくせに、シュナは敦のお気に入りだからだ。ふと、シュナの以前の父親のことが気になった。
「シュナの本当の親父ってさ、死んでるんだよな。どんな人だったのかな」
「気になりますか?」
「まぁ、そうだな。気になる程でもないけど、なんとなくな」
「きっと、シュナ様のように真っ直ぐで、純粋な人だったと思います」
「……。そうだな」
素直に、すみれさんの当ての無い予想に同意した。俺も、なんとなくそうだと思ったから。まぁ、もらい泣きならぬもらい寝とでも言おうか、シュナの幸せそうな寝顔を見ていたら急に俺も体にも疲労感が迫ってきた。この期を逃すまいとシートに腰掛、すみれさんにモーニングコールを頼むとそっと目を閉じた。寝付けないと思ってたのに、意外とすんなり夢の世界に堕ちていった。
***
久しぶりに地上に降り立ち、深く深呼吸する。もう朝のような気がしてるのに、何故か外は暗がりだった。長旅ご苦労様を笑顔で受け取りながら、架け橋を渡る。ロビーを通り過ぎた辺りで、トランクが流れてくるのを待っていた。ってことで、帰国凱旋。東にあるスケールも器量も小さな島国、ジャパンに帰ってきたわけだ。
いきなり藤宮の家へ行くのは、躊躇われた。今更どんな顔をして出向けばいいのか分からないし、結衣にはもう少し心の準備をしてから会うつもりだったから。それに、なんとなく帰るとは言い出しにくくて、すみれさんにも口止めしておいたくらいだ。しかし、現実ってのは俺の思い通りにはいかないようで、良い意味で計算と計画を大きく狂わせてくれた。
「久しぶり、蓮ちゃん。シュナちゃんも」
「大きくなったなぁ、蓮」
自動ドアの向こうで大きく手を振っている2人を見たときには、驚きとかではなくて自然に顔が綻んだ。加奈子さんと訓さんが俺のことを出迎えてくれたのだ。
「言うなって言っといたはずなんだが……」
俺がそう呟くと、すみれさんは明後日の方向を見ていた。それに大きな溜息を付きつつ、加奈子さんたちの後ろに少しだけ見知っている顔を数人見つけた。皆少しだけ大人になっているように思える。
「よう、蓮。久しぶり!」
「久しぶりね、藤宮」
「蓮君久しぶり!」
どんだけ皆同じことしか言わないんだと言いたくなるが、一応紹介しておくと彼方、神谷、瀬戸だ。頬が釣りあがっていくのを、俺は隠そうとはしなかった。
「お久しぶりです、蓮さん!」
と、彼方の後ろに隠れてしまっていた香奈ちゃんが前へ出て頭を下げた。このくらいの学生は一年で相当変わる。一年だけ会わなかっただけで、香奈ちゃんは見違えるほどに大人びた顔になっていた。それにしても、遠くからそんなにいろいろと声をかけられるのは結構恥ずかしいもので、周りの注目もそれなりに集めてしまった。俺は流れてきたトランクを急いで拾い上げると、早足でみんなの所へ向かった。シュナも予想外のことで驚いているようだったけど、俺の背中に隠れるようにしてついてきた。
俺は、ここへ帰ってくるにあたり、何か後ろめたいものを背負っていた。自分は歓迎されない。意識的そう思っていた。しかし、それは思い過ごしだったのか、皆は俺のことを快く受け入れ、迎えてくれた。それがとても嬉しくて、全て捨てようとした筈なのに、拾うことができて、満たされていくことを肌で感じた。結局、俺は何も捨てていなかったかもしれない。そんなことを思ったが、やっぱりいくつか捨てたものはあるのだろう。その一方で、得たものだって沢山ある。これから得る可能性だって十分にある。
「何ぼ〜っとしてるの? 蓮ちゃん。皆がわざわざ来てくれたのよ? まず言うことがあるでしょ?」
深く考え込んでいたことが加奈子さんにはぼ〜っとしているように見えたらしく、軽い調子で叱咤される。まず言うこと……? 少しだけ考えるけど、思いつくものは1つしかない。俺にとって、とても重要で、意味のある、そして思い出もある当たり前の日常的単語。
「ただいま」
俺の『ただいま』に、みんな声を合わせて『おかえり』と言ってくれた。やっぱりこのやり取りは素晴らしいもので、帰ってきたんだと改めて実感する。しかし、一年前とは違う、俺にとっては決定的に欠けているものがあった。それは何を取っても埋められるものではないし、満たされることもない。唯一無二で絶対的なもの。
どれだけ目をこらしても、ホームの隅々にまで目を走らせても、結衣の姿が見えなかった。