8/やればできる弟寂しがり屋の姉
「どうしました?」
「……」
あれから数ヶ月が過ぎ、俺は学校の後に勉強っていう日々を繰り返していた。しかし、なんだろうな。薄々気が付いてはいたんだ。ずっと思っていてもなんとか口にしないしないと思っていたんだが……。少し前から集中力が欠けてきて、CDから流れる英会話も右から左へ、上から下へ。そして今日という日、ついに俺のペンが止まった。
「……きた」
「え?」
不思議そうな顔をしたシュナが聞き返してくる。今度は声を大きくして言ってやった。
「飽きた!」
「……まじですか?」
「まじです。そしてすみれさん、何か良い案無い?」
兎に角勉強から話を遠ざけようとし、とりあえずすみれさんに話を振ってみた。
「しかし、飽きたと言われましても……」
「いやね、あのぉ前々から薄々感じてたんだ。おかしいな? ……と」
「何がですか?」 右斜め30度に首を傾げるすみれさん。仕草自体は相当可愛いものだとは思うが、おかしいだろと言われてそれに気付かないなんて有り得ない。故に、すみれさんも有り得ない。
「コレだよコレ!」
俺は壁に掛かっているカレンダーをビシッと指して言った。
「?」
「いやいやいや。すみれさんコレ、おかしいだろ?」
「?」
「いや、? じゃなくてな、何このスケジュール? 俺はあれか? 英語もマスターして体も鍛えて……アメリカの軍隊にでも入れるつもりか?」
さて、ここで俺の先週の日曜日のスケジュールを紹介しよう。午前中はボクシングジムですみれさんにしごかれ、午後は英語の勉強。夜はシュナとすみれさんについてもらって勉強。そして、就寝。俺に許される自由な時間は、飯時と風呂とトイレぐらいだ。
「まぁ、英語はいいんだよ。俺だって帰りたいし。けどな、なんで体を鍛える必要があるんだよ?」
「どこかの黒人に蓮様がコテンパンにされたこと……。私が知らないとでも思ったんですか?」
「……思ってましたが……。その口調からすると違うね?」
「あんなに都合良く、黒人の頭の上にブロックが落ちる訳無いじゃないですか」
「あぁ……そゆこと」
この人は本当のところいつからアメリカに居たんだろう?
「とは言え、私の計算ではもう少し早く音を上げるんじゃないかと思っておりました。よくここまで耐えましたね」
俺が音を上げること前提のスケジュールだったわけね。納得。
「ご褒美……と言うとなんなのですが、ここへ行ってきてはどうでしょう?」
そう言ってチケットのようなものを差し出す。それを俺は受け取った。
「……搭乗チケット?」
「そうです。日本へ向かってください」
「どうして? 英語のマスターって約束は?」
「日付を見てください」
言われるがままに日付を確認すると、なんと半年後。
「あー、これまでにマスターしろこのドカスが、ってことだな?」
「まぁ、そういうことですね。つまり、あなたに飽きたなんて言っている暇なんて無いのです!」
人差し指を鼻先に立てられ、高らかに宣言された。っていうか、ドカスの部分否定っしないのか? しないってことは俺にはカスなのか? しかもドが付くほどのカスなのか? 舐めんな。
「人を指で指しちゃいけないって教わらなかったのか?」
「教わりませんでしたね。少なくとも、私の使っていた教科書にはそんなことは書いてありませんでした」
あっそ。
「それにしても、なんで半年後なんだ? いくらなんでも無茶だろう?」
「それはですね。私のビザが後半年で切れるからですよ」
しれっと言いやがった。なんていう自己中心的発想。
「俺はそれに合わせなきゃならないわけか……」
「講師をただで引き受けたのです。そのくらいの我が侭は言わせて頂かないと」
「すみれさんってさ、メイド……だよね?」
「……? それが何か?」
最早メイドとはかけ離れた存在というか、俺になんの癒しもくれない。逆にスケジュール的な圧迫感までくれるある意味異種なメイドと日常を共に出来て、俺は幸せだな。もちろん嫌味だけど。その日から、俺の生活はまさに英語漬け。
***
「ふい〜。やっと終わった……」
「ご苦労様です。では、次はこれとこれ、あとこれとこれとこれくらいですね」
すみれさんが机に次々と新しいワークを積み上げる。
「まだ……こんなに?」
少し泣きそうになった。
***
「なんか、俺少しできるようになってきたかも」
「自惚れはいいですから、さっさとこっちもやっちゃってください。片付かない」
シュナが散らばっている英語グッツたちを見て言った。
「自、自惚れって……」
それだけ呟いて、机に突っ伏した。
***
「ちょっと休憩。……はぁ。日本語聞きたい。俺、英語撲滅のためならなんでも出来る」
「そういえば、もう少しですね」
シュナが、カレンダーを見ておもむろに呟いた。
「…………続きやろうか」
「ふふ。そうですね」
シュナの顔が一瞬曇ったように見えたのだが、気のせいと判断し勉強に取り掛かった。
こんな感じで、ムチ9割飴1割のまさかの指導方針に異議と唱えつつ、時間は刻々と進んでいき、俺も少しずつ前進していった。そして――
***
半年後
***
『すみません。道を尋ねても?』
俺は、目の前をゆっくりと歩いていた気の良さそうな女性に英語で話しかけた。その女性は、気を悪くすることなく答えてくれる。
『いいですよ』
『空港へ行くためにはどのバスに乗れば?』
『北側センターの3番線に乗って4つ目のバス亭で下りれば行けますよ』
『ありがとう』
『どういたしまして』
俺は道を尋ねた女性に軽く右手を上げると、少し後ろのバス亭の日陰で待っているシュナのところへ戻った。
「英語、随分お上手になりましたね」
「そうか? ……まぁ、あれだけやりゃたいがい誰でも話せるようになると思うけど」
俺は、シュナに褒められたことが少し恥ずかしかったので目線を外して答えた。
「それにしても、なんですみれさんとは別行動なんだ? 空港で待ち合わせなくても、一緒に行けばいいじゃないか」
「そんなことはすみれさんに聞いてください」
「それもそうだけどな」
どうも、何か裏があるような気がしてならないんだが……。そこで一度会話が途切れ、俺とシュナはさっき教えてもらったバス亭に移動した。シュナがちゃんと付いてきてるのを確認してから、ベンチに座る。シュナが立ち上がって看板を指でなぞるようにしているのを見て、質問した。
「バス、後どれくらいで来るんだ?」
「えーと……後15分程ですね」
そう言って俺の隣に腰を落ち着けるシュナ。
「あ〜、搭乗時間何時だっけ?」
「19時丁度の便ですね」
「19時……7時か。それだと、あっちじゃ何時くらいだっけ?」
「正確には分かりませんがおそらく、9時頃になるのではないかと」
「あぁ……そっか。時差ボケ、最初辛いよな」
「……」
シュナが半目でこっちをまじまじと見てくる。
「……なんだよ?」
「目」
「はぁ?」
「くまが酷いです。眠れなかったんですか?」
顔を近づけ、目の下を指差すシュナ。少し顔が近かったせいか、俺は少しのけぞった。
「……時差があるからな。寝ない方が丁度良い」
「全く、嘘が下手ですね。大方帰れることが嬉しい反面、緊張と不安で寝れなかったんでしょう」
……全くその通りであります。だってねぇ、突然アメリカに行って突然帰って来た、どうなんだろうね。
「やることやって帰るんですから、堂々としていればいいんですよ」
「まぁ、そうなんだろうけどな」
「あ、バス来ましたよ」
そんなこんなでバスが到着し、それに乗り込んだ。そして、30分弱バスに揺られ、そうやって、俺はなんの決心も付かないまま、空港まで来てしまった。自動ドアをくぐり、すみれさんと合流した。
「お待ちしておりました」
「あぁ。じゃ、お土産でも買いにいこうか…………シュナ?」
「……」
無言で俯いたシュナだったが、俺はしっかりと見てしまったんだ。シュナの目に今にもこぼれそうな程の涙が溜まっているのを。正直、これには本当に驚いた。
「……シュナどうしたの?」
「……なんでも……ありません」
地面に、小さな黒いしみが2・3出来た。ついに顔を手で覆ってしまったシュナの肩に、そっと手を乗せる。
「俺、馬鹿だから……。言ってくれなくちゃ分からない。どうしたの?」
観念したようにシュナは顔を上げ、真っ赤になっている目で俺の目を見つけてきた。そして、つっかえつっかえに心の内を話してくれる。
「……今まで散々世話、焼かせた……愚弟がっ! ……居なく、なると思うと……少し寂しくて……」
……愚弟ってかい。しかも少し強調しやがったな。っていうか、何を言ってるんだこいつ。
「はぁ? 何言ってんの?」
「……なッ!?」
多分、シュナ自信こんな答えが返ってくるとは思ってなかったんだろう。大きな目を更に大きく開け、その目に驚きと落胆の色が見えた。けど、俺は声色を変えずに軽く言葉を続ける。
「だから、何言ってるのか解んないって」
「……」
無言のまま背を向けて歩き出したシュナ。更に意味が解らない。
「おいおい、どこに行くんだよ? 早くしないとお土産買えないだろ?」
「……え?」
振り返ったシュナの目は先ほどと同じく大きな目が更に大きく見開かれていた。けど、今度は驚きってのは変わらないけど、落胆は消えているのが手に取るように分かった。
「どういう……ことでしょう……?」
「どうもこうも、お前は世話の焼ける愚弟を1人で日本に行かせるつもりか?」
シュナは、大きな目をそのままにすみれさんに目をずらした。すみれさんは、微笑みながら頷く。……多分だけど。
「……」
「大方、俺だけが帰国すると思っていたんだろうが、そうはいかない」
無言のシュナに、俺は鼻をフンと鳴らしながら言いつけた。
「そうですよシュナ様。蓮様はこう見えてなかなか危なっかしいんですから、あなたに付いていてもらわないと」
かなり訂正したいところではあるが、空気を読んで聞かなかったことにしてやろう。俺は止めとばかりに口を開いた。
「ほら行くぞ、お姉様」
シュナはゴシゴシと乱暴に涙を拭い、とびっきりの笑顔で頷いた。
「……はいッ!」