2/ヒーローだって逃げることもある
運転手の手を借りて家の中へ入りベッドに寝かされた俺は、シュナに介抱された後、買い物に行ったシュナを見送った。
シュナが立ち去った後には静けさだけが残り、さっきまでの明るいやりとりがまるで無かったかのようだった。しかし、俺の心はそんなところにはありはしない。
一人になると、いつも考えてしまう。あの人の顔、あの人の声、あの人の笑顔。
「結衣……」
今日、また不幸があった。もし俺があの場に居なかったら、大変なことになっていたかもしれない。シュナの笑顔が、永遠に失われていたかもしれない。
いや、違うか……。
俺が居たから、あんなことになったんだ……。俺が居たから……。アメリカにまで来て…それでも俺は…!
「もうこれ以上、どうしろってんだよ…!」
「別にどうする必要もないんじゃないですか?」
俺の体が一瞬強張る。さっき出かけたはずのシュナの声が響いた。その声はとても静かで、穏やかで、空間をシュナが支配しているような、そんな錯覚を覚える。見ると、リビングの入り口の辺りにシュナが立っていた。俺は一瞬で気持ちを切り替え、普通の対応を心がける。
「買い物はどうした?」
「サイフを忘れたので、戻ってきただけです」
「そっか」
「さっきとはえらく違うんですね」
「何が?」
「いえ、何も」
会話は終わった。終わったはずなのに、シュナは俺の顔をじっと見つめたまま、そこを動こうとしない。
「どうした? そんなにブサイクになってるか?」
「いえ、顔が腫れるのは多分明日です。そうではなくて…」
明日か…。覚悟は決めておこう…!
「で、何?」
「あなた、いつまでそうしているつもりですか?」
「はい?」
「明るいキャラを貼り付けて、みんなから好かれるようにして、でも仲の良い友達は作らなくて、見ていてイライラするんです。そんなにあなたは不幸ですか? そんなに自分が可愛いんですか?」
いきなり強い口調になったので、少しだけ驚いた。しかし、すぐに笑顔を貼り付けて受け答えする。
「なんだよ急に。どうしたんだよ」
「そういうのがイライラするんです!」
それだけ言うと、さっさと出て行ってしまった。
後には妙な静けさと、少しの寂しさが残り、どうしようもなく、胸が痛んだ。
***
その後、買い物から帰ってきたシュナは、もう挨拶すらすることはなく、飯だけを作って2階に引きこもってしまった。
現在の時刻は9時。まだ晩飯には手をつけていないが、俺の体力も大分回復し、体の節々は痛いが、一人で歩いて回れるようになった。
さっきから、シュナのことが頭から離れない。あんなシュナの顔は、初めて見た。怒っているけど、とても悲しそうで……。
「どうするかなぁ…」
呟いてはみるが、どうしたらいいかなんてごく簡単なことだ。ただ、シュナに話せばいい。俺の、心の奥深くに閉まった過去、思い出。ジェスチャーをつけながらヒステリックに語るんだ。そうすれば、シュナはきっと俺を許してくれるだろう。でも…。
「それじゃ…ダメだよな。うん、アドリブでいってみるか」
俺は大丈夫と自分に言い聞かせると、2階へ向かう。コンコンとドアをノックして、呼びかけた。
「シュナ、そのままでいいから、少しだけ聞いてくれ」
返事は無い。しかし、俺はドアに背をつけてよりかかると、一方的に話し始める。
「俺、昔から運が悪いんだ。祭りのくじだってスーパーボールしか当てたことないし、ジャンケンだってほとんど勝ったことが無い。兎に角、最初はそんなもんだった」
できるだけ明るく言おうと思ってたけど、どうしようもなくて、だから…適当に思いつくままに話した。
「多分、神様に嫌われたんだろうな。俺のせいで姉が死んで、妹も死に掛けて、怖くなった。大切なものを、どうしても失いたくなかった。だから、ここまで逃げてきたんだ。でも、こっちでもシュナに迷惑掛けて……」
全然的が絞れていない俺の発言。自分でもいかがなものかと思う。自分の言語力の無さに嫌気が差し、グダグダになってしまったことを後悔する。
「いい、忘れてくれ…」
俺は、左手で頭をガシガシをかきながらズルズルと床にへたり込む。その時、シュナの声が聞こえた。
「でも、私はあなたに助けてもらいました」
ドア一枚を隔てているはずなのにシュナの声がよく響いた。
「え?」
「あの時、もうだめかと思いました。怖くて、助けてほしくて…。そうしたら、あなたが来てくれました。嬉しかった。颯爽と現れて、やられても…やられても立ち上がって、最後には運まで見方にして勝利を収めた。まるで、特撮映画のヒーローのように」
シュナの声が少しだけ揺れたような気がした。ヒーロー、少しだけ昔の懐かしいその単語に、俺の体は妙に反応した。
「あれは、あなたのせいなんかじゃない。むしろ、あなたのおかげで私は無事でした。というより、あなたのせいで私が襲われるなんて、うぬぼれもいいところです」
シュナが鼻をふん、と鳴らして毒づいた。
俺は、もしかしたらシュナにこう言って欲しかったのかもしれない。
――あなたのせいじゃない――
瞬間、俺は拳を床に打ち付ける。
相変わらず、都合良い考えだ。逃げたんだぞ。逃げてここまで来たんだぞ! どれだけ自分を肯定するつもりなんだよ!
「逃げたって、良いじゃないですか」
「ん?」
俺、喋ってたのか? そんな疑問を頭がよぎったが、すぐにシュナの言葉にかき消された。
「逃げてもいいと思います。逃げるのは、負けたってことじゃない。何回逃げても、隠れても、最後に向かっていけば、それは戦ったってことだと思います。逃げるのは、それまでの準備期間。ヒーローだって、逃げ出したい時もあるんじゃないですか? しかも今回の敵は、なかなかに強敵のようでしたので」
ゆっくり、丁寧な言葉を使って説明するシュナ。その言葉は俺の中に浸透していき、少しずつ満たしていく。
「現実には、うまくいくことよりいかないことの方が多いかもしれません。むしろ、嫌なことだらけだと思います。でも頑張れば、必ずいいことがあります。神様は、きっと笑ってくれます」
俺の考えとは間逆の言葉に、妙な納得を覚えた。
「私は、そう父に教わりました」
父、多分、敦のことではないと思う。亡くなってしまった父親のことだろう。
「……良い人だな、お前のお父さん」
「ええ。私も尊敬しています」
「そっか」
まぁ色々思うところはあったが、とりあえず仲直りはできたみたいだ。俺がドアから背を離した時、不意にシュナが口を開いた。
「あなたは、何も届かない世界を知っていますか?」
意味深なシュナの一言に、俺は困惑する。
「は?」
「苦しくても、我慢して、助けて欲しいのに、そんな素振りは全く見せない。矛盾がせめぎあった、不思議な世界です」
「な、何言ってるんだ?」
必死で否定したかった。
「全て自分の中にしまい込んで、まるで何もなかったかのように振る舞い、心はどんどん黒ずんでいく」
「おい、さっきからどうしたんだよ?」
まるで、自分の心が見透かされているようで。
「どうしたって、自分が信じられない。自分が大嫌いで、殺したくてしかたがない。そんな世界を、私は知っています」
「……」
それは、昔のシュナ自信を指しているのか、俺を指しているのか、わからなかったけど、少なくとも今は俺に向かって発せられた言葉。
それ以降、シュナが言葉を話すことは無く、結局シュナが何を言いたかったのかはわからない。何分かの間の後、シュナが口を開いた。
「ご飯、食べました?」
「いや、まだだけど」
「では、食べてください」
「シュナはどうする?」
「後で食べます。自信作ですので、後で感想を言いにきてくださいね」
「わかったよ」
俺は、シュナの言いつけ通り一人リビングに戻り、シチューを温める。結局、シュナは何が言いたかったのか? それは分からないし、考えても意味が無いことはなんとなくわかってた。けど、今日でシュナとの距離が少しだけ縮んだ気がする。良い具合にあったまったところで味見をした。
「うん……美味い」
シュナの作ったシチューは、とても暖かい、家族の味がした。
後日談だが、夜になって歯を磨く時にやっと気付いたことがあった。
俺の前歯が一本無い。ちくしょう! あのボクサーめ! と呪われるくらいにぼやきまくった。
今頃はきっと俺の呪いで風邪でもひいてるんじゃないかな。