30/どうでもいい
結衣が事故ったという連絡が来てすぐに、俺は俳桜へ戻った。
すみれさんとのふざけた楽しいやり取りは無く、静寂がわがもの顔で居座っている。
何時間も掛けて俳桜に戻った時には、結衣の応急処置も終わっていて…。
急ぎ足で病院に入ると、病院独特の消毒液のような臭いが鼻につく。ロビーには見知った顔がたくさんあった。
加奈子さんに訓さん、彼方に神谷に瀬戸と桜ちゃん、香奈ちゃん。それと、知らない顔の男が一人。まぁ、そんなことはどうでもいい。
どうも完璧乗り遅れたって感じで、俺に注がれる視線は冷たい。これでもすっ飛ばして帰ってきたんだけどな…。
「502号室だから。見に行ってあげて」
加奈子さんが、俺の目を見ないで呟く。俺は誰とも一言も口も利かず、目を合わせることもなく病室へ急いだ。
エレベーターを待ってられなくて、階段ですっ飛ばした。走っちゃいけないとわかってても、全力疾走してしまった。
看護師の注意も聞かずに、病室の扉を力一杯開け放った。
「結衣…」
一人部屋の病室。そのベッドの上には、寝ているだけなのか、意識が無いだけなのかは分からないけど、安らかに目をつむっている結衣の姿があった。
見えるだけでも両足・腕に包帯。顔にガーゼを張っている。心が…痛んだ。
「どんな気分だ?自分の義理の妹が事故ったってのは?」
不意にドアのところから声がした。敵意がむき出しで、挑発していることは明らかだ。
俺は、その声の持ち主を確かめる。
「誰だお前?」
そこにいたのは、ロビーにいたただ一人の知らない男。
「ただの結衣のクラスメイトだよ。それより、さっきの質問に答えてよ」
「喧嘩売ってんのか?」
もはや流す余裕さえ俺には無く、挑発を真正面から受け止めてしまった。
「喧嘩売ってんのはどっちだよ?誰のせいでこんなことになったと思ってる?」
「はぁ?」
そいつがそう言った時、息を切らした桜ちゃんと香奈ちゃんが現れた。
「涼!よしな!」
桜ちゃんが叫ぶ。涼と呼ばれた少年は、舌打ちをして病室から出て行こうとする。
「待てよ。どういう意味だよ?」
俺がそういうと、涼は俺の目の前まで歩いてきた。そして、俺の目をまっすぐに見据えて言う。
「結衣はあんたを探してて事故ったんだ」
それだけ言うとさっさと病室を出て行ってしまった。
どういう意味なんだよ。さっぱり分からない。
「…どういう意味だよ…桜ちゃん、何か知ってる?」
「え?いや…」
桜ちゃんは答えにくそうに口をもごもごさせている。香奈ちゃんは、俺から目をそらした。どうやら、知らないのは俺だけらしい。
「教えてくれよ。頼むから」
俺の頼みを、桜ちゃんはおずおずと聞いてくれた。
「あのね、なんか蓮兄がいなくなってから妙に結衣取り乱しちゃって…。お兄ちゃん探しに行くって出てったっきりで…それで…」
「それで?」
「涼がたまたま会って一緒に探してたら、交差点の向かい側にいる人を蓮兄と勘違いして…それで赤信号なのに走って…。涼がすぐに手を引いたんだけど、足だけぶつかっちゃったんだって…」
桜ちゃんは徐々に目に涙をためていて、これ以上は酷だと思った。
「うん。そっか…。よく話してくれたね。ありがとう」
俺は少しだけ笑って桜ちゃんの頭を撫でる。
そう俺は笑った。微笑?違う。苦笑い?違う。ただの自嘲。
結局は、全部俺のせい。今朝の誓いが、まるで嘘のような現実。
その時、今まで黙っていた香奈ちゃんが口を開いた。
「涼も泣いてました。自分がもっと早く手をひけたらいいだけの話だったって。俺のせいだって。それでも、涼はあなたにあんなことを言ったんです。涼はただ悔しかったんです。突然やってきたあなたに取られて結衣ちゃんは…涼の大好きな人だから」
なるほどしっくりくる答えに、妙に納得がいった。あれだけ可愛くて分け隔ての無い接し方をする結衣だ。好きになる人だって沢山いるだろう。
「だから…あんまり涼を刺激しないであげてください」
香奈ちゃんは本当に優しい子だと思った。周りがよく見えて。俺なんかよりずっと大人で…。正直涼ってやつのことはどうでもいいけど、香奈ちゃんのこんなにも優しい言葉を無下にすることはできなかった。
「あぁ、わかった。結衣も幸せ者だな…そんなに思ってくれる友達がいて」
その言葉には、香奈ちゃんも桜ちゃんも笑ってくれた。
そんな笑顔は、今俺が浮かべている笑顔とはまるで別物。俺はただの自嘲。
「どうなんだ?結衣の怪我は?」
「涼が手を引いたお陰で、両足の骨折だけで済みました」
あくまで涼を肯定する香奈ちゃん。もう分かったよ。
「そっか」
でも命があったのは、本当に良かった。
「少し訓さんと話してくるよ」
俺はそういい残して、病室を後にした。
行きとは違ってゆったりとした足取りで、俺は階段を降りていく。
さっきの看護師が俺を睨んだ。俺は、困ったような顔を作ってお辞儀で返す。
ロビーでは、さっきとなんら変わらない配置で人が座っていた。ただ、涼ってやつの姿がないのと、香奈ちゃんと桜ちゃんが座っていた席が開いているだけだ。
「訓さん、話があるんだけど」
「ちょうど良かった。私も蓮に話たいことがあったんだ。ちょっと、場所を移そうか。車で話そう」
そう言って歩き出す訓さん。これから何を言われるのか。
駐車場の隅に止めてあった車に乗り込み、しばしの無言の後、訓さんが口を開く。
「で、話ってのは?」
「訓さんからでいいよ。もしかしたらかぶってるかもしれないし」
「そうか。色々ごちゃごちゃになってしまうんだけど…いいかな?」
「うん」
ふう、と深呼吸をしてから訓さんが口を開く。
「実はね、結衣には本当の兄が居たんだ。血のつながったね。でも…」
「結衣と遊園地に行った日に死んでしまった」
「よく分かったね」
訓さんが意外そうに言う。
「この前遊園地に行った日に、少し思うところがあったんでね。何かあると思ってたけど…。まさか実の兄とはね」
そう、実のところ引越した日から何かあると思っていた。制服にしたってそうだ。買いにいったわけでもないのにある。3人家族のはずなのに、何かと買ってあるのは4人用。実の兄でなくても、もう一人くらい誰かいたような気がしていた。
「ここからは、思い出話になってしまうんだけど…聞いてくれ」
一呼吸置いてから、訓さんは語り始めた。一つ一つ、思い出すように。大切なものを、引き出しの中から取り出すように。
「実は結衣、記憶喪失なんだ。小さい頃からお兄ちゃんっ子でね…。ずっと兄にくっついて回ってたよ。兄が死んだ時、多分脳が自分を守るための自己防衛なんだろう。兄が死んだことはおろか、居たことさえ忘れてしまった」
訓さんは苦笑いを浮かべる。
「死んだ人間は…思い出の中でしか生きられない。ならせめて、大好きだった妹には覚えておいてほしいじゃないか。でも、それは叶わなかった。無理に思い出そうとすれば、結衣が苦しむ。でも、結衣はいつもどこかつまらなそうな顔をしていたよ。そう尋ねると、首をかしげてこう言うんだ。結衣にも分からないってね。そんな時だよ、一ノ瀬に彼方君がやってきたのは。結衣のやつ、随分羨ましがってね。やっぱりこの子は忘れているだけでお兄ちゃんっ子なんだなって…。そう思ったよ」
多分、亡くなった息子を思い出しているんだろう。訓さんの声が震えている。
「そして、加奈子と結衣と養子を取ってみようかなんて…。冗談だけどそんな話をしてたんだ。そんな話をしている時にね、結衣が君の話をしだしたんだ。彼方君から聞いたんだって、嬉しそうに話してた。それから、結衣は彼方君に君の話を聞いては、私たちに話してくれたよ。いろんな話しがあった。喧嘩の話しとか、買出しの話しとか、学校での話とか…それを聞くうちに、私も加奈子も、どんどん君が好きになっていった。それでさ、偶然君の孤児院の院長と加奈子が知り合いだったんで、結衣に内緒で一度だけ君に会いに行ったんだよ。その時は君には会えなかったけど、院長から君の話を色々聞かされてね。君の境遇も、その時知ったんだ」
「院長、なんて言ってた?」
「院長、君のこと随分気にしてたみたいだよ。なんとか君に里親を見つけてあげたいなんて言ってね…」
「そんな感じで、半分結衣と君のため、半分好奇心であとは少しのノリであんな強引に引っ張ってちゃったってわけさ」
そう言ってはははと少しだけ笑った訓さんは、最後にこう言った。
「ご清聴、ありがとうございました」
これで、訓さんからの話しは終わり。ずっと気になっていた謎も種明かしをすればなんでもないものだった。俺は、結衣の本当の兄の代わりだったってこと。多分、いろんな人の気持ちが色々な方向に交差してでた結果であって、加奈子さんも訓さんもそんなことをする人じゃないことは分かってる。院長だって多分あれだ、俺に本当の愛を知ってもらいたいなんて出来心で思ったんだろう。前にそんなこと言ってたような気もするし。それでも、結果的に見ると俺はただのスペア。そんな人の気持ちを踏みにじった考えしかできない自分を、本当に殺したくなった。
ポツポツポツと、雨が降り始めた。空には暗雲が立ち込め、地面を黒い斑点が覆っていく。まるで、俺の心を表しているかのように。
「俺…帰る」
そう言って俺は車から降りた。
「あれ?君の話したいことは?」
「…もういいんだ。帰る」
「でも雨だよ?」
「歩いて帰りたいんだ」
俺は背を向けた。しかし、少し気になったことを聞いてみる。
「結衣の本当の兄の名前は?」
「…蓮」
予想通りの答えに、俺は少しだけ笑って、歩き出した。
雨に打たれ、行く当ても無くとりあえず適当に歩いていく。そうしているうちに、少しだけ頭が冷えてきて、思った。
母の死・元の家族・結衣の事故。
運命ってのは一気に俺に襲い掛かってくるのが好きらしい。
「…結衣…ごめんな」
雨か涙か…分からなかった。
俺は、いつのまにか繁華街の方へ歩いていた。
それがただの偶然なのか、それとも俺が無意識に寂しさから賑やかな方へと歩いているのか。
しばらくは何も考えずに歩いていたのだが、だんだんと目の前にある問題が山積みになっていることに気付く。
それでも俺は、こんなことしか思わなかった。
――面倒くさい――
何もかもが、どうでもよく感じた。せっかく、やっと一歩を踏み出せたかと思ったのに。でもそれを、神様は許しちゃくれなかった。その中に、どうでもよくないことが1つ。
みんなを、なんとかしないとな。
俺は、神様に嫌われた。これ以上、結衣のそばにいられない。いや、いちゃいけない。
ある悪魔のような記憶が、方程式のように過去と未来を繋ぐ。
過去の俺の一番身近な存在…姉。今の一番身近な存在…結衣。
結衣だけじゃない。訓さん、加奈子さん、ハル、タマ、彼方、神谷、瀬戸、桜ちゃん、香奈ちゃん、すみれさん。
誰しもが俺にとって大切な人。その人たちを、これ以上苦しめることなんてできない。
7年前、母親に言われた一言が蘇る。
――この人殺し――
「はっ…くくく……」
まるで笑う人形のような気持ち悪い笑い声があたりに響く。
そうか…。そうだな。気付かなかったよ。みんなをどうにかする必要なんて無い。
俺が、消えればそれで済む。
妙に心が軽く感じた。