20/俺の妹は救世主
「結衣……」
「もうやめてよ……お兄ちゃん……」
頭が………真っ白になった。
頭が回らない。
俺はその場で固まってしまって、気付けば芹沢は俺を押しのけてどこかへ行ってしまった。
「…」
状況が良く分からない。
なぜ結衣がここにいる?環さんが呼んだのか?いや、連絡先なんて知らないはずだ。仮に知ってても、間に合わない。
「お兄ちゃん…」
「…」
見られた…結衣にだけは、見られたくなかったのに……。
「お兄ちゃん…!」
「え?」
「帰ろう、お兄ちゃん」
結衣が笑顔を見せてくれた。でも、俺が安心することはない。
「…あぁ」
「先輩も帰りましょう」
「う、うん」
環さんはまだ状況が読めていない。でも、一応一件落着か…。
右の拳の痛みが……妙に虚しく感じられた。
帰り道、俳桜でバスをおり、自宅への道を歩いている。先頭に結衣が歩き、その後を環さん、俺って順で歩いている。
相変わらず俺のしょぼい脳みそは活動しておらず、どうしていいのか分からない。
「蓮…」
いつのまにか環さんが隣にいた。
「あの子、妹?」
「…うん」
「なんか、ごめんな。巻き込んじゃって」
そんなことはどうでもいい。どうでもいいんだ……。
「それと、ありがとう。怒ってくれて…なんか嬉しかった」
少し頬を赤らめながら環さんは微笑んだ。
だから、そんなことはどうでもいいんだ。そう言ってくれるのは嬉しいんだけど……。
今は、そんな場合じゃないんだよ。
俺の無反応に少し悲しい顔をしてから、環さんは俺から少し離れた。
「じゃあね、蓮、妹ちゃん。今日はごめんな」
帰り道の曲がり角で、環さんと別れた。別れ際に結衣に環さんが耳打ちしてたのが、少し気になったが、今の俺に発言権なんか無さそうだ。
それからは、終始無言。
結衣はずっと前方を見っぱなしだし、俺は俺でなんて声をかけていいのか分からない。
というか、話たくなかった。
2人きりになると、どうしても考えてしまう。
結衣は、俺を見てどう思ったんだろう。
結衣のあの瞳、芹沢を殴りつける俺を見る結衣の瞳は、明らかに怯えていた。
右の拳が、また痛んだ。
今ではもうお馴染みとなった大きな門を抜け、大きな玄関を開ける。
家の中には誰もおらず、結衣と2人きり。
「お兄ちゃん、そこで待ってて」
結衣が口を開いたのは、25分と37秒ぶりだった。
結衣が示したそことは、ソファーのことだろう。
俺はソファーに座ると、まもなくして結衣が救急箱を持ってやってきた。
慣れた手付き……ではないが、テキパキと応急処置をしてくれる。
俺の拳は、真っ赤に晴れ上がっていた。それは、俺が何をしたのかを、結衣に伝えているようだった。
「手…真っ赤だね」
結衣が俺の手を見て、悲しい顔をした。
「うん…」
「痛い?」
「ちょっと…」
結衣が、俺の手を両手で強く握った。
「喧嘩した訳、聞かないのか?」
「さっき、環さんに聞いた。お兄ちゃん、バスの中でずっとぼーっとしてたでしょ?その時に聞いたの」
俺が放心状態になってる時ね。
「よく俺の場所が分かったな」
静寂が嫌で、適当な疑問を結衣にぶつけた。
「…凄い嫌な予感がしたの。だから、いてもたってもいられなくなって…。お兄ちゃんの携帯GPSついてるでしょ?それで居場所が分かったの」
なるほどね。便利な機能が仇になったって訳だ。
再び静寂が訪れた。
何分、こうしていたんだろう。
俺の頭の中では、ある1つのことで一杯だった。
他のことを考える余裕なんてなく、まるで催眠術にでもかけられているかのように。
「怖かったろ?」
俺がずっと考えてる一言を、無意識の内に口走っていた。
「え?」
「あいつ殴ってる俺見て、怖かったんだろ?」
無意識に俺の口調が強くなる。
「そんなことないよ」
「本当のこと言えよ!」
さらっと否定されたことに、なぜだか腹が立った。
「本当だよ!そんなこと…ない…」
結衣は言い終わらないうちに、目に涙を溜め、すぐに目からこぼれ落ちた。
しまった……と、そう思った。俺は、結衣に謝ったり、慰めたりはしなかった。そんな資格さえ俺にはない気がしたから。
家の中には、結衣がすすり泣く声だけが響く。
俺はどんどんその場にいるのがいたたまれなくなり、逃げた。
家を飛び出し、ただガムシャラに走った。
逃げることしかできない自分が、情けなくて、辛くて、でも、向き合うのも怖くて…。
でも、少しでも前に進みたくて………ただ、走った。
それが一体どういう意味合いなのか、そのほとんど脅迫的に込み上げる思いが、どこからくるものなのか、何一つ分からないが、全力で走った。
***
気付けば、そこは俺の知らない森の中で、人家の明かりは、遥か遠くに見えるだけで、まるで、地球上に俺一人しかいないみたいだった。
一人は、とても寂しい。
寂しいけど、ここは随分落ち着くところだ。ここで…このまま死んでもいいかなと、そう、思った。
俺は手短にある木の根元に腰を下ろし、目をつむる。
俺の17年の人生、色々あったが、いい人生だったと思う。
最後の最後で、家族の暖かさに触れることができた。
最後の最後で、大切なものを見つけることができた。
最後に、嫌われてしまったけれど…それでも、藤宮家で過ごした一ヶ月間は、俺にとって、かけがえの無いものになったと思う。
できれば、もう一度、結衣に合いたかったな。でも、もうあそこにはいられない。
俺は、背中にある木の安心感に包まれながら、いつのまにか、眠っていた。
俺の頬に、一筋の涙が零れ落ちた。
***
「お兄ちゃん?こんなところで寝てたら風邪くよ?」
不意にかかる一言。それは、ここにいるはずの無い人物の声。
「結衣?」
目を見開かずにはいられなかった。
「迎えに来たよ」
「結衣!」
俺は、躊躇うことなく抱きしめた。
「良かった…また会えた」
「私も…。お兄ちゃん、どこか凄い遠くにいっちゃって、もうあえないかと思った」
しばらく俺は、結衣に抱きしめられて泣いていた。多分、安心の涙だと思う。
「ごめんね、お兄ちゃん。私、最初は怖かった。喧嘩しているお兄ちゃんが…お兄ちゃんじゃないように感じたの。でも、ちゃんと理由を聞いたらね、やっぱりお兄ちゃんはお兄ちゃんだった。私の大好きな優しいお兄ちゃんだったよ。だから…お兄ちゃんは何も悪くないんだよ」
まるで小さな子供に言い聞かせるように、結衣が言う。
とてもとても優しい言葉。
「でも結衣…泣いてたじゃないか」
「あれは……ちょっとびっくりしちゃって」
恥ずかしいのか、結衣は少し頬を赤らめた。
「帰ろう、お兄ちゃん」
え?
「……いいの?」
「だって、家に帰るだけだよ?私の家はお兄ちゃんの家。一緒に帰りたいな」
「うん…!でも…」
「でも?」
「もう少し…このままでもいいか?」
「もちろん!」
俺と結衣は、もう一度お互い抱きしめあった。
***
夢を見た。森の中で寝ている俺を、結衣が迎えに来てくれた夢。
俺は嬉しくて…嬉しくて…結衣の胸の中で泣いていた。
なんか、色々とぶっちゃけちゃった気もするし、家に帰った後、そのまま結衣と抱き合いながら寝てしまった気がするが、夢なので、気にすることはないだろう。そう、全部夢なのだ。
それにしても、ここは随分気持ちいい。
目をつむっていても、暖かい陽だまりの中にいるのが分かる。
ふかふかの布団も、格別だ。
……………………へ?
ふかふかの布団?なんで布団?天国って布団完備?
「お兄ちゃん?いつまで寝てるの?」
なんで?なんで真隣から結衣の声が!?
怖い!目を開けるのが非常に怖い!
「知ってるんだよ〜、おきてること♪」
結衣らしき人物が抱きついてきた。
いやいやいや、これ夢だは。
うん、夢だ。
あれだ、なんか、こう、なんかあったんだ。
天国ってのはこんなもんなのかもしれないし。
もう一眠りしたら、しっかりとした天国に行けるだろう。
「も〜!起きろ!」
結衣らしき人物が俺から布団をひっぺがした。
俺はあまりに突然のことに、目を開けてしまったわけで…。
視界に入ってくるのはマイルーム。そして、俺はベッドに寝ているわけで、結衣は横で笑っているわけで………。
ああ、なるほどね〜、昨日のあれは夢じゃなかったのか。
あはっあはは!
はぁ………。
俺の兄としての威厳が崩れ去った一日だった。