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それはある日のことだった。場所は泊まっている宿の屋上。夜の帳は当の昔に落ちており、辺りは暗闇につつまれてた。上を見上げれば、星なんか見えもしない、さほど高くもない建物の屋上なのでそこら中にバーだったり、飲み屋だったりのネオンが輝き星の瞬きを邪魔しているからだ。ソウルに来てようやく晴れたというのに星は拝めそうもなかった。残念なことだ。
そして、どこからか酔っぱらいの声が聞こえてくる。草木も眠る丑三つ時だというのによくやるものだ。
韓国の首都はソウル。その中心部付近のここは学生街と呼ばれる街であり、焼肉屋や飲み屋、バーなどが乱立し、日本の繁華街よろしく眠らない街と化している。眼下に広がるその光景にどこか懐かしい郷愁も感じながらも、ネオン群のハングル文字がここは異国だと物言わず語っていた。どうやら片田舎とはいえそこの中心部で育ってきた俺にとっては郷愁を感じる風景とは田舎の田園でもヒグラシの声でも清流のせせらぎでもなんでもなく繁華街のネオンに酔っぱらったおっさんの叫び声のようだった。
吸い終わったタバコを灰皿に捨て、もう一本とタバコに火をつける。もともと俺は生粋のチェーンスモーカーだ。平気で数本は連続で吸う。体に悪いんだろうがやめるつもりはさらさらない。今では辞めたほうが体に悪いと胸を張って言えるくらいだ。
「そんなにタバコってやつはおいしいのかい?」
そんな屋上に一緒に来ていた黒猫が問いかけてくる。ベンチにすわり尻尾をゆらゆらとさせているその姿は夜の帳が降りた今、黄金の瞳だけが不気味に輝いており、なんとも不気味だ。
「おいしいね。と、いうよりもおいしくないと吸わないだろ」
ふぅと煙を大きく吸い込み吐き出す。白い煙はまっすぐと上へと昇っていく。
「確かにそうだね。でも、少しばかり吸いすぎちゃいないかい?」
「そうか?」
「うん、キミ間違いなくソウルに来てからの食費よりもタバコ代のほうが多いでしょ」
確かに黒猫の言うとおりである。こっちに来てからのお金の使い道は食費をダントツでぶっちぎってタバコと酒代である。いや、このままいくと酒とタバコ代が宿代を抜いて堂々の一位となるのも時間の問題だろう。
「確かにその通りだが、別に普通じゃないか? 日本にいた時もそうだったじゃないか」
そう、俺が日本にいたときも概ねそんな感じだった。タバコのために食費を削るなんてことはよくやったものだ。何せお金がなければタバコは買えないからな。資本主義社会において資本は大事である。
「確かにそうだけど、海外に来たなら少しは自重したほうがいいんじゃないかな。ほら、このままいけば路銀がタバコ代だけでなくなっちゃうよ」
「そんときはそんときだろ。どうせ路銀と言っても確か額じゃないし、どうせ日本にいたってタバコと酒とギャンブルに消えるだけだから、いいんじゃないか」
日本にいてもなくなっていた金なら海外で使ったほうがいいだろう。そっちの方が何十倍も有意義だ。
「そうか……。キミがそれでいいならボクもそれでいい」
「大丈夫、路銀が本当にやばくなったら、宿代削るからさ」
タバコ代を浮かせるためなら野宿も辞さない考えである。
「それは大丈夫じゃないだろうに」
そういいながらも黒猫は笑う。馬鹿は死んでも治らないんだ。だから、俺は死ぬまでこのままなんだろうね。
「大丈夫じゃない時は大丈夫じゃない時さ」
そういって俺も笑う。
「あ、そういえば一つ聞きたかったことがあったんだ」
黒猫は何かを思い出したように口を開いた。そして、黒猫はそのまま俺の膝の上にポンッと飛び乗った。
「ん? 何かあったのか?」
「いや、この前の話になるんだけどさ。なんで、キミはあんなバレバレの詐欺に引っかかったんだい?」
黒猫は俺の膝の上で丸くなる。
「あぁ、あれか――」
黒猫が言っている詐欺とはあのよれよれの服を着た男の話だろう。街を探索中に偶然出会った男の話。彼との詳しい話はまた機会があるときにゆっくり話そうと思う。ぜひコーヒー片手にパンケーキでも食べながら話したいことだ。
「いくらキミが馬鹿でもあれが詐欺だってことくらいは分かったでしょ?」
「確かにあの男は怪しかったな」
燃えカスになったタバコを灰皿に投げ入れ、もう一本箱から取り出し、吸う。
「なら何であんな詐欺に?」
黒猫の問いに俺はゆっくりとタバコを一服した後に答えた。
「俺は――安い詐欺には引っかかるようにしているんだ」
あの時俺が払った金額は日本円にして約3000円。安いといった金額ではないかもしれないが、日本でパチンコにつっこむ金額に比べたらゴミのようなものだ。ちなみに俺がいう安い詐欺とは値段が安いという意味と演技が安いという意味がある。ちなみにこれは海外だから引っかかったわけであり、決して日本や日本人相手では引っかかってはやらない。
「何それ。呆れたよ」
「まぁまぁ、そう呆れるなよ。それとクロ。俺はね、こう思うんだ。俺がバイトで金を稼ぐのと詐欺師が詐欺で金を稼ぐのに、どれくらいの差がある?――そう、そんな違い何に等しいんだ。確かにそこには善悪、つまり善行か悪行かの違いはあるのかもしれない。だけど、資本主義経済においてはそこに稼いだという漠然たる結果があればこと足りるんだ。善悪の違いなんて些細なボタンの掛け違いでしかない。善人はまっとうに働いてお金を得る。悪人は悪行を働いてお金を得る。ほら、善人も悪人も働いているじゃないか。だから両者にそんな違いはないってことさ」
「…………………」
黒猫はあるで睨み付けるように俺を見上げる。金色に光るその瞳はいつだって力強く、現実を見つめてきた。俺にはとても出来なかったことを彼女はしてきたのだ。俺にはその瞳は憧れであるのと同時に遥か昔に置いてきたものだった。
「それにさ、クロ。もしかしたら、あの人は本当にお金に困っていたかもしれないじゃないか」
そう、詐欺にあったと考えるよりか本当に必要だったと考えた方がよっぽど前向きで俺らしい。
駆け引きとか、損得とか、善悪とか、そんなものは俺のウルトラポンコツスペックの頭じゃ考えるだけ無駄だ。どうせ、何も理解できないままに終わるに違いない。それなら考えるだけ無駄である。どんと しんく、である。
「キミがそう思うのならそれでいい」
黒猫は最後にいつも通りにこう言った。
さて、と暗闇に向かって煙を吐きながら、俺はベンチの上に置いていたカメラに手を伸ばす。もうかれこれ十年以上前に発売された型のデジタル一眼レフ。黒色のそのボディはところどころで小さな傷があった。扱いが雑な俺の手元に回ってきたのが、こいつの運の尽きだったようだな。
そしてゆっくり、電源をつけ、今までとった写真を眺める。俺が中古で手に入れたのが四年前くらい、今までとった写真は約3000枚だ。これが多いのか少ないのかは分からないが、俺はこれだけの枚数の写真をこのカメラでとってきたことになる。画質はどう考えてもアイフォンの方がいいし、持ち運びにも不便だ。だけど、俺はこいつで撮る写真が好きだった。
閑話休題。
「さて、とこでクロ、俺は一つ決めたんだ」
今まで取った写真をスライドさせながら俺は静かに黒猫に言った。
「何をだい?」
黒猫は相変わらず俺の膝の上で丸くなっていた。どうやら動く気はないようだ。
「うん、前々から思ってはいたんだけどさ――俺、この旅で写真を撮るのやめるよ」
そういって写真をスライドさせていた手を止める。
「写真を撮るのをやめるって……。もう、写真を撮らないわけ?」
「うん、その通りさ。どうせ撮っても下手くそな写真だし、それならいっそ、とらないことにするよ。それに俺は写真を撮りに海外に来たんじゃない」
考えてみればおかしかった。俺は海外に写真を撮りに来たのではなく、海外に放浪にきたんだ。いつの間にかそれが写真メインになってしまっていた。普通の旅人ならそれでいいのかもしれないが、俺はもちろん普通ではない。普通なんて言葉は遥か遠くに忘れてきた。俺は俺だ。なら、俺のあり方を変えるわけにはいかない。変える可能性があるものは全て破棄していく。
「でも、いいのかい? 写真を楽しみにしている人もいるだろうに」
「クロ、俺は写真を撮りに海外に来たわけではないんだよ」
カメラが俺が俺らしくあるために邪魔になるなら、使わない。人間が生きるに必要なのはカメラでも携帯でも、ノートパソコンでもない。生きるという意志と、心臓と脳みそだ、それがあれば事足りる。人間という生き物は案外単純なのだ。
「確かにそうだけど……」
「別に写真を撮らなくても皆に伝える手段はいっぱいあるよ」
「例えば?」
「うーん、そうだね。例えば文章とかどうだろう? 俺の下手で拙い文章でも情景を伝えるだけならそれで事足りるんじゃないかな?」
「百聞は一見に如かずっていう言葉があるようにどれだけ言葉を並べても文章は写真には勝てないんだよ」
「それを言うなら写真で見ることよりも実際に行って見たほうが何倍も何十倍も速いよ。それにね、それがいいんだ。百聞は一見に如かず。俺はすぐに答えを求めるのが嫌いでね。一見よりも百聞の方が好きなんだ」
世界一周した人のどのブログをみても、どのツイッターアカウントを見ても写真が載っている。それが絶景だったり、人だったりするが、どれも俺の写真の腕前に比べたら神様レベルにうまい。俺の下手な写真を見るよりかは、よっぽどその人たちの写真を見てもらった方が時間の無駄にならなくて済むはずだ。
「やっぱり、ボクはキミが分からないよ。でも、キミがそれでいいなら、それでいい」
たまには世放浪者でも写真を全く撮らずに文章だけでその良さを伝える人間がいてもいいと思うんだ。人間は面倒な生き物だ――でも、俺はその面倒臭さが好きだったりするんだ。
「うん、そうするよ。さて、明日はいよいよ別の国に出発だ。今日は最後の韓国、思いっきり飲むぞー!」
「はぁ、呆れたよ。昨日みたいに飲みすぎて吐かないように注意してよね」
ゆっくり立ち上がった俺の方に飛び乗りながら黒猫は笑った。