表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

僕がボサノバを詠う日

作者: 溝上翔

午前2時の追分交差点。どういうわけか、僕は冷たい雨に打たれながら歩いていた。どうしてこんな時間に追分交差点を、それも濡れながら歩いているのか。僕はまったく思い出せない。午前0時ごろに三崎町近くのジンギスカン屋を出たのは何となく覚えている。そうだ、僕はあの時したたかに吐いたのだ。その後、中田さんに介抱されながら僕は歩いていた。それからというもの、2時間ほど記憶を失っている。


 雨に打たれながら歩道橋を降りる。どうにかして犬目町の方に帰らねばならない。僕には天気予報を見ないという悪癖がある。そのせいで、急な天候の変化にいつも対応できないのだ。今日もそうだった。天気予報を見る余裕があったはずなのに、僕はそうしなかった。それがいけなかったのだ。その度に反省するのだが、つい忘れる。3月とはいえ、まだまだ夜は冷える。


 とりあえず、元本郷町を目指そう。僕は何とかして秋川街道に出ようとしている。体が冷える上に、睡魔が襲ってきた。力尽きそうになる自分を叱咤しながら、僕は元本郷町へと急ぐ。そういえば、以前にもこんなことがなかっただろうか。やはり、あれは冷たい雨の夜だった。後輩のボイスパーカッションを見に、八日町のナイトクラブへ行った夜のこと。午前3時にクラブを出て、家路につくとき、やはり今日のような氷雨が降り注いでいた。この日もいつものように傘を忘れ、濡れながら帰った記憶がある。あの時はまだ意識があったからよかった。しかし、今日は違う。2時間ほど記憶を失っているのだ。気味の悪い話であるが、受け入れざるをえない。


 3月の氷雨は徐々に僕の体力を奪っていく。もはや帰宅しようという意欲も失われてきた。どこか休めるところを。そう思っているうちに、チェーンのカラオケボックスを見つけた。ここだ。ここで休もう。僕はカラオケボックスの扉を開く。


 「いらっしゃいませ。」

 「あのー、とりあえず、3時間ほどお願いします・・・・・。」

「フリータイムの方がお得ですよ。」

「ではそれで・・・・・。」

もうろうとした意識の中で、僕は受付を済ませ、部屋へ入る。6番の部屋。僕はソファーに横になると、気が付けば気を失っていた。


5時ごろ、目が覚めた。いったい、ここはどこだろう。皆目見当がつかない。あたりを見回すと、マイクに、モニター、音響装置。どうやら、カラオケボックスにいるようだ。なぜ、こんなところにいるのか。僕はどうにもわからなかった。ふと、額に手をやると、小さな傷があった。まさかと思い、トイレへ行く。鏡を見ると、鼻筋が血で染まっていた。とりあえず、小便を済ませて、6番の部屋へと向かう。


 どういうわけで、カラオケボックスにいるのかわからない。しかし、ここに来たからには、何か歌おう。そう決めて、曲検索のタッチパネルをカゴから取り出す。だが、何を歌うべきか見当がつかない。そもそも僕はカラオケなど行かない人間だ。人前で歌を歌うということ以上の蛮勇はないと普段考えている僕である。何を歌うかなど考えるわけがない。とりあえず、曲のジャンルを探す。演歌、ポップス、シャンソン・・・・・・。色々ある。めぼしいジャンルがないと検索をやめようとした、その時だった。僕の眼にあるジャンルが目に留まった。


ボサノバ。ん、ボサノバ?いいかもしれない。娯楽というものを解さない僕が、なぜかボサノバに目が留まった。ボサノバという響きが妙に心地よい。・・・・・、ボサノバを歌おう。僕はそう決めた。しかし、僕はボサノバというものをほとんど知らない。唯一知っている曲、それが「イパネマの娘」だった。この曲は、郷里にいる頃、よく父親が聞かせてくれたものだ。僕は、「イパネマの娘」を入力した。


軽快なピアノのメロディと共に曲がはじまる。さあ、歌うぞというとき、僕はあることに気付いた。ポルトガル語がわからない!英語の他はドイツ語しか分からない僕は、はたと困った。仕方がないので、それっぽく歌ってみる。するとどうだろう。でたらめな歌詞なのに、なんだか力がみなぎってくる。それは、蓄積した疲労と心労が一気に吹き飛ぶかのような力であった。かのサイードが国境に向けて石を投げた、あの力が僕に憑依したのだ!僕のうたごえは放物線を描く。Y=X²のグラフがそこに現れた。まもなく、目の前にイパネマ海岸が現れる。そこにたたずむ、裸の娘!たじろぎながらも、僕は近づいていく。そうこうしているうちに、曲が終わった。僕は経験したことのない充実感を味わった


その日僕は、計7回「イパネマの娘」を歌った。既に声がかれていたが、そんなことがどうでもよかった。歌うたびに広がるイパネマ海岸と、そこにたたずむ裸の娘に会いに行った。ためらいもなく乳房を露出しているその娘は、あどけない笑顔を振りまく。娘といっても、もう19にはなるだろう。それでも、40を過ぎた僕には十分娘だ。僕はその娘に会いに、「イパネマの娘」を歌う。


それからというもの、僕は仕事が終わると、このカラオケボックスに向い、2~3時間ずっと「イパネマの娘」を歌うようになった。仕事先の加藤さんによれば、仕事中もふと歌っているらしい。僕は生まれて初めてパスポートをとろうと決意した。あのイパネマの娘に会うために・・・・・。


 


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ