お嬢様1
久しぶりの新しいお話です。
遅筆ですがよろしくお願い致します。
3月。
わたしは丸5年働いた会社を退社した。
嫌な上司がいたとか、お局様にいびられたとか、そういうことは一切なかった。
まぁ少しくらいややこしい人はいたけれど、人間関係は良好な会社だったと思う。
業務は繁忙期には激務だったと言えるだろうが、年に2回やってくる閑散期には毎日給料泥棒と言われてもおかしくないような仕事ぶりだった。
閑散期に高速コピー機を借りに総務に行くと、暇そうな新入社員で行列ができていたりしたっけ。
思い出すのは楽しく充実した日々ばかりで、当時氷河期と言われた就職活動で入った会社だったが、よい会社と巡りあったと思う。
本当はずっと働いていたかったし、万が一辞めるときは寿退社と決めていたのに、そうならなかったのはとても残念だけれど、父親が実家の家業を継ぐことになり、今の家は売りに出すことになったから、状況は一変してしまった。
今の会社の人間関係や業務内容には文句のつけようもないが、田舎の会社で給料は最低限だったため、ひとり暮らしなどできるはずもなく
泣く泣く親と共に引っ越すことになったのだった。
次に行くのは今の町よりずっと都会だし、いろんな会社があって就職はすぐにできるだろうが、また一から人間関係を構築するかと思うと、心配だった。
父も家業とはいえ今までの仕事と全く畑違いだし、今から新人かと思うと憂鬱だと言っていた。
でも、祖父からしたら今まで自由にしてやっていたのだから、ありがたく思われこそすれ、憂鬱とは心外だと言うだろう。
長男なのに今までのほほんとできたのは、将来祖父が引退するときには、必ず跡を継ぐと若いときに約束したからだったということを、最近になって知った。
4月は始まりの月。
入学や入社の月だけれど、わたしはとりあえず、しばらくは雇用保険をもらいながら家事手伝いでもしようと思っていた。
新しい家は父の実家の敷地内に新しく建てられた離れだったが、以前の自宅よりずっと広かった。
掃除や買い物は本宅の家政婦さんがしてくれると申し出たけれど、専業主婦歴28年の母はそれを辞退し、今までより広くなった掃除箇所に辟易していた。
わたしの家事手伝いは、そういうわけで必然とも言えた。
「お母さん、今日は買い物わたしが行こうか」
母はこの土地の出身ではないし、地理に疎かった。こちらに越して2週間が過ぎたけれど、未だに買い物に行くスーパーにたどり着けなかったり、帰り道で迷ってタクシーで帰ってきたりする。
わたしも初めての土地だけど、そこは若さか、すぐに道は覚えたし買い物に不便はなかった。
なんなら、今日はどのスーパーが安売りなのかもわかる。
「ごめんね、莉理亜。買うものはメモしてるから」
竹本莉理亜というのがわたしの名前だ。
ちなみに、父の実家の家業と言うのは、アパレルメーカーだ。
竹本という苗字とアパレルと聞けば、どの会社かわかる人もいるかもしれない。
つまり、そういう家だった。
「オッケー。いってきます」
メモを受け取ったわたしは、一番近いスーパーに向けて、出掛けることにする。
離れは竹本家の裏口に近い場所にあった。
「お嬢様どちらへ行かれますか?お車の準備を致しましょうか」
裏口に立っていたスーツの男性が聞いてきた。
彼は篠田さんと言って、祖父の会社の秘書課の人らしい。
主に運転手をしているようだが、他にもいろいろ雑用をしているようだった。
会社ではなく家にいることが多いので、会社の秘書課勤務と聞いたときは不思議に思ったけれど、なんとこの家に住み込みでどんな時間でも車を出せるように準備していると聞いて、納得した。
彼は秘書課にも在籍しつつ、竹本家の使用人でもあるのだ。
運転手の仕事としては主に祖父の会社への行き帰りと、他社への送迎、後は車の掃除や整備が仕事で、どちらかと言えば暇な時間の方が多い。
その時間を、彼はこの家で過ごし、家人の運転手として勤めているのだという。
「スーパーに買い物です。近いですから歩いていけます。ありがとうございます」
はじめのうちはお嬢様なんて呼ばれかたには違和感ありありで、止めてくれと言っていたが、それだと会長に叱られますと言われ、今はもうその大層な呼ばれかたに慣れはしないが諦めていた。
「お買い物でしたら荷物ができるでしょう。終わられたらご連絡下さい。お迎えに上がります」
篠田さんは更にそう言う。
このくらい気が利かないと、秘書にも運転手にもなれないというのはわたしにもわかるが、わたしはただの小娘なので、こんなに気を遣われると恐縮してしまう。
だから、何とか失礼にならないように断る。
「運動不足なので、散歩も兼ねてるんです。もし荷物が重いようなら、ご連絡させて頂きますね。では、行ってきます」
有無を言わさず、裏門をくぐる。
行ってらっしゃいませお嬢様、と諦めた篠田さんの声が見送ってくれた。
「お嬢様、と聞こえたが…」
竹本家にお嬢様なんて呼ばれる人間がいたとは知らなかった。
しかも、身なりは使用人のようだった。
「私にもそのように聞こえました」
もうひとりの男も頷く。
聞き間違いではなさそうだった。
年齢的には、竹本会長の孫といったところか。
「志方、今の『お嬢様』について調べろ」
「かしこまりました」