桜と
あれは桜も緑になり始める頃、四月のことでした。
あの人はいつもの笑顔で別れを告げ、他の人たちのところへ行きました。
完璧な笑顔でした。理想の、と言ってもいいかもしれません。人が人を造るとしたら、笑顔の完成形はあの人でしょう。
あの人を囲んだ人々へ向ける笑顔は、私へのそれと幾分も変わりませんでした。
嗚呼、私もその他と変わらなかったのだなと少し気落ちしながらも、やはり安心したのです。
そう、あれは確かに安心の気持ちでした───。
それから自嘲気味に笑いました。なにを自惚れていたのだろう、と。
私があの人に、好かれているはずがなかった。
たくさんの人たちに、笑顔で別れを告げているあの人を見ながら、私は思いました。これで忘れられる、と。
叶ってはならない恋に、身を焦がすことはもうない。
緑が混じる桜の木の下、みんなが去っていって独りになったあの人を、私はじっと見つめていました。それでも、もう終わりなんだと言い聞かせ、私はあの人の背中に背を向けました。
それなのに、あの人は私の手を掴みました。驚いて振り返れば、なによりいとおしく思った瞳のいろ。
“ずっと、好きだった”
あの人は少し息を切らして、きっと走ってきたのだろうとぼんやり思いました。
あの人は、私の額に優しく口づけしました。あの温もり、今でも、覚えている……。
私たちはなぜ、恋をしてはいけなかったのですか──?
あれは桜も緑になり始める頃、四月のことでした。
僕は君に笑顔で別れを告げ、僕を待っている人々のところへ急ぎました。偽物の笑顔のほうが上手く行くのはなぜでしょうか。
桜の花びら散る道の上、泣いている人、励ますように笑っている人、たくさんの人に囲まれていましたが、僕はずっと後ろが気になって仕方なかった。君が桜の木の下、なににも混じらずにこちらを見ているのがわかっていたから。
贈られた花束は、僕の周りの人々との思い出と不釣り合いに大きくて、戸惑いました。彼らは最後には笑顔で手を振り、去っていきました。
独りぽつんと立ち尽くし、これからどうしようかと考えていました。人生のことではなく、いいえ、もしかしたら人生そのものなのかもしれませんが、そう、君のことを。
ゆっくりと三つ数えました。二つ目で、君が僕に背を向けるのがわかりました。三つ目で僕は振り向いて、駆け出しました。
手を掴むと、君は大きく目を見開いて、僕を見ました。痛いほどの沈黙のなか、桜だけが、煩いほど舞い散っていました。
“君が好きだった”
ただ一言そう言って、僕は君の額に口づけしました。どうして、と君の潤んだ瞳が僕に問いかけます。僕は首を振って、君の頭を抱きました。
答えなくていい。答えないで。
そう心のなかで呟きながら、いつまでも離れられないでいました。僕のYシャツがじっとり濡れて、ああ、君が泣いてる、と思いました。
僕は禁忌を犯しました。
恋をしてもいいけれど、それを伝えてはならない。決して、結ばれてはならない。
だから君は、答えてはいけないのです。それがわかっているのに想いを告げた、狡い大人でしょう、僕は。
僕は臆病者だから、なにもできないんだ。なにもできないくせに、君の心にのころうとする。
嗚呼、そんな狡い僕を赦して───。