#1
何も形式的に書く必要はない。
短くてもいい。手紙なんて、葉書と同じぐらい単純でも構わない。祖母もいつだったか、そう言っていた気がする。
小さく端を畳んだ手紙をリビングのテーブルに置き、白希は宗一の寝室を覗いた。音は聞こえないが、恐らく寝ている。
深夜の外は凍えそうな気温の為、コートを羽織って外へ出た。渡されていた合鍵で戸締りし、宗一の部屋のポストに放り入れる。
もうここに戻るつもりはない。エントランスを抜け、マンションの前から高層階を見上げた。
「宗一さん……」
ありがとう。
ここまで好きになってもらったからこそ、離れなくてはいけない。自分を生かしてくれた彼が不幸になったら、もう生きる意味などないから。
閑静な住宅街を抜け、歩道に沿って通りに出た。時間が遅い為か車も大して走っておらず、通行人もいない。ゴーストタウンに迷い込んでしまったようで、村とは違う気味の悪さをまとっていた。
歩道橋の上に留まり、何となく過ごした。空がうっすら白みかけてきた為、階段をゆっくり降りる。雑居ビルが並ぶ細い道へ入った時、背後から突き飛ばされ、白希は倒れ込んだ。
「よう。こんな時間に独りでお散歩か? ……俺達は助かるが、本当に頭が悪いな」
「……っ」
振り返って見上げると、見覚えのある三人の男が来た道を塞いで佇んでいた。白希を張っていた村の人間だ。彼らは怒りと安堵が入り交じった表情で、こちらに近付いてくる。
「道源様からは手を出さないように言われてるが、これ以上は待つことはできない。それにお前には既に手を火傷させられてるからな。……これも全部正当防衛ということにできる」
男は爛れた手のひらを伸ばし、白希の襟を掴んで壁に押しつけた。
首が締まって、息苦しさに喘ぐ。
ちょっと前なら、倫理や道徳なんてかなぐり捨てて彼らを返り討ちにしただろう。けど今はそんな気持ちはなかった。
望みはひとつだ。
「待、って……最後に、お願いが……っ!」
「あ?」
「村に……連れて行ってもらえませんか。最後に、祖母の墓参りに……行きたいんです」
率直で、純粋な願いだった。
もう死んでも戻りたくない場所。恐怖と嫌悪しかない……でも、あそこには祖母がいる。
納屋に閉じ込められ、一度も墓前で手を合わせることができなかった。どうか最後に、傍で彼女を悼みたい。
それができたら何も悔いはない。彼らの平和の為に、祖母と同じところへ行く。
息も絶え絶えに頼み込むと、男のひとりは口角を上げた。
「ははっ! そうかそうか、お前はあのババアからは可愛がられてたもんな。変わりモン同士気が合ったんだろうが……」
「……!」
祖母のことを貶され、つい襟を締める彼の腕を掴んだ。だがすんでのところで思い留まり、手を離す。
ここで反撃したら元の木阿弥だ。恐らく以前の白希も、彼らに対抗しようとしたのだ。だが何か大きなショックがあって、意識どころか記憶も失ったのだろう。
……死にたいと願ってしまったんだ。本当に、一瞬だけ。
だから“私”が目を覚ました。
「おら、来い!」
「あっ!」
髪を掴まれ、無理やり引き寄せられる。男は白希を、近くのビルの中に連れて行った。三階の無人のレンタルスペースのようだが、そこは真っ暗で音も光もない。
床に突き飛ばされ、両手をついた。起き上がろうとする前に頭を踏みつけられ、痛みに呻く。
「二十歳になってから随分経っちまったが……今でもまだ間に合うはずだ。ここで今度こそ、白希を……」
固いものを引き摺る音がフロアに響いた。しかし自分が置かれた状況に反して、思考は冷めていた。
ここで終わるのか。呆気ないと思いながら、瞼を伏せる。
でも、ようやく分かった。
記憶を失う前の自分は強かった。今の自分は諦めてしまっているけど、何かを守ろうとして立ち上がったのだから。
全然馬鹿にできない。むしろ、誇りに思える大人だった。
「よし、やるぞ。本当に……」
暗がりの中で光る鈍器を宙に翳し、男は繰り返す。口では実行すると言いながら、まだ慄いているようだ。
やるなら早くやればいい。彼らも、彼らの正義の為にここに居るんだから。
拳を握り締めて、その時がやってくるのを待つ。ところが、窓ガラスが震えるほどの爆音が鳴り、その場の全員が耳を押さえた。
「うるさっ……くそ、またか!」
頭がおかしくなりそうな破裂音に白希も目眩を覚える。しかし咄嗟に誰かに腕を掴まれ、寄り掛かるようにして立ち上がった。
「逃げるぞ」
「え。大我、さん……」
そこにいたのは大我だった。彼は白希を引っ張り、部屋の外へ飛び出した。手に持っている気泡緩衝材を一つずつ潰していたらしく、力を使って大音量にしたみたいだ。
「はは、これ良いよな。難点は俺も鼓膜破れそうなことぐらい」
大我はそう言うと、片耳から耳栓を外した。
「お前を見張るより、あいつらの動きを見張ってた方が効率的だと思ってさ。宿泊してるホテルから出ていくところを見たって兄さんから聞いたから、大急ぎで来たんだ」
「……どうして私を助けるんですか?」
道源はともかく、自分がどうなろうと大我には関係ないはずだ。兄から自分を助けるよう言いつけられていたとしても、理由をつけて放っておくことができるはず。
本気で不思議に思っていると、彼は自分の頭を乱暴にかいた。
「俺もよく分かんない。でも普通に考えてこんなのやり過ぎだし、おかしいだろ」
大我は白希の手を引き、廊下を走る。
「俺も力が扱えなかったらお前と同じ状況になってたかもしんない。そう思ったら、すごく怖くなった」
男達がドアを開けて廊下に出てきた。全力で走りながら、目の前の大我の声にも耳を傾ける。
「それでも何とか生きてんだから、やっぱお前はすごいよ。文樹がお前のこと心配すんのも、やっと分かった」
目が合い、思わず息が止まる。
正直彼の言葉の全てを理解したわけではなかったが、ひとつ確信したことがあった。
この人達を守らないといけない。
「うわっ!!」
階段まで来たところで、白希は大我を下に続く階段へ突き飛ばした。彼はバランスを崩したものの、手すりに掴まり何とか転がり落ちずに済んだ。男達がこちらに向かっていることを確認し、白希は大我に笑いかけた。
「すみません。でも私も、大我さんのこと好きですよ。会えて良かった」
あとはただ、文樹を大事にしてほしい。
「おいこら、白希!」
怒鳴る彼を無視し、白希は上へ向かって階段を登った。衝撃の連続で頭と心臓が痛い。だが男達が大我ではなくこちらを追ってきていると分かり、脚に力が入った。
最上階は鍵がかかっていた為、屋上へ出ることは叶わなかった。息を切らしながら扉の前の外階段で振り返る。
階段下には、もう男達が待ち構えていた。
「はぁ、はぁ……諦めてこっちに来い、白希!」
怒鳴られて、思わずびくっとする。
彼らに捕まり、なぶられることも怖いけど……全てが“終わって”しまうことも怖い。
男が一段一段上ってくる。柵を背に、白希は横に視線をずらした。
「はは……っ」
全くひどい。
絶体絶命の状況だというのに、夜が明ける薄青の空は、見蕩れるほど美しかった。
正面と横の対比にため息をつきたくなる。手すりを掴んで、ぎりぎりまで端に寄った。
もうここまでだ。諦めて奥歯を噛み締めた時、……直前までやって来た男がバランスを崩し、白希の足元に突っ伏した。
これは……。
「いってえ……何だ? 階段が……」
決して、男が躓いて転んだわけではない。何故か彼が足を乗せている踏み板だけが、まるでカーペットかなにかのように柔らかく、しなっていた。
踏み板は金属製だ。本来ならこんなこと有り得ないが……。
「おい、まずは白希をこっちに寄越せ!」
倒れている男に、下で待っている別の男が叫ぶ。
「あ、あぁ。白希、大人しくこっちに」
「……!」
手が伸び、足首を掴まれそうになる。その瞬間、地上から聞き慣れた声が届いた。
「白希! 飛び降りるんだ!」
え。
なにかの聞き間違いかと思い、外階段の真下に視線を向ける。そこには息を切らした宗一が白希を見上げていた。
聞き間違いでも見間違いでもない。両手を広げた宗一と目が合ったとき、何の迷いもなく柵に足を乗せ、飛び降りた。
空と地上が反転する。
「おい、嘘だろ!?」
男達は慌てて柵に手をかけ、下を見下ろす。三階から飛び降りて平気なはずがない。だが地面に落ちる直前、白希の体は宙に浮いた。それはたった一瞬で、下にいた宗一にゆっくり抱き留められた。
「はー、危なかった。間違いなく寿命が十年縮んだよ。……白希は?」
「……二十年縮みました」
タイミングが少しでもズレれば、地面に落ちて命を落としていたかもしれない。しかし駆け付けた宗一の重力操作によって、体が一時的に軽くなった。
「またこんなボロボロになって……」
宗一は傷だらけの白希を見て、苦しそうに顔を歪めた。その目元はわずかに潤んで見えたが、気の利いた台詞が思いつかない為、気付かないふりをする。
怒りと心配が入り交じった、何とも複雑な表情だ。さすがに罪悪感が生まれたものの、口を噤んで瞼を伏せた。
「白希……! あぁ、良かった……」
遅れて、大我が駆け寄ってきた。宗一に抱えられている白希を見て、ほっと胸を撫で下ろしている。
「大我君だよね。白希が家を出たことを教えてくれてありがとう」
「あ……いえ、その……こちらこそすみません」
記憶喪失になる前の襲撃を思い出し、大我は気まずそうに視線を逸らした。
今回は助けたが、前は男達の凶行を黙って見ていたのだ。それも、兄が白希の身柄を預かるという前提があったからだが。
「水崎宗一……? 大我、お前は彼と手を組んでたのか? 最初から、俺達をはめるつもりだったのか!」
話している間に階段を降りて、男達もやってきた。
大我は困ったように両手を上げる。
「やー、はめるも何も……別に俺は、貴方達の味方なんて言ったことないと思います」
「何だと!」
ひとりは激昂して、大我に殴りかかろうとした。だがまたしても地面がぬかるみ、バランスを崩して倒れ込む。
奇妙なことが続いているが、彼らもさすがに分かっただろう。足音が聞こえ、大我は振り返る。
「おはようございます。はぁ~、寒いし眠いし怠いし……最低な朝ですね」
白いコートをなびかせて、面倒そうに欠伸をする青年。
彼は大我の隣に並び、男達に笑いかけた。
「こんな朝は外に出ない方が良い。何をやっても上手くいかないだろうから、ね」




