#16
何で独りで眠るのがこんなに怖いんだろう。
物心ついた時にはいつも独りで天井を見上げていた。ずっとずっと、独りきりの世界にいたのに。
浅い呼吸のまま、枕を握り締める。
身体中熱くて、なのに手足は心臓が止まってしまいそうなほど冷たい。
苦しい。
こんなに苦しいなら……もう……。
痛いほど強く目を瞑り、意識を深い水底に沈めていく。
────なにか跳ね返る音がする。
雨が降ってきたんだろうか。窓を叩く音が聞こえ、より体の芯が冷えた気がした。
目が覚めていく。
「きゃあっ!」
叫び声と共に、手からすり抜けたコップが床に落ち、砕け散った。
母から湯呑みを受け取ろうとした瞬間、湯呑みが高熱になり、驚いた彼女が落としてしまったのだ。
これで何度目だろう。
「……もういい加減にして! 何度言ったら分かるの!?」
……そうだ。何百回言われても治らない。この“病気”は。
冷たい視線が一身に突き刺さる。上手く顔を上げることもできないまま、必死に母に謝った。以前火傷をさせてしまったことがある為、彼女も恐怖を覚えていたんだろう。
得体の知れない存在は、結局のところ畏怖の対象になる。例えそれが実の息子だろうと。
「ごめんなさい……! 本当に……ごめんなさい……っ」
何とか震えをおさえ、水浸しになった床を拭いた。力を発現する前から、要領の悪い自分にとって家の中は息苦しかった。それがよりくっきり鮮明になっただけだ。
触れたらいけない。近付いたらいけない。自分の存在は家族にとって、いつ着火するか分からない爆弾と同じだ。
どれだけ謝っても、この力が安定することはなかった。
「白希といると変なことが起きるんだ。怖いから、もう近寄んのやめようぜ」
「ああ、父さんが言ってた。何か呪われてるんだってよ。俺らにも呪いがうつるかもしれないし」
学校では、たちどころに噂が広まった。担任の先生はまるで本気にしていないようだったけど、子ども達は不可思議なものを信じる傾向にあった。クラスで浮くのも一瞬。やがて周りに力が働くことが増え、学校に行くこともできなくなった。
両親からしたら、よその子どもに怪我を負わす方がよっぽど恐ろしい。それならまだ、自分を隔離した方が良いと考えた。
私もそれには同意見だった。自分の怪我は自分さえ我慢すればいいけど、人を傷つけたら大変なことになる。謝るだけでは済まない。自分はもちろん、家族皆この村にいられなくなるかもしれない。
そっちの方がよっぽど怖かった。自分のせいで、周りの人達の世界を壊してしまうことが……。
父と廊下ですれ違うと、心底軽蔑した目を向けられるのが辛かった。まだ居たのか。何でこんな出来損ないが産まれたのか。そう言われているようで、なるべく自分の部屋から出ないようにした。家事の手伝いをしようとしたこともあったけど、力が働いて怪我をしかけたり、母が泣き出すからだ。
何もしない方がいい。でも、何かしなきゃいけない。
相反する感情に押し潰され、毎晩泣いた。唯一のやり甲斐だった舞踊の稽古もできなくなった。ちょうどその頃、隣家から教えに来てくれていた祖母が病で倒れたからだ。
家から出ることを禁じられていたけど、夜こっそり家を抜け出して、祖母の様子を見に行っていた。祖父が早くに亡くなってから、祖母はひとりで暮らしていた。だがとても気丈な人で、両親や親族の手は一切借りない人だった。
抜けている自分に呆れていたけど、祖母だけは最期まで自分のことを気にしてくれていた。
「……白希?」
襖の影に隠れていると、気配に気付いた祖母が寝床から起きてきた。
「また来たの。お父さんとお母さんに知られたら怒られるよ」
白希の力を知って尚、怖がらずにいてくれた。そんな祖母が日に日に弱っていく姿を見るのは、身をつまされる思いだった。
だからといって放っておくことはできない。こんな暗く冷たい空間に取り残されるなんて……彼女はとても優しい人なのに。
「おばあ様……病院は行ったんですか?」
「ああ、行ったよ。でももう行かなくていいんだって。だから大丈夫だよ」
ずっとここに居るから。祖母はそう言って微笑んだ。
小枝のように痩せこけた指で口元を押さえながら、白希の頭を優しく撫でた。
「ごめんね。もう少し、見てあげたかったんだけどね」
座敷の上に白希を座らせ、徐に抱き締めた。
「おばあちゃん、ちょっと休むけど……白希の傍にいるからね」
────辛いかもしれないけど、ちゃんと生きていくんだよ。
か細いが、心の奥深くに響く声だった。
実家よりも嗅ぎ慣れた畳の匂いがずっと残っている。年季の入った掛け時計に、綺麗に片付けられた本棚。祖母の柔らかい髪が頬に当たっていた。
ものがなくなっていく。それと一緒に、彼女は静かに……どんどん物静かになっていった。
祖母の危篤を知ったのは、それから一週間後のことだ。
家主がいなくなった家はどこか寂しい。どれだけ留まっても音がしなくて、ひたすらに天井を見上げていた。
自分の身体の一部を失ったみたいに、手足が動かせない。流し尽くした涙も乾いて、また部屋に閉じこもった。
この時から、力の暴走は一段酷くなった。納屋にいても父の怒号が聞こえて、それを宥める母の声が聞こえていた。
一家を崩壊させたのは自分だ。
この力さえ制御できれば何も問題なかったのに。自分が不甲斐ないから周りの人を不幸にしてしまった。
この力は病気なんだ。
「ごめんなさい……っ」
不幸を感染させる、悪魔の病。
祖母もいないのに、これ以上生きていたって仕方ない。
自分さえいなければ皆幸せになれるんだ。
だからもう、死にたい。
……そう思ったのに、どうして私は十年も生き延びたんだろう?
生きる意味なんてとっくに失くしていたのに、あの納屋の中で息をし続けた理由は……。
雨がやんだようだ。
長く短いうたた寝の後、白希はベッドから下りた。掌がじんじんと痛むが、さっきの息苦しさはおさまった。
今はひとつの疑問が膨れ上がり、無我夢中で自分の本棚や机を調べた。
なにか手がかりがあるはずだ。自分がここまで生きようと思った理由が……どこかに残されてるはず。
机の一番下の引き出しを開けた時、他のノートとは違う手帳を見つけた。取り出して中を確認してみると、それは日記帳だった。
知らないものだから罪悪感がわずかに生まれるけど、一応自分が書いたものだ。セーフということにして、一頁目から文章を追っていく。
日記は購入した日からではなく、律儀にも宗一と出逢った日からの出来事を記入していた。家が焼けてしまい東京にやってきたこと、宗一に助けられて引き取ってもらったこと。彼に縁談を持ちかけられたことまで、詳細に書かれていた。
上部は箇条書きだけど、下にはその時に感じたことまで書かれている。
意外だったのは喜びや安堵より、ネガティブな感想の方が多く書かれていたことだった。
てっきり能天気に与えられた幸せに浮かれてると思ったのに……十年後の自分は、突然始まった宗一との生活に大きな不安を抱いていた。
こんなに良くしてもらって申し訳ないとか、早く自立して恩返しをしなくちゃとか、幸せになってはいけないだとか。彼は常に自責の念を抱えて生きていたのだと分かった。でも。
最後のページを捲ると、彼の飾り気のない想いが綴られていた。
宗一さんに逢えて良かった。
手紙を書き続けて良かった、と。
「……手紙」
ふと思い出して、日記帳を机に置く。代わりにサイドにあった白の便箋を手にとった。
こんなちっぽけなもので生き延びたとでも言うんだろうか。だとしたら単細胞にも程がある。
「馬鹿みたい」
宗一が手紙を返したのはただの気紛れかもしれないのに。……嬉しくて嬉しくて、……きっと救われてしまったんだ。
彼が優しいことなんて、もうとっくに気が付いてる。でも認めたくなかった。
認めてしまったら、今度こそ自分は全て思い出さなきゃいけなくなる。でも全て思い出すのが怖かった。以前の生活に戻りたいと願いはしても、周りを不幸にしてきた自分がまたそこに馴染めるか分からない。
大切な人だと分かってしまったら……もうこれ以上傷つけることなんてできなくなる。
「……っ」
前に屈み、白希は声を殺して泣いた。
開きっぱなしの日記帳に雫が零れ落ちる。そのページの最後の一文には、生きて良かった、と綴られていた。




