#7
白希のスマホはずっと電源が切られている。恐らく“彼”が管理しているんだろう。
仕事を終え、宗一は駐車場の車の中で瞼を伏せた。
暗い車内でシートを倒し、手のひらの中にある歪なリングを弄ぶ。
これは白希がつけていたペアリング。だったもの、だ。
高熱で溶け、とても指にははめられない状態になっている。こんなになるほど、白希の感情が激しく揺さぶられたことを示唆していた。
マンションの周りになにか手がかりがないか探していたところ、やっとのことで発見したものだった。
静かな海底のような空間に身体を預ける。
その時スマホが青く光った。
「もしもし。水崎です」
見覚えのない電話番号だったが、逡巡した末に通話ボタンに触れた。すると、今の心境には相応しくない溌剌とした声が聞こえた。
『久しぶりだね、宗一。僕からの電話、待ち遠しかった?』
「道源……」
スマホを持つ手に力が入る。
彼の言う通り、彼からのアクションが欲しいのは事実だった。さらにシートを後ろに倒し、瞼を伏せる。
『この前は電話に出られなくて悪いね。僕も二十四時間仕事に呼び出されるから、中々忙しくて』
「それはどうもお疲れ様。……それで? 何が望みだ」
挨拶は手短に、単刀直入に尋ねた。電話の先では渇いた笑い声が聞こえる。
『十年ぶりに話すんだから、もう少し昔話に付き合ってくれてもいいのに。……白希のことが心配で仕方ないんだね。わかるよ。愛する妻だもんねえ』
魅力的だが、聴く者によっては鼓膜に張りつくような声だ。宗一は横に少し傾き、スマホをスピーカーに切り替える。
『でも僕は、あの子は宗一には相応しくないと思う』
スマホをホルダーにはめ、視線だけ画面に移した。
「それで?」
笑えるほど心が動かない。宗一は自身の凍てついた心に気付いていた。
電話の相手……かつての友人でもある羽澤道源に、初めての感情を抱いている。人に対し抱くべきではない、黒い海が波打ち出していた。
「私に相応しい相手を君が決めてくれるとでも? 残念だけど、私は自分が決めた相手以外に興味はない。君も同じだ、道源。十年前に確かに断ったはずだよ」
古い記憶が蘇る。まだ黒い感情なんて持っていない、若い自分達の日々が。
あれも大事な記憶として仕舞っておきたいのに、何故掘り起こしてわざわざ汚すのか。全くもって理解に苦しむ。
宗一が静かに待っていると、相も変わらずおどけた声が返ってきた。
『宗一は僕を選ばなかったことより、あの子を選んだことに後悔する。大体、君があの子と会ったのは彼が十歳程度のときだろう? 僕は優しいから周りに言いふらしたりしないけど、ショタコンだと思われないように気をつけてね』
「年齢じゃないな。性別でもない。……君には一生分からないよ」
分からなくていい、と付け足した。
あえて突き放したように言うと、またわざとらしいため息が聞こえた。
『全く、相変わらず冷たいね。村の連中から白希を助けたのは僕の弟なのに』
「本当に? 場所も時間も、あまりに都合が良すぎるじゃないか。彼らが白希をさらいに来ると知ってたんだろ?」
そして白希を助けたのは気紛れか、自分に貸しをつくる為。
十中八九後者だ。貸しというより、脅し。ていのいい人質として、自分を駒にする為。
『村のやり方は僕も嫌いだ。それは嘘じゃない』
道源はここで初めて、昔の声音に戻った。
『二十歳の誕生日に白希がいなくなったと聞いた時は、君と直忠に感動したんだ。何か面白いことが始まる予感がした。でもそんなことなかったね。余川夫妻は失踪したままだし、君は白希に求婚してハッピーエンド。はぁ……』
つまらない。
今までで一番低い声で、彼は呟いた。
『ねえ宗一、もう少し面白いものを見せてよ。今まで村の奴らに可笑しく扱われた分をお返ししてさ。僕は陳腐でも復讐劇の方が、まだシンデレラストーリーより好きだ』
「君の好みに合わせるつもりはない。それに白希はどれだけ酷い扱いをされても、誰も憎まなかった」
『へえ。偉いねぇ~。でもそれ、前の白希でしょ?』
一瞬だが、思考が止まる。
これまで無理やり抑えつけていた凶暴ななにかが蠢いた気がした。
「前の……?」
『そう。僕は君が知ってるような、優しくてえら~い白希を知らないんだ。今の彼は、もっと合理的で冷めた子だからね。昔の宗一とだったら気が合ったんじゃないかな』
無意識に前に移動し、彼の言葉一々を拾っていた。
なにかは分からない。だが恐れていたことが起きてしまったような、緊迫した空気に支配される。
「白希に何をした」
『やだな、僕は何もしてないよ。でも心が弱い子だったみたいだからね。自分を守る為に、嫌なことは全部封じちゃったんじゃないかな。安心して、これでも医者だから……君の元にいるより、僕といる方が急変があった時すぐに対応できる』
「怪我……」
歪になったリングを見下ろす。心臓を貫くほどの痛みが宗一を襲った。
「白希の状態は? 無事だと確認できる証拠を見せてくれ……!」
『今頃焦りだしたか。本当に君って変なところで天然っていうか、面白いよ』
白希を始末しようとしていた奴らに襲われて無傷なわけがないだろ? と、道源は吐き捨てた。
『でも今は元気だから大丈夫だよ。そんなに会いたいなら会えばいい。……白希は多分、僕を選ぶと思うけど』
「何言って……」
問い詰めようとした時、スマホの通知音が鳴った。ショートメールだ。
『地図を送った』
「何の?」
『だから、君が愛する白希の。本当に悪い子で困ったよ。家から出るなって言ったのに、勝手にふらふら出ていっちゃうんだから』
まぁいいや、と席を立つ音が聞こえる。
『僕の弟に面倒を見てもらってたんだけど、潮時だろうね。後は好きにしなよ。まだ村の連中がうろついてるだろうから、危ない目に遭うのは白希だけど』
「……!」
ショートメールに添付された位置情報を確認する。ここからそう遠くない場所だ。
「道源。電話を切る」
『うん。いいよ』
「近いうちに会いに行くから、楽しみにしててくれ」
早口で告げると、どこか満足そうな笑い声が返ってきた。
『本当に、会いたいな。宗一に会う為に東京に来たのに、いざ会いに行こうとすると緊張しちゃって』
「ふ……」
冗談とも本音ともとれない言葉。
だが本当に会いたかったら、十年も会いに来ないのはおかしい。
でも、そういうこともあるだろうか。自分が、十年近く白希に会えなかったように。
通話を切り、シートベルトをしめる。
「怒りのあまり笑ったのは初めてだ」
スマホを助手席に放り投げ、エンジンをかけた。




