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熱しやすく冷めやすく、軽くて重い夫婦です。  作者: 七賀ごふん
硝子玉

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#9



自分を大切に想ってくれている人を突き放す。それには胸が切り裂かれるような痛みを伴う。

裏切ることと同義だからだろう。でも、どんなに痛くても後悔はない。


文樹と別れ、白希は家路についた。

最後まで彼の辛そうな顔を見ることができず、ほとんど逃げ出したといっても過言じゃない。

結局心配させるだけ心配させて……自分はなんて最低なんだか。

もう救いようがないほど、俺の心は爛れている。


どす黒い雲が空が覆う。ぽつぽつと肌に冷たいものが当たることに気がつき、空を見上げた。

雨だ。

横断歩道を渡ってマンションが見えた時、すぐに後ろに振り返った。


「春日美村の方ですよね」


少し離れた距離に、フードを目深に被った男性がいた。

彼は一瞬狼狽えたが、乾いた笑い声と共にフードをとった。


「久しぶり、白希! 覚えてるかな? 乃田酒店の勝久だよ」

「……」


彼は人当たりのいい笑顔を浮かべ、こちらに近付いてきた。無精髭をたくわえ、ポケットから手を取り出す。

「最後に会ったのはいつだったかな……まだ白希が小さな時だったからな。でも時々おつかいに来てたよな。当たり付きのお菓子とかお小遣いでよく買ってて」

確かに覚えている。村で唯一の酒屋で、日用品も多く取り扱っていた。彼は店主の一人息子だ。


「お久しぶりです、勝久さん。……今は東京に住んでらっしゃるんですか?」


彼の少し後ろに停められたワゴンに目をやり、また視線を戻す。

「……違いますよね。俺に何の用ですか?」

先程、路地で襲ってきた男達の仲間が乗っていたワゴンだ。ナンバーも東京ではない。

拳を握り締めると、彼は笑みは保ったまま、眉を下げて答えた。

「そんな怖い顔するなよ、白希。俺はお前の味方なんだ。ここはこわ~い場所だぞ……俺と一緒に村に帰ろう?」

手のひらを差し出される。

だがそれには反応せず、彼の目を見返した。


「ありがとうございます。でも、今はここが俺の居場所です。俺が村にいたら良くないことが起きる」


そうでしょう? と聞き返すと、彼は低く野太い声で笑った。

「知ってるんだな。誰が教えたんだ? 家族全員で姿を消して……お前を探し出すのだって本当に大変だったんだぞ」

ワゴンの中からまた三人の男性が現れた。もう確信できる。古い記憶だから顔貌は少々変わっているが、村で見たことのある人達だ。


「やっぱり水崎の息子か。あいつの世話になってるみたいだが、心の底から信用していいのか? 最後に信頼できるのは同じ故郷に留まる人間だ。外に出て行く奴らなんて皆自分のことが一番で、簡単に他人を裏切る。お前は世間知らずだから分からないんだよ」

「……」


言い返せないんじゃない。

言い返さない。俺の言葉なんて、この人達には何も響かないだろう。


「俺を殺しに来たんですか」

「おいおい、何て物騒なことを言うんだ! 痛いことなんてする気はないよ。俺達はただお前を迎えに来ただけだ。皆待ってる、村に帰ろう?」

「も……申し訳ありませんが、お断りします。貴方達には迷惑はかけません。だからどうか、このまま静かに過ごさせてもらえませんか」


一歩後ろに引き、頭を深く下げる。

彼らの事情も分かる。それでも引けない……この願いは、手放すことはできない。


宗一さんといることが、生まれてきた意味だったんだ。

だけどやっぱり、そんな想いは彼らには届かない。

「そうしてやりたいんだけどな……力がコントロールできるようになるまで、村にいよう? 心配しなくても、俺らと羽澤様が見てやるから……」

彼の手がサコッシュの紐に触れる。しかし指先に伝わる熱に驚き、彼は後ずさった。

「熱……っ! 白希、お前……!」

「二十歳になるまでに力を支配できない人間がいたら、村に災いが訪れるそうですが……今はどうですか。何事もなく、皆さん平和に過ごしているはずです。俺は俺で、力を扱えるように訓練もしてます。これではいけませんか?」

雨が段々と強くなる。体温が奪われる寒さの中、後ろで控えていた男のひとりが殴りかかってきた。

「……っ」

何とかかわせたものの、無闇に力を使うわけにもいかない。加減を間違えたら、それこそ大怪我じゃ済まない。

かと言って抵抗せずに逃げ切ることができるか? 必死に考えながら後ずさった時、後ろに回っていた男に茂みへと突き飛ばされた。


林の中に引きずり込まれ、押し倒される。


「はっ。しかし随分様変わりしたな。昔は女みたいな顔した子どもだったのに」

「今もあまり変わってないだろ。まぁ確かに、随分良い恰好にはなったが。なあ白希、そんなに今の生活はイイか? ええ?」

「うあっ!」


腹の上に蹴りを落とされ、激痛に呻く。はずみに口の中を噛み、鉄の味が広がった。

「こっちはお前の処分にずっ……と頭を悩ませてたっていうのに。水崎家に贔屓にされたぐらいで簡単に村から出ていかれちゃあ困るんだよ。お前の後始末をこの目で見届けるまでは、俺達は安心して眠れないんだからな!」

髪を掴まれ、地面に叩きつけられる。雨と泥の匂いが混ざり合い、吐き気を覚えた。それでも何とか唇を噛み締め、膝を地面に立てる。


文樹さんに申し訳ないな。後で絶対連絡するって言ったのに。

ぼやけた視界と思考を携えたまま、頭上から降りかかる罵声を聞き届ける。力を振り絞って立ち上がろうとした時、不意に左手を掴まれた。

「おい、この指輪……まさかお前、本当に宗一と結婚したのか?」

薬指の指輪に気付かれ、狼狽える。彼らが自分と宗一さんとの関係を知らなかったことは僥倖だったが……。

「ち……違います。宗一さんは、関係ない……っ」

「ふうん? じゃあただの飾りか。チャラつきやがって」

男のひとりは鼻で笑うと、指輪を外そうとした。

「やめ……っ」

その瞬間、自分の中でなにかが砕け散った。かろうじて保っていた理性や、正義……みたいな、────なにか。


「うあああっ!」


指輪がすり抜ける。そして男の手の中に収まったが、その直後に彼は絶叫した。

「熱、い……っ!! ああ……っ!!」

「どうした!?」

片手をおさえてその場に蹲る男に、傍にいた男性が駆け寄る。彼の足元に落ちた指輪は変形していた。いや、正確に言うなら溶けていた。

指輪をとった男の手のひらは、一部分のみ真っ赤に爛れてしまっている。自分がやったのだと頭では分かっているが、だからといってどうする事もできなかった。


宗一からもらった指輪は、既にいびつに曲がってしまっている。元通りにはできない。


「くっ……」


怖い。

自分の中に燻る、この強過ぎる怒りをどう抑え込めばいいのか。

いや、抑える必要なんてない。彼らには生半可な脅しは効かない。そんなことでは何度でも追ってくるだろう。ここで、二度と自分に会おうなんて思えないほど……痛みを与えてやれば。


……っ。


だけど、それは……それをしたら、俺は本当に彼らの思う“化け物”になる。

これ以上怒りに任せて力を使ったら、悲しむのは自分じゃない。……宗一さんだ。


「もう……どうか、許してください。お願いします……っ」


ぬかるんだ地面に両手をつき、彼らに頭を下げる。

自分が息をしていることが、彼らの平穏を脅かしていることは分かる。

それでも何度だって言う。

幸せになりたいんじゃない。宗一さんと一緒にいたいんだ。


だからどうか、俺が“生きる”ことを許してほしい。


それが叶わないなら、もう……行き着く場所はひとつだ。


「……これは仕来りなんだ。白希」


足音が近付いてくる。頭のすぐ目の前で止まった。

……終わりの音が聞こえるみたいだ。真っ暗闇に落ちる、カウントダウン。

「そんなに村に帰りたくないなら仕方ない。……ここでお別れだ」

彼がポケットからなにかを取り出した。薄暗い林の中で鋭利な何かが光った。


宗一さん……。


ごめんなさい。震える手のひらを握り締め、瞼を伏せた。


「あーあー……やり過ぎやり過ぎ。大体誰が殺せなんて言いました?」


……?


まだ若い、この場にそぐわない声が飛び込んできた。

でもこの声は聞いたことがある。頭が上げられないため姿は見えないが、ぼろぼろの記憶が鮮明になっていく。

「道源さんの指示は、あくまで白希君の保護なんですよ」

「だが……今こいつは力を乱用して」

「それは貴方達が乱暴したからでしょ。正当防衛をして当然。ていうかこれ、ほとんど力をコントロールできてんじゃないですか?」

また顔のすぐ横に靴が見えた。白いスニーカー。それにカーキのズボン。

これは……。


「予想通り、彼は道源様のところに連れてきますよ。なので今日のところは村にお帰りください」

「お前……っ」


息がしづらい。寒いのに熱い。

頭はもうまともに働いてない。それでもただひとつ、思い出していたことがあった。


────白希。もう、図書館には行っちゃいけないよ。


「まさか、白希を生かすつもりじゃないだろうな。……大我」


指先が跳ねる。信じられないし、信じたくない。でもこれが現実だ。

いつだって、優しいわけがない。罪にまみれた自分にはむしろ相応しい……。


「だから、それを決めるのは俺じゃないんですって。……ね、白希君。君の新しいご主人様のところに帰ろっか」


顎を掴まれ、無理やり顔を上げさせられる。全身が痛んで動けないけど、目だけはしっかり見開いた。


「大我さん……貴方……春日美の出身だったんですか……?」

「そう。俺は羽澤大我。改めてよろしく」


彼は子どものように邪気のない顔で笑った。

そしてぐにゃぐにゃにとけた指輪を拾い上げ、自分のポケットに仕舞った。


「ちょっとだけでも幸せな夢が見られて良かったね。これからは、もう少し現実を見てもらうよ。……俺達の家で」


ようやく繋ぎ合わせたパズルがばらばらに落ちる。

「…………っ」

息ができなくなる。喉から熱いものが溢れて、大我さんの顔も見えなくなった。

一面の闇。

あの日からずっと俺を取り巻いていた、一番の理解者。またここに戻ることになるなんて。




それならもう、……方が良かった。





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