#3
翌週、自分を限界まで鼓舞し、初の職場へ向かった。
店長さんと改めて挨拶を交わして、ほぼ白紙の履歴書を手渡した。申し訳なさに三回は死ねると思ったけど、彼は本当に優しくて、笑って流してくれた。
店長の境江さんは何も分からない俺に考慮して、単純な掃除や雑務を教えてくれた。頭を使ったのは支出表のチェックだけで、それも最終的には境江さんがチェックすることになる。正直本当にホッとした。
上がる頃に文樹さんがやってきて、エプロンをかけると心配そうに声を掛けてくれた。
「おつかれ。どお? 初勤務は」
「緊張しましたけど、すごく丁寧に教えていただきました。俺でもできる仕事を選んでいただいたので、何とか。ありがとうございます」
「やったじゃん! とにかくこれで、お前は職歴ありだよ! もう心配なし!」
彼は片手を高くかざす。反射的にこちらも片手を上げ、ハイタッチした。
たった一日だし、続いたとしても短期なので何とも言えないけど……彼の気遣いがただ嬉しかった。
本当に、誰もができることしかしてないけど……無事に終わったことに安堵してる。
境江さんにもお礼を言い、初めての仕事は終了した。
「白希、よく頑張ったね。乾杯!」
透明グラスの中で、深紅の液体がちらちら光る。
「白希はお水でごめんね。お酒は、外ではまだやめておいた方がいいと思って」
「ありがとうございます、お水の方が良いですよ。あと仕事でやったことと言えば本当に微々たるものなんですけど」
「関係ないよ。ふぅ、自分が満足いく仕事したときより美味しいなんてね……」
その日の夜は自宅ではなく、急遽宗一さんが予約したレストランで食事することになった。
初めてのフレンチだったこともあり、正直すごく緊張した。ドレスコードもあるし、場違い感が否めない。
ナプキンは膝の上に二つ折りで大丈夫だっけ?
使うのはフォークとナイフと……やたらスプーンが多い。 こんなに揃えて何に使うんだろ。
和食のマナーなら少しは頭に入ってるけど、洋食は未知の世界だ。頭の中でぐるぐる考えていたけど、とりあえず宗一さんの真似をすることにした。宗一さんが一口食べたらこちらも食べる、という流れになり、これまた異様な光景を生んでしまう。
ナイフ入れたら思いっきり崩れそうな料理が出てきたし、下手に動けない。美しい見た目の料理と見つめ合っていると、宗一さんはうっとりした様子でワインを口にした。
「困ったことにどんどん綺麗になっていくね、白希は」
「昨日と同じだと思いますけど」
「見た目のことじゃないよ。内面だ」
宗一さんは手慣れた様子でオードブルを綺麗に切り分け、口に運ぶ。
はぁ~……なるほど、そうやって食べるんだ。さすが宗一さん。
「白樹? 聞いてる?」
「あ、はい。めんたい……こ? ですか?」
「明太子の話はしてないよ。君の、何でも果敢に挑戦しようとする姿勢が美しいと思う」
ようやく一口分を切り分けることに成功し、こぼさないよう口に入れる。
「誰だって、初めて挑むことには不安がつきまとうものだ。それでも怯まず行動する者だけが成功する」
「ははぁ~……」
「白希? さっきからどうかした?」
「あぁっ!」
パイで挟んだなにかのお肉が倒れてしまった。ちょっと大きな声を出してしまった為、左右に会釈する。
「すみませんでした……。綺麗に食べようと思って」
「もう、私と二人だけで食べてるんだから気にしなくていいんだよ」
彼はそう言ってくれるけど、スタッフさんも来るしなるべく綺麗に食べたい。
とは言え、食事に集中し過ぎも宗一さんに失礼か。
「申し訳ありません。ええと、姿勢の話でしたね」
「それはまぁいいや……白希は偉い! ってことを言いたかっただけだから」
宗一さんは苦笑いしながら口元をナプキンで拭いた。
「無事に婚姻届を出したことは、両親に伝えたよ。これで名実ともに、私達は周りからも認められた夫婦だ」
「わぁ! すごいですー! とうとうですね!」
素直に嬉しくて、音のない拍手をする。すると宗一さんは急に口元を押さえて俯いた。多分だけど、笑いを堪えている。
「宗一さん……? あの、なにかまずいこと言ってしまいました?」
「いや、違う……。本当に可愛いなぁと思って」
そ、そんな……。途端に恥ずかしくなり、こちらも俯いた。
確かに今の反応は子どもっぽ過ぎた。出てくる言葉も陳腐だし、とても大人の台詞じゃない。
でも大人の台詞ってどんなだろう。また思考の迷路に迷い込んでると、目の前に手を差し出された。
「白希」
「……!」
柔和に微笑む彼に、こちらも相好が崩れた。
目を合わせて座り直す。右手を出し、彼の手をぎゅっと握った。
「これからずっと一緒にいられるなんて。宗一さんのお母様も仰ってましたが、夢みたいです」
「母さんが何か言ってた?」
「はい。お母様は宗一さんが結婚するなんて夢のようだと」
宗一さんなら結婚相手には困らないだろうけど、彼に結婚願望がないなら難しい。お母様はそれを嘆いていたんだろう。
宗一さんは珍しく頬を赤らめ、軽く咳払いした。
「全く母さんは……誰だって尖ってる時期ぐらいあるのにねぇ」
「まぁまぁ。……それに俺も、自分が結婚するなんて夢にも思いませんでしたよ。一年前の、抜け殻みたいな俺に教えてあげたいです」
塞ぎ込んで、この世の全てに絶望して。膝を涙でぬらしていた自分に。
ワインを空いたグラスに注ぐと、彼は眉を下げて笑った。
「そうか。……それは、私も教えてあげたかった」




