外伝2章3話 アニソンライブ編
2006年。コミケの喧騒から少し季節が過ぎた頃。
僕たちの青春は、インターネットの「技術革新」と、ライブ会場の「身体的な熱狂」という、二つの極の間で、激しく揺れ動いていた。
P2Pで冷や汗をかきながらファイルを落としていた僕たちは、今、地上で堂々と「好き」を叫ぶための、新しい居場所を見つけていた。それが、アニソンライブだった。
秋の風が吹く池袋サンシャイン通りを歩いていると、僕の耳に高音でキラキラしたシンセと、どこか切ないメロディが流れてきた。──KOTOKOの「Re-sublimity」だった。
「おい、今度KOTOKOのライブあるらしいぞ! Zepp Tokyoだって!」
友人が興奮気味に言う。あのコミケ軍団の一人で、常に最新のアニソンCDを持ち歩く男だ。
ネットの海で拾ったライブレポを読んで、居ても立ってもいられなくなったらしい。
その頃、僕たちの世界では「アニメソング」が急速に変わりつつあった。
『ハルヒ』『なのは』『ひぐらし』『ゼロの使い魔』──オタク文化が市民権を得る直前の爆発期。
そしてその中心には、いつだって、当時の僕らが「最先端」と信じて疑わなかった音楽があった。
■ Zepp Tokyo、光る棒の海
初めて参加したアニソンライブは、2006年のKOTOKO LIVE TOUR
会場はお台場のZepp Tokyo。観覧車の真下、海風が冷たい夜だった。
僕たちは物販列に並び、ツアータオルを買い、リストバンドを装着した。
手には一本ずつのサイリウム。
まだペンライトは主流ではなく、折って光らせる“ケミカルライト”が主流だった。
開演。
イントロが流れた瞬間、観客の一斉点灯──。
青、ピンク、緑。そして最も眩しい橙色の閃光が、波のように広がった。
「ウルトラオレンジ(UO)」
その名の通り、視界が焼けるほど明るいオレンジ色のサイリウムだ。
高密度マグネシウム粉入り、発光時間わずか5分。
曲の開始とともに“折る”ために、みんな胸ポケットに何本も忍ばせていた。
「KOTOKOーーーッ!!」
叫び声が飛ぶ。
あの瞬間、僕らの体温は40℃を超えていた気がする。
まるでアニメの中に吸い込まれたようだった。
P2Pの時代、ヘッドホンで密かに聴いていた音楽が、今、何百人という同志の熱狂の中で、肉体的な振動となって僕の鼓膜を震わせる。
これは、技術だけでは決して到達しえない、「共有の極地」だった。
ライブ文化とともに広がったのが、ヲタ芸だ。
今でこそSNSのミームになっているが、当時は「現場での礼儀」みたいなものだった。
ライブに欠かせない「儀式」として、僕たちの間に急速に浸透していった。
代表的なのはロマンス・サンダー・オウオウなどの型。
腕をクロスして突き上げ、回転し、掛け声を合わせる。
「ハイッ! ハイッ! セイッ! ハイッ!」というリズムが、ドラムの代わりにフロアを支配する。
この文化が拡大した裏側には、技術的な進化の波が確実にあった。
YouTubeがまだ黎明期だった頃、僕たちはニコニコ動画β版に誰かが上げた「ヲタ芸講座」動画を夜な夜な再生していた。
六畳の部屋で、蛍光灯を揺らしながら。
誰かの家に集まり、手作りのサイリウムを振って練習したのは、今思えば青春の形そのものだった。
ネットで解析した技を、現場で肉体を使って実践する。
それは、僕がP2Pで培った「技術の裏側を知ろうとする探求心」が、「身体的な表現欲」に変わった瞬間だった。
2007年、僕たちはついにAnimelo Summer Live(通称アニサマ)に参戦した。
場所はさいたまスーパーアリーナ。
まだ“アニメソング総決起集会”のような雰囲気で、今よりずっと実験的だった。
出演者は栗林みなみ、水樹奈々、JAM Project、angela、ALI PROJECT。
まさに当時の「アニメ界の主役たち」
入場時に配られた紙袋には「パンフレット・ペンライト・協賛企業のうちわ」
それだけでテンションが跳ね上がる。
この頃のアニサマはまだ一夜限りの祭典だった。
オタクたちが「自分の推しを見に行く」のではなく、「同じ空気を吸うために行く」場所。前の席の人と肩がぶつかっても、みんな笑ってた。
水樹奈々の曲が流れた瞬間、会場がオレンジに染まり、僕は泣きそうになった。
“アニメが好きでよかった”と思ったのは、あのときが初めてだったかもしれない。
それは、僕がP2Pという孤独な場所で得た「好き」という感情が、数万人に肯定された瞬間だった。
そして、僕たちの文化が「アニソンライブ」という形式で爆発的な衝撃を社会に与えたのが、「涼宮ハルヒの激奏」だった。
歴史的な初公演は2006年3月、東京厚生年金会館。
当時、深夜アニメのライブイベントなど、まだ誰も本気で想像していなかった。
平野綾、茅原実里、後藤邑子、杉田智和といったメインキャストが登壇し、
アニメ本編の文化祭ライブシーンを現実に再現するという、当時では考えられない企画だった。
開幕で流れたのは『冒険でしょでしょ?』
平野綾がステージに現れた瞬間、観客が爆発する。
「ハルヒの中の平野綾」が「現実の平野綾」と重なった、まさに二次元と三次元の境界が崩れた夜。
ライブBDはプレミア化し、後年まで語り継がれる。
このイベントをきっかけに、「アニメ×声優×音楽」の融合が本格的に広がり、「声優ライブ」はアニソンライブの一つの大きな柱として確立した。
僕たちは、アニメの中のキャラクターに会いに行った。
そして、彼らが発する音楽が、僕たちを熱狂させた。
この流れは、アニメという文化を、ただ「見るもの」から「体験し、共有するもの」へと変えた。
「ハルヒ激奏」が声優ライブの道を切り開いた後、アニソンライブは次のフェーズへと移行する。
それが、「アーティスト」としての評価だった。
2010年。アニメ『Angel Beats!』で結成されたGirls Dead Monster(通称ガルデモ)。
そのボーカルを務めたのが、後にアニソン界の頂点に立つLiSAだった。
2010年、渋谷O-EASTで開かれたガルデモライブ。
ステージには“ユイ”の衣装をまとったLiSA。観客はピンクと赤のサイリウムを掲げて「一緒に歌えーーっ!」と叫ぶ。
彼女が歌う曲は、アニメのキャラクターソングでありながら、ロックバンド顔負けのエネルギーを放っていた。
それは、「アニメが好きかどうか」に関係なく、「純粋に音楽としてかっこいい」と評価される未来を示唆していた。
まさか、後にこの人が日本武道館・東京ドームを満員にし、紅白歌合戦に出場するとは、当時誰も思っていなかった。
しかし、あの小さなライブハウスの天井を突き抜けるような彼女の声と、現場の熱狂は、SNSの黎明期を通じて、少しずつ、しかし確実に世間に広まっていった。
気づけば僕の部屋は、ライブチケットの半券とペンライトで埋め尽くされていた。
夏はコミケ、冬もコミケ。その合間に、Zepp、横浜BLITZ、そしてさいたまスーパーアリーナ。
現場を渡り歩くことが「日常」になっていた。
当時のライブ会場は今よりずっと“濃かった”。
男子率9割。タオルを首にかけ、Tシャツは汗で貼りつく。「マイミク募集中」と書かれた名刺を配る人もいた。
mixiが主流だったあの頃、現場で出会ってオンラインで再会する──そんな文化が自然に生まれていた。
これは、僕がP2Pで経験した「匿名での連帯」と、コミケで経験した「肉体的な熱狂」が、「SNS」という技術を通じて融合した、新しい時代のコミュニティの形だった。
KOTOKO、水樹奈々、そして後に続くLiSA──。
アニソンは「オタクの音楽」から「日本のポップカルチャー」へ変わり始めていた。
そして何より、みんなが笑っていた。推しを応援することが、誇りになった。
いま思えば、あの時代のライブハウスは小宇宙だった。
そこに集まる誰もが、アニメが好きで、音楽が好きで、同じ夢を見ていた。
「いつか、アニソンが武道館を埋める日が来る」と、本気で信じていた。
そして──それは本当に現実になった。
僕の青春のすべてだった技術への探求心は、この「熱狂を共有する場所」の裏側を支える力となった。
僕は、今、クリエイターとして、この熱狂をさらに広げるためのコンテンツを創造している。
ウルトラオレンジの光は、発光時間わずか5分。あっという間に消える。
でも、あの5分間の輝きは、いまでも僕の心の中で燃え続けている。
次回は夏の思い出。
リトルバスターズが発売され、そのエンディングの最後を再現しようと
オタク友達といった真夏の海のお話です。
残り3話で完結となります。
今日の話はここまでです。
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