第14話 終幕ーそして僕らの物語は続くー
あれから、どれくらいの時間が経っただろう。
2002年はじめてKanonでギャルゲーに触れた。
オタクとしての一歩を歩み始めた。
2003年、2004年、2005年
ギャルゲー、アニメで毎日が忙しく、時間が立つのも速かった。
行きも帰りも、聞いてる音楽はKOTOKO。
2006年、2007年、2008年。
あの頃、僕の世界はライブやコミケに参加していた。
電車に乗って各地に向かい、サイリウムを握りしめて叫んでいたあの感覚。
今でもふとした瞬間に、耳の奥であのリズムが鳴り出すことがある。
けれど、時代は変わった。
街の看板にアニメキャラが描かれても、もう誰も驚かない。
鬼滅の刃は誰もが見るアニメで、
チェンソーマンや呪術廻戦はおしゃれなアニメだ。
オタクであることは、隠すべきことじゃなくなった。
いやアニメ好きはオタクではなくなった。通常のコンテンツの一つだ。
それどころか、“好きなものを語ること”自体が一つの文化になった。
そして、気づけば僕も──あの頃の少年のまま、年を取った。
■Discordの声が日常になる
今、僕は毎晩のようにDiscordを開く。
モニターの左下で、友人たちのアイコンが小さく光っている。
かつてコミケ軍団として夜を徹した仲間はもう居ない。
オンラインゲームやツイッターで知り合った友人ばかりだ。
「おつかれ」「今日ランクいく?」
そんな軽い言葉のやりとりが、いつのまにか日常になった。
僕が主に遊んでいるのは『League of Legends(LoL)』。
日本サーバーのランクはゴールド帯。
勝っても負けても、試合のたびに心拍数が上がる。
もう10年以上続くタイトルだというのに、その奥深さはいまだ底が見えない。
ボイスチャットの向こうで、友人の笑い声が響く。
「おい、またガレン使ってんのかよ」「だって回るの楽しいんだよ」
そんなやりとりをしながら、僕らは夜のサモナーズリフトを駆け回る。
LoLが終わると、次は『VALORANT』。
こちらはシルバー帯。
ヘッドショットを決めた瞬間、ディスコード越しに歓声が上がる。
FPSは苦手だったけど、仲間と一緒なら不思議と怖くない。
いまやネットを介してどこまでもつながれる。
あの頃夢見ていた“オンラインの未来”は、確かにここにあった。
■アニメはまだ、僕の心臓を動かしている
仕事が終わり、夕飯を済ませた夜。
モニターの光が部屋を照らす。
再生ボタンを押すと、
画面に「僕のヒーローアカデミア」のタイトルロゴが現れる。
僕は自然と背筋を伸ばす。
「デク」が叫ぶと、かつての“僕”も心の中で叫んでいる気がする。
夢を追い続ける彼らを見るたび、あの高校の頃の熱が蘇る。
『ワンピース』は、もはや人生そのものだ。
連載25年を超えても、ルフィたちは前に進み続けている。
ギア5のルフィを見たとき、思わず声を上げて笑った。
あれほど自由な主人公が、まだ僕たちをワクワクさせてくれる。
「おれは海賊王になる!」
あの言葉は、子どもの夢を大人の胸に残したままにしてくれる。
『転生したらスライムだった件』を観ると、
かつてのファンタジーRPG好きの血が騒ぐ。
ギルド、スキル、異世界。
どれもゲームの言語で語られる世界。
あの頃、MMORPGの体験版をこっそり起動していた少年の延長線上に、
今の僕がいる気がする。
『チェンソーマン』は、そんな理想とは正反対の現実を描く。
残酷で、くだらなくて、でもどこか人間臭い。
デンジが「普通の生活がしたい」と言うたび、僕は苦笑する。
“普通”がどれだけ難しいかを知ってしまった大人たちの物語。
2000年代の「ハルヒ」や「クラナド」とは全く違う方向のリアリズム。
それでもやっぱり、僕はこういう物語を待っていた。
■アニソンは変わっても、心の奥は変わらない
いま、僕が一番よく聴いているのはYOASOBI。
「アイドル」や「群青」をイヤホンで流すと、
あのKOTOKOやELISAのシンセサウンドとは違う、洗練された都会の響きが広がる。
でも根っこは同じだ。
“物語を音で語る”という点では、アニソンの魂を継いでいる。
YOASOBIの曲は、まるで現代のライトノベルみたいだ。
文字の世界をそのまま音にしたような構成。
2000年代の僕らが「アニメを音で感じていた」時代から、
今は「音が物語を作る」時代へ変わった。
その変化を追うのが、最近の僕の楽しみでもある。
■閃光のハサウェイを待ちながら
ガンダムシリーズの中でも、僕がいま最も心を奪われているのは『閃光のハサウェイ』だ。
富野由悠季の思想と現代的な映像演出がぶつかり合うような作品。
アニメの劇場化が当たり前になった今でも、ガンダムは特別だ。
新作が出るたびに毎回チェックしている。
映像もどんどん美しくなり、女性人気も獲得してきた。
映画の続編が公開されるのを、僕は心待ちにしている。
コミケの徹夜列に並ぶことはもうない。
だけど、劇場の暗闇で、スクリーンが光る瞬間の“ざわめき”を感じると、
あの頃と同じ鼓動が胸の奥で鳴り出す。
■SNSという「新しい現場」
日常の大半は、Twitter(X)とYouTubeで過ぎていく。
出勤前にタイムラインを眺め、仕事の合間にトレンドを追い、
帰宅したら動画で実況を観る。
かつてZepp Tokyoで振っていたウルトラオレンジ。
今では、スマホの画面をタップする指先の光に変わった。
形は違っても、そこに込める熱は同じだ。
誰かの表現を、即座に称賛できる時代。
僕たちはずっと、“好きなものを共有する”という一点だけは変わらず続けている。
■「オタク」と呼ばれなくなった僕たち
最近では、誰も僕のことを「オタク」とは言わない。
それは決して、僕が趣味をやめたからじゃない。
ただ、社会が変わったのだ。
アニメが当たり前になり、ゲームが主流になり、
誰もが“何かのオタク”になった。
コンビニで呪術廻戦のコラボドリンクを買う人も、
ジャンプショップに行く人も、
日曜の夜にアニメを観る人も、もう珍しくない。
「オタク」という言葉は、
かつて“少数派の情熱”を意味していたけれど、
今では“好きなものに正直な人”を指すようになった。
僕が高校生の頃、アニメグッズを持ち歩くのは勇気がいった。
アニメの話をするだけでも変わった人扱いだ。
アニメ好きだなんて大っぴらに言えたものではなかった。
けれど今は、駅の広告に新作ゲームがジャックを行ったり、
テレビのCMでVTuberが歌う。
時代が変わった。
僕たちが夢見た世界が、密かに大切にしていた世界がゆっくりと現実になった。
■それでも、あの頃を忘れない
引っ越しのとき、古いハードディスクを整理していると、
2006年のフォルダが目に入る。
「C70」「ライブ写真」「otagei_practice.avi」──。
開いてみると、当時の自分たちがいる。
画質は荒い。服もアニメコラボものだった。
でも、笑っている。
心から、楽しそうに。
僕らは、好きなもののために必死だった。
同人誌を買うために夜を明かし、
ライブのチケットを取るためにPC前でF5を連打した。
ネットの向こうに仲間がいて、 画面の中に夢があった。
今の子たちがスマホ一つで推し活をしているのを見ると、
羨ましくもあり、少しだけ誇らしい。
僕らが積み重ねてきた“オタクの時代”が、
確かに未来へと続いている。
■終わりに
夜更け。
モニターの光が薄暗い部屋を照らす。
ディスコードの通話が切れ、静寂が戻る。
ふとヘッドホンを外すと、外の世界は驚くほど静かだ。
あの頃、コミケの列で感じた熱気も、
ライブハウスで燃やしたウルトラオレンジの光も、
今はもう、遠い記憶の彼方。
でも、僕の中ではまだ続いている。
アニメの新しい話数が配信されるたび、
Twitterでトレンドが動くたび、
心の奥にある“あの時代の炎”が小さく灯る。
きっと僕は、これからもオタクであり続ける。
誰かにそう呼ばれなくても、
好きなものを好きと言える限り、
僕の物語は終わらない。
──2002年、情報系高校に入学したあの日から、
ずっと続いてきた僕の“ネット青春史”。
その終わりは、まだ書かれていない。
時代の向こうに、新しい物語がまた待っている。
終幕とありますが、もう少しだけ続きます。外伝として体験記を紹介。
外伝の最初はコミケ編となります。
本編はここまでです。
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