第12話 スマートフォンと古いオタクの終焉
初音ミクとニコニコ動画がもたらした「創造の民主化」の波は、
僕たちの文化を「地下」から「地上」へと押し上げた。
僕たちはもはや、自作PCの青白い光の下で秘密裏に活動する「ハッカー」ではなく、陽の当たる場所で熱狂を分かち合う「クリエイター」へと変わり始めていた。
しかし、僕たちの生活をPCの前から解放し、「場所を選ばず」繋がれる世界へと変貌させる、決定的な技術が、この後も次々と姿を現すことになる。
2008年。 僕が自作PCに積み重ねた技術と、光ファイバーで得た高速な接続環境が、一瞬にして「当たり前」となる時代が始まった。
それは、日本で本格的に発売されたiPhoneを筆頭とする、スマートフォンの登場だった。
かつて、インターネットは「PCの前」で完結する儀式的な行為だった。
重い自作PCを立ち上げ、光ファイバーのケーブルを繋ぎ、分厚いモニタと向き合う。これが僕たちの日常だった。
スマートフォンは、その全てを一変させた。
P2P時代、最も危険なのは「ログが残ること」だったが、スマホはログよりも「移動」を重視させた。
電車の待ち時間。 学校の休み時間。 ベッドの中。
「いつでもどこでも」動画を見たり、オンラインゲームの情報をチェックしたりできるようになった。
手のひらサイズの画面が、エンタメの主戦場となったのだ。
自作PCに必死にアーカイブしていたアニメの動画は、手のひらの中で、タップ一つで再生できるようになった。巨大なHDDは不要になった。
僕が培った「技術的な優位性」は、「誰もが使える利便性」という大衆の力の前に、あっけなく価値を失った。
アプリを通じて、TwitterやLINEなどの新しいツールが登場し、コミュニケーションはより短く、よりリアルタイムになった。
僕自身、いつの間にかEメールを使わなくなり、友人との連絡はLINEで「繋がっている」のが当たり前になった。
長文の掲示板への書き込みや、匿名性の高いP2Pネットワークは、「簡便性」という最大の武器を持ったスマホに駆逐されていった。
僕の青春の全てだった自作PCは、もはや「最高の技術」ではなく、単なる「大きな箱」となりつつあった。
僕たちの文化は、「PCに張り付く時代」から、「手のひらに収まる時代」へと、完全に移行したのだ。
スマートフォンが「使いやすさ」で僕たちの生活を変える一方で、コンシューマーゲームの世界も激変していた。
その中心にあったのが、ニンテンドーDSだった。
DSは、これまでのゲームの枠を超えた。
非ゲーマー層、特に主婦や高齢者層をも巻き込む大ヒットとなったのだ。
ゲームが「特別な趣味」から「誰もが楽しむ日常」へと変わるきっかけを作った。
しかし、このDSの爆発的な普及の裏側で、僕がPS2時代に垣間見た「裏の技術」が、最も醜悪な形で社会問題化していた。
それが、マジコンだった。
DS用マジコンは、ハンダ付けや複雑な操作が不要で、誰でも簡単に違法コピーしたゲームを遊べるようにするツールだった。
僕がかつて「技術的な優位性」としてひそかに追求していたコピーガード突破の技術が、「誰でもできる違法行為」として一般化してしまったのだ。
マジコンの登場は、僕が以前Winnyの事件で感じた「技術が倫理を逸脱する不快感」と、どこか似ていた。
以前の僕も、ある意味でマジコンと同じ延長線上にいたかもしれない。
だが、そこには「技術的探求」という大義があった。マジコンにはそれがない。
技術は、「探求の対象」ではなく、「簡単な違法行為のための道具」となってしまった。この事態は、僕に、純粋な「技術者としての虚しさ」を突きつけた。
僕たちの文化が手のひらと技術の進化で変化していた2009年、アニメの世界では、再び「ハルヒ」に匹敵する、いや、それ以上に「オタク文化と一般社会の境界線」を曖昧にする作品が登場した。
それが、『けいおん!』だった。
『けいおん!』は、女子高生がバンド活動をする日常を描いた作品だったが、その可愛らしいキャラクターと、キャッチーな音楽が、既存のオタク層だけでなく、これまで深夜アニメに触れてこなかった若者層をも巻き込んだ。
キャラクターが使用した楽器が爆発的に売れ、アニメの主題歌や劇中歌が再びオリコンチャートの上位を占めた。
特に僕が戸惑ったのは、その熱狂がオタクのコミュニティを飛び越えていたことだ。
学生がこぞって「弾いてみた」「歌ってみた」を投稿し、僕の周りのオタクではない友人までが「面白い」と盛り上がっていた。
これは、もはや「特殊な社会現象」ではない。
「オタクカルチャーがポップカルチャーの一部になったこと」を意味していた。
『けいおん!』のヒットは、ニコニコ動画などのプラットフォームに「演奏してみた」動画を大量に生み出したが、それらは違法アップロードとは異なり、「公式のコンテンツを元にした、ポジティブな表現活動」として社会に受け入れられた。
僕の青春のすべてだったオタク文化は、この頃にはもう、「隠すもの」ではなくなっていた。大学の友人、アルバイト先の同僚、誰もが共通の話題としてアニメや音楽を語れる時代が、ついに訪れたのだ。
この「普遍化」と「利便性の追求」の波は、僕がかつて夢中になった「ギャルゲー(恋愛シミュレーションゲーム)」というジャンルを、静かに、しかし決定的に衰退させていった。
ギャルゲーは、基本的に膨大なテキストを読み込み、時間をかけてキャラクターやその関係を知る、「時間と手間」のかかるコンテンツだった。
モバイルデバイスで瞬時にエンタメが手に入る時代に、その「手間」は敬遠され始めた。
乱立する作品の数々、そして似たような絵柄と物語に、僕自身、疲れを感じ始めていた。
気づけば、僕はもう新作を追いかけることをやめ、真に「名作」と呼ばれるものだけをチョイスするようになっていた。
ギャルゲーの楽しみは、「キャラクターを独占し、特別な物語を自分だけが体験する」という「所有欲」に基づいていた。
しかし、僕たちの文化は、「ハルヒ」やオンラインゲーム、ニコニコ動画を通じて、「みんなで同じ熱狂を共有する」ことに価値を見出し始めていた。
僕がかつてバイナリ解析で「支配」しようとした、あの閉鎖的なギャルゲーの世界は、時代の光に照らされ、静かにその役割を終えようとしていた。
だが、その歴史が培った「キャラクターへの愛」は、形を変えて次の時代のコンテンツの血肉となることは、間違いないだろう。
次回は、現代(今)のお話になります。
スマートフォン、5G、サブスクリプションサービス――
かつて“マイノリティ”だった僕のオタク文化は、やがて“マジョリティ”となり、世界の中心に静かに溶け込んでいきました。
時代の波は止まらず、しかしその中で僕たちの記憶だけは、静かに光を帯び続けます。
今日の話はここまでです。
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