瑠璃の憂鬱
──私、ラピスラズリ・ユヴェーレンが人が恋に落ちる瞬間を目にしたのは十歳の時。誕生日を目前にした、一際寒い冬の日のことだった。
ここ数日忙しくしていたお母様が、帰って来るなり私たちにしばらくお客様の泊まる部屋には入ってはいけませんよと言った。
私も双子の弟のラズライトもわかりましたとこっくり頷いて、お客様が泊まる部屋から使用人の気配がなくなったのを見計らってからこっそり部屋に忍び込んだのだ。
子供ってそういうものでしょう?
私もラズライトも子供らしく好奇心が旺盛で、ダメと言われていても隠されているとなるとそこに何があるのかどうしても知りたくなる。
そして、忍び込んだその部屋で私とラズライトは『彼女』を見た。
「……お姫様……?」
客間のベッドで眠る私たちより歳上に見える女の子。
艶やかな黒髪と同じ色の長い睫毛。
熱があるのか頬が少し赤くて、薔薇色の頬とはこういうことを言うのかと子供心に思った。
きっとこの子はどんなお伽話のお姫様よりもっとずっと綺麗に違いない。
眠っていても彼女がとても美しい人であることがわかって妙に胸がドキドキした。
ラズライトはどう思ったかしら。
気になって隣に視線を向けたその時だ。
「……綺麗だね」
ぽつりと呟いた弟のうっとりした声音と表情に、彼が恋に落ちたことを確信した。
その頃の私と弟のラズライトは口に出さなくても考えていることがお互いにわかることが多々あって、この時もそうだった。
──今、この瞬間、ラズライトは目の前の眠れるお姫様に恋をしたのだ。
艶やかな黒い髪と琥珀色の瞳のお姫様は名をルチルアンナといった。
けれど、お母様がそう呼んでいたから、私もラズライトも彼女をルチアと呼んだ。
ルチアは美しくて優しくて、そして聡明だった。
名門貴族ローエンシュタイン家の一人娘であったルチアはこれまでたくさんの教育を受けていて外国語の本だってすらすらと読み聞かせてくれたし、ちょっとした仕草でさえ指先まで優雅で、ピアノとバイオリンはこれまで聴いた誰よりも上手だった。
家族を失ったばかりだからか、たまに浮かべる少し寂しげな微笑みもミステリアスで魅力的に見えた。
そんなルチアが私も弟も大好きだったけれど、ルチアが私の家庭教師になったことだけは弟はよく思っていなかった。理由は簡単。女の子と男の子は勉強する内容が違うため、その分だけ一緒にいられる時間が減るからだ。
いつも早めに授業を切り上げられるようにラズライトは予習も復習も欠かさず、授業が終わり次第すぐに私の授業に合流した。
男の子のくせにニコニコしながらお茶の淹れ方を練習する姿は見ていて面白かったけど、正直そこまでする弟の気持ちはわからなかった。
だって私は恋をしたことがなかったから。
それが一転したのは弟が寄宿学校に入学して初めてのファミリーデー。
貴族の子息が通う寄宿学校には、年に一度、生徒が家族を招待するイベントがある。
昼には球技や馬術の大会があり、夜にはダンスパーティーが開催されるという、かなり大掛かりなイベントだ。
──そこで私は『彼』を知った。
「やぁ、ラピス。久しぶり。元気そうで良かった」
「ラズもね。こちらはお友達?」
「あぁ。ギースベルトだ。ギースベルト、僕の双子の姉のラピスラズリだよ」
紹介されたのはラズライトより少し背が高くて、鉄色の髪をした少年。親類以外で初めて会う貴族子息だった。
その名前と同じ翡翠の色をした切れ長の目は狼のように鋭いのに、微笑むと途端に幼く見える不思議な人だった。
「初めまして。俺はジェイド・ギースベルト。こいつとは寮の同室なんだ」
「初めまして、ミスタ・ギースベルト。ラピスラズリ・ユヴェーレンです。弟がお世話になっています」
「そうそう、俺がこの手のかかるお坊ちゃんをいつもお世話してやってるんだよ」
「おい、ギースベルト。変なこと吹き込むなよ」
ジェイドと小突き合っている屋敷とは様子の違うラズライトを見て、男の子とは元気なものだなと感心する。
女性だけが集うサロンやちょっとしたお茶会とは距離感もなにもかもまるで違うのだ。
でもラズライトがとても楽しそうだったから、私はこの人はきっと良い人なのだろうなと思った。
「おい、ユヴェーレン。そろそろ行かないと」
「そうだね。じゃあね、ラピス。楽しんでいって」
広間でダンスを踊れるのは三年生以上とのことで、挨拶を終えたラズライトとジェイドは雑用を済ませるためにその場を離れていった。
ルチアが屋敷に残ったと聞いてしょんぼりしているラズライトと、その背中を叩きながら歩くジェイドを見送って、私は初めての場所に緊張しながらも周りから誘われてダンスをしたり、軽食をいただいたりとその後の時間を楽しく過ごしたのだ。
思えば、その時に私の胸の中のどこか深くて大切なところにジェイド・ギースベルトという名前が静かに刻み込まれたのだと思う。
次の年も私はラズライトの招待でイベントに参加して、少しばかりジェイドと話をした。
まだ二年生の彼はダンスに参加できない事を不満そうにしていた。
それを聞いて、もしかしたら来年は一緒に踊れるかしら、なんて思ってしまったのは仕方のないことだろう。
弟を通じて、だけれど、ジェイドとは顔見知り以上の関係は築けていたと思うし、そうなったら一曲くらい誘われるかもしれないとその時の私は本気で信じていたのだ。
結局、彼らが初めてダンスに参加出来るようになる三年生になった年のイベントで、私はジェイドからダンスに誘われなかった訳だが。
なんと彼はびっくりするほど女性にモテた。
ダンスタイムが始まる前からレディ達に囲まれて、ラズライトと三人で少しだけ話をするのが精一杯だったのだ。一緒にダンスを、なんて口にすら出来なかった。
次の年も、その次の年も、彼はダンスタイムを女性達に囲まれて過ごしていた。
そして私の弟であるラズライトは、毎年頑なにイベントに参加しないルチアを思ってしょんぼりと肩を落とし、ダンスタイムを男の子ながら壁の花となって過ごすのだ。
社交界ではダンスは男性から誘うのがマナーだが、学校のイベントでは逆も許されている。
ラズライトをダンスに誘うご令嬢は少なくなかったのに、彼はいつもそれらを冷たくあしらっていた。
「ラズ、せめてもう少し断り方を考えなさいよ。さすがに可哀想だわ」
「ラピス。僕はね、最初のダンスはルチアと踊るって決めてるんだ」
「そのルチアが来ていないのだから別に他の人と踊ったっていいじゃない」
「やだね」
「もう。来年は最高学年なのに一度も踊らず卒業するつもり?」
そこまで言うとラズライトは目に見えて肩を落とした。
あんなに熱烈な手紙を添えて招待したのに、今年もルチアが来なかったことが相当堪えているらしい。
そうしていると運動も勉強も主席の生徒にはとても見えない。
「……だって、ルチアとしか踊りたくないんだよ……」
毎年懲りずにルチアに求婚してはフラれている弟だが、卒業まで片思いを続けて主席を取り続ければルチアは求婚を受け入れると約束している。
それを知っているから結婚は時間の問題だとわかっているが、私は姉として弟のしょんぼりした姿には弱いのだった。
「ルチア、そろそろ観念したら?」
翌年の同じ時期。今年も送られてきた招待状を手に悩んだ様子を見せるルチアに私はそう言った。
毎年即断で行かないと決めていたのを悩む時点で答えは出ていると思うのだが、ルチアの中ではどうやら違うらしい。
ルチアは聡明なのに時々とんでもなく鈍くなるのだ。
五つも歳上のルチアだけど、こういう時はなんだか私がお姉さんのようになってしまう。
「でも……」
「ラズだって最後の年くらいルチアに来てほしいんじゃないかしら」
「……そう、かしら」
「絶対そうよ。双子の私には解るの。ルチアが行ったら、あいつきっと昼の馬術大会で最優秀選手賞だって取ってみせるわよ」
そしてルチアは実は押しに弱い。
私はイベントのために生徒たちががどれだけ準備や練習を頑張っているか、ラズライトがこの日にルチアを迎えられたらどれだけ喜ぶか、そしてこの日しか見学できない学舎の荘厳さなども加えて、ついにルチアを頷かせたのである。この功績は勲章ものだろう。
後でしっかりラズライトに恩を売ろうとほくそ笑みながら、ルチアと共にドレスを選ぶ。
最後の年だから一度くらいジェイドと踊れたりしないかしら、なんて思いを胸の隅に忍ばせて選んだドレスは最新流行のもの。
髪飾りも、靴も、ジェイドの隣に立って恥ずかしくないものをと考えて真剣に選んだ。
でも私は知らなかったのだ。
気合いを入れれば入れただけ、肩透かしの衝撃は大きくなるという事を。
最高学年の、最後のファミリーデー。
昼の馬術大会で最優秀選手賞を受賞したラズライトは、今年こそは踊ってほしいと願うレディ達や功績を讃える学友達に幾重にも囲まれて近付けもしなかった。
ジェイドもいつも通りレディ達に囲まれている。
今の私に出来るのは、チラチラとルチアに視線を送る男性達に睨みをきかせるくらいのものだ。
ラズライトと踊る前にルチアが誰かと踊ってしまったら、ラズライトは嫉妬で相手を事故に見せかけて半殺しにしかねない。誇張ではない。あいつならやる。確信がある。
だから私はラズライトとよく似た顔でにっこり笑って周りを牽制しているというのに、当のルチアは全く状況をわかっていなかった。それどころか私に踊りに行けなどと言った。
この状況で一人にできる訳がないと反論すれば、なんとルチアは自分のような行き遅れに声を掛ける生徒などいないと返したのだ。
まったく、このお姫様はお勉強は出来るのに自分の魅力というものを何も理解していない。
艶やかなブルネットと琥珀の瞳は神秘的では夜の女神みたいだし、おっとりとした話し方はそれこそお伽話のお姫様のようなのに。
呆気に取られて一瞬言葉に詰まったその時。横から声を掛けられた。
「ねぇ、君ユヴェーレンの家の人? よかったら俺と踊りにいかない? 俺、歳とか気にしないしさ」
どうして、と思う気持ちは声にはならなかった。
声を掛けてきたのはジェイドで、ジェイドが声を掛けたのは、もといダンスに誘った相手はルチアだった。
今まで一度だって私をダンスに誘いに来なかったのに、来たかと思えば誘ったのはルチア。
あぁ、やっぱり皆ルチアみたいな完璧な淑女が良いのね。
一瞬にしてずんと胸の辺りが重く沈むような感覚があり、そこからのやりとりについてはあまりよく覚えていない。
ただ、幸いなことにラズライトとルチアは上手く行ったようだった。
ラズライトとルチアは無事に婚約し、私は同じタイミングでいっそ清々しいほどの失恋をした。
ただそれだけの話だ。
(馬鹿ね。今まで一度もダンスに誘ってくれない時点で脈なんてないって理解しなさいよ)
屋敷に戻り、自室の鏡台に映る己の姿に自嘲気味に笑う。
何も気付かず気合いを入れてめかし込んで、本当に馬鹿みたい。
勝手にジェイドと親しくなったと思い込んで、勝手にダンスに誘って貰えるんじゃないかと期待して、それで勝手に落ち込んでこの様なんだから、私って本当に救いようのない馬鹿だわ。
でも私、どうしてだか初恋が実ると思っていたのよ。
だって双子のラズライトの初恋は長年かけてちゃんと実ったのだもの。
その片割れの私の初恋だって実るものだと信じていたの。そんなはずないのにね。
鏡に映る最新流行のドレスも、頑張って選んだアクセサリーも、今はどれもなんだか色褪せて見えた。
ただ一つ解ったのは、私は自分が思うよりもジェイドに寄せていた想いが大きかったということだった。
遠出をして疲れたからという言い訳で人払いをして、私は夕食もとらずに部屋に閉じこもった。
涙と共にジェイドを好きな気持ちが流れて消えてしまえばいいと思って、ベッドにうつ伏せになってひっそりと一人で泣いた。
泣くのはこれで最初で最後にする。そう決めて、ただただ思い切り泣いたのだった。
「……ラピス? ねぇ、何かあった?」
卒業と同時にラズライトが戻ってきて、屋敷の中はまた少し賑やかになった。
ラズライトとルチアの婚約お披露目のパーティーの準備もまた賑やかさの一因だ。
そんな中、パーティーで着るドレスの生地を選んでいた私は、同じように隣で生地を選んでいたルチアに声を掛けられて顔を上げた。
「何かって? 別に何もないわ」
「でも何だか様子が変よ」
「そうかしら。あぁ、でもそうね。ラズとルチアが婚約するから、私も正式なデビュタントを迎えたらすぐに婚約に向けて活動しなくちゃと考えはしたわ。やる事が多くて憂鬱だと思ったのが顔に出たかしら」
「そうなの? でもラピスならすぐに素敵な相手が見つかるわよ」
「そうだと良いけど」
幸せそうに微笑むルチアに微笑み返して頷く。
デビュタントを迎えて正式に成人貴族になったら、女の私は結婚相手を見つけなければならない。
厳密に言うのならば結婚相手を決めるのはお父様だが、他家の貴族に気に入られるよう一人前の淑女として色んな社交の場に出て顔を売り、活動するのは私なのだ。
今でもふとした瞬間にジェイドの顔が浮かぶけれど、でもあれはもう過ぎたこと。
いつまでも過ぎた初恋にしがみついていてはいけない。
私は生地見本の冊子を膝に置いて目を伏せた。
(……結婚、か)
不思議なもので、今はもう相手が誰でも構わないと思っている。
お父様はきっと悪いようにはしないもの。
私だってユヴェーレンの娘として嫁ぎ先で頑張れるはずだわ。
(ダンスの相手はルチアでなければ嫌だと言ったラズライトはこんな気持ちだったのかしら)
以前、踊るのならルチア相手でなければ嫌だとラズライトは言った。
今の私は、相手がジェイドでないのなら、もう誰が結婚相手でもいいと思っている。
反対に見えて、その根底にあるものは全く同じに感じられた。
いっそのこと早く婚約相手が見つかれば、こんな気持ちも消え去るかしら。
そんな思いばかりが頭の中をぐるぐると回っていた。
そうして迎えた二人の婚約披露パーティーの日はよく晴れて、花で飾った庭にはたくさんのゲストがいた。
その中に馴染みのある鉄色の髪が見えた気がしたけれど、そこは見ないふりをしてラズライトとルチアにお祝いの言葉を贈った。
ラズライトもルチアも皆に祝福されて幸せそうにしている。
ルチアの髪には以前ラズが贈った髪飾りがキラキラと輝いていて、彼女の美しさを一層引き立てていた。もしかしたら彼女の輝く笑顔がそう思わせたのかもしれない。
それにしても婚約の時点でこんなにお祝いされて、結婚式はどうなるのかしら。
でも、ようやく二人がきちんとした形に落ち着いて良かった。これで私も安心できる。
家はラズライトが継ぐし、今度は私が親の決めた家に嫁げばユヴェーレン家も安泰だ。
二人が皆に祝福される様子を一通り眺めてからそっと人の輪を抜けて屋敷に入ろうとしたら、お母様に見つかって声を掛けられた。
「あら、ラピス。どうしたの?」
「ごめんなさい、お母様。少し足を痛めたみたいなの。部屋で少し冷やしてくるわ」
「それはいけないわね。メイドを呼びましょうか」
「そこまでしなくても少し休めば大丈夫よ」
にこりと笑って屋敷に入り、しんと静まり返る廊下を通って自室へ戻る。
庭が騒がしかったからか、屋敷の中はいつもよりも暗くてまるで別世界のようだ。
それにしても嘘なんてついて私ったらいけない子。
行儀悪く部屋の長椅子に横になると急に全身が鉛のように重く感じた。
しばらくしてドアをノックする音が聞こえ、お母様がメイドを寄越したのだと思って返事をすれば、入ってきたのはラズライトだった。
驚いて上体を起こして目を丸くする。
「ラズ、あなたどうしたの。主役が会場を抜け出してきちゃダメじゃないの」
「でもラピスの様子が変だったから気になって」
「でもじゃないわよ。私のことはどうでもいいから早く戻りなさいよ」
「どうでもいいなんて言うなよ。ラピスが落ち込んでいるのに、僕が平然としていられると思うの?」
「……気付いていたの」
「逆にどうして気付かないと思ったのさ」
僕たち双子だろ、とラズライトが笑うので、私もようやく少しだけ笑うことが出来た。
ラズライトは長椅子の背凭れに寄りかかって首を傾げて問うた。
「それで、どうしたっていうの」
「別に、本当にもうなんでもないのよ」
「なんだ。ギースベルトのことかと思ったのに」
「なっ!? なんで……」
「ラピスがあいつのこと好きだって知ってるから、何かあったのかと思ったんだけど」
「……逆よ。何もなかっただけ。これから先も何か起きる予定はないわ。それでちょっと落ち込んだけど、もう平気。元々知人以上の関係でもないのだし、私はちゃんとユヴェーレンの娘として義務を果たせる」
だからあなたもユヴェーレンの男子として義務を果たして。
そう言うと、ラズライトは一瞬不満そうに唇を尖らせてから渋々といった様子で頷いた。
「本当にそれで良いの? ラピスがそれでいいなら僕は君に何も言わないよ」
「私はこれでいいの。だから私のことは気にしないで」
半ば追い出すようにしてラズライトを会場に送り返し、再び一人になった部屋でぼんやりと天井を見つめる。
(……心配かけちゃった……。私って本当にダメね)
ルチアとは大違い。
長年家庭教師のルチアから色んな事を教わってきたのに、結局私はルチアのようにはなれなかった。
双子のラズライトのように優秀でもないし、ルチアのような淑女にもなれない。
そして今はこうして双子の片割れに心配までかけている。私は本当にダメな令嬢だ。
(もっと頑張らなくちゃ……)
天井を見つめながら吐いた溜め息は深く、そしてどこまでも重たかった。
それからしばらくして、私は無事にデビュタントの日を迎えた。
シャペロンはもちろんルチアだ。
デビュタントのパートナーは家族であることが多く、私も例に漏れずラズライトがエスコート役である。
「ルチア、ラズを借りてごめんなさいね。夜会の間だけ、ううん、入場と最初のダンスの間だけだから許して」
「まぁ、ラピスったら何を言っているの。せっかくのラピスの晴れ舞台なのよ。そんなこと気にしないで一生に一度のこの時を楽しんでちょうだい」
シャペロンとして控えめに、けれど美しく着飾ったルチアに微笑みかけられて小さく頷く。
私はこの日のために仕立てた、デビュタントの乙女にしか許されない真白のドレスに身を包み、初めて結い上げた髪と、これまでとは違うドレスの丈にかすかな緊張を感じていた。
「ほら、そろそろ入場の時間よ」
「え、えぇ。行ってくるわね。……ラズライトはどこ?」
「え? あらっ? ここで待つ約束なのに……」
支度室を出て廊下で待っているはずのラズライトと合流しようとしたのだが、肝心のラズライトの姿がない。
デビュタントの場でエスコート役がいないだなんてお話にならない。
ルチアと共にどうしようかと廊下をうろうろしていたら、呼びに来た会場の係に早く入場列に並ぶように言われてしまった。
エスコートなしでフロアに出るだなんてとんだ恥晒しである。
さぁっと血の気が下がり、顔が青ざめていくのがわかった。
ルチアも何も聞かされていなかったらしく、隣で泣きそうになっている。
幸いだったのは私は並ぶ順番が後の方だったことだ。まだ少しの猶予がある。けれどそれも大した時間ではない。
私はその少ない時間を決断する時間に充てることにした。
「……ルチア、私お披露目をやめるわ」
「ダメよ! そんなこと……」
「だってエスコート役がいないんじゃ会場に入場出来ないわ。私はこれでもユヴェーレンの娘だもの。体裁は守りたいの」
「でも、せっかくのデビュタントなのに……。私、急いでラズライトを探して、いえ、おじ様を呼んでくるわ。だから……」
「広いフロアからお父様を探して呼んでくるのだってきっと間に合わないわ。いいのよ。会場でお披露目されなくとも、この後の夜会で挨拶回りをすればデビュタントしたことにはなるもの。お父様とお母様にはうまく言うから大丈夫。それにお披露目されなくったって死にはしないわ」
ルチアを安心させるために笑って見せるが、彼女は私の手を握って首を横に振るばかりだった。
入場の順番はもうすぐ私の番。
私は係の人に入場は取りやめると言いに行くために、ドレスの裾をさばいて他のデビュタントの乙女たちで混雑する会場の入場口に向かった。
「ユヴェーレン嬢? パートナーはどうされました」
「少し事情があって……」
入場はしない、と告げようとした私は、バタバタと近づいてくる足音にふと言葉を切って視線を動かした。
「間に合った……!」
「入場はまだだな!?」
「ら、ラズライト!? それに、ミスタ・ギースベルトも……。一体どうしたっていうのよ」
今までどこに行っていたのかだとか、突然ジェイドを連れてきて何のつもりかだとか、聞きたいことは沢山あったのに驚きが勝ってうまく言葉にならない。
目を丸くするばかりの私に、ラズライトは息を切らせながら私の方へジェイドを突き飛ばした。
「遅くなってごめん。ラピス、これ、君のエスコート役!」
「え、えぇっ!?」
「おい、ユヴェーレン! これとはなんだよ、これとは!」
「あはは。あー、櫛とハンカチあるけど使う?」
「さっさと寄越せ! あー、君、すまないが彼女の入場の順番をずらしてくれないか。三分で支度を整える」
ラズライトがぐいぐいとジェイドを私の方へ押すものだから、私はどうしていいかわからず廊下でただただ狼狽える。
そんな私の隣でジェイドは係に指示を飛ばし、ラズライトから受け取ったハンカチで額の汗を拭いて、櫛で髪を整え、シャツとジャケットの襟をぴしりと伸ばしていく。
「あ、私、手鏡を持っています。よろしければお使いになって」
私より一足先に我に返ったルチアもラズライトと共にジェイドの身支度に加わり、彼は本当に三分もしないうちに呼吸を整えて身支度を済ませてしまった。
「あのぅ、次の入場でよろしいでしょうか」
戸惑いがちにそう係の者に問われて思わず頷く。
頷いてから入場しないんじゃなかったのと思ったけれど、もうジェイドがこちらに腕を差し出して待っていたのだ。パートナーがいるのならば、入場しない理由はない。
でも、どうして。これは一体どういうことなの?
何一つわからなくて思わずラズライトを見れば、彼は子供の頃とまったく同じ表情でにやと悪戯っぽく笑ってウインクした。
「ラピスラズリ。君が行くのはデビュタントの会場だろ。決闘じゃない。そんな怖い顔してないでもっと笑ってよ」
デビュタントおめでとう。
微笑むラズライトとルチアに見送られ、私は流されるままジェイドにエスコートされてデビュタントの会場へと入場したのだった。
一歩フロアへ入った途端、華やかな音楽が流れて洗練された紳士淑女が私とジェイドへ視線を注ぐ。
(……これがデビュタントの会場……!)
ダンスパーティーはラズライトの学校のイベントで参加したことがあるが、規模も緊張感も全く違う。
その瞬間、私はこの場所で自分がすべきことを思い出した。
この日に備えてつま先の運びも、視線の位置も、顎の引き加減に至るまで、どれも全てユヴェーレンの娘に相応しくあるために何度も何度も練習したのだ。
(私はユヴェーレン伯爵令嬢ラピスラズリなのよ。ここで不様を晒してなるものですか)
小さく深呼吸をして背筋を伸ばし、ゆっくりと踏み出す私の横でジェイドが小さく笑ったのがわかった。
「もっと緊張しているかと思った」
その言葉に私は貴婦人らしい笑顔を浮かべて会場を見渡しながら答えた。
「知らないの? ユヴェーレンの女は本番に強いのよ」
「初耳だな」
「そうね。初めて言ったもの」
思ったよりも自然に会話が出来ることに内心驚きつつも、私はスムーズにエスコートを受けて会場に入場し、他のデビュタントを迎える令嬢たちと共にダンスフロアへと向かう。
初めてのエスコートだというのに、ジェイドは何も言わずとも私の歩幅にきちんとスピードを合わせてくれたので、歩きにくさは微塵も感じなかった。
嬉しい反面、手慣れ過ぎていて少し複雑な気分になってしまった私は、その気持ちを振り払うように口を開いた。
「ねぇ、どうしてラズライトとエスコート役を代わったの? 押し付けられでもした?」
ラズライトはきっとルチアと一緒にいたかっただろうから、エスコート役をジェイドに押し付けた可能性はゼロではない。
そう思って言った台詞だったのだが、それを聞いた瞬間ジェイドは少しだけ機嫌悪そうに眉間に皺を寄せた。
「違う」
「そうなの? ならどうして? 断ればよかったのに」
「だから押し付けられた訳じゃない。俺が、あいつからエスコート役を勝ち取ったんだ」
ひそひそと声をひそめてジェイドがそんなことを言うものだから、私は信じられなくて目を見開いて彼を見上げた。
最初に出会った年は同じくらいだったはずの身長は彼が卒業するまでにはとうに抜かれていて、今では見上げなければならないほどの差があることに改めて気付く。
「……勝ち取る?」
フロアに整列し、ジェイドの顔を見上げながら最初の姿勢を取れば、彼もまた同じタイミングで腕をホールドの形にした。
もう少しでダンスのための曲が始まる。
ねぇ、あなたは私とダンスを踊って良いの?
そう思った私の耳にジェイドはそっと囁いた。
「……君のレディとしての初めてのダンス相手は例えラズでも譲れなかったからさ」
「えっ」
もっと聞きたいことがあったのに曲が始まってしまったから、私はダンスに集中しなければならなくて、質問はそこで途切れてしまった。
(一体どういうことなの? もっとわかりやすく説明してよ!)
頭の中は疑問符でいっぱいだったけれど、それでもしっかりダンスのステップは踏めるのだから日々の練習の積み重ねというものは侮れない。
なんとかジェイドの足を踏まずにダンスを終え、彼のエスコートで待っていた両親のもとへ行くと張り詰めていた糸が切れたようにほうと大きな息が漏れた。
「ラピス、おめでとう」
「素晴らしいダンスだったわ。よく頑張ったわね」
両親の言葉に笑顔を返せば、両親は今度はジェイドに視線を向けて首を傾げた。
「しかし、ギースベルト君。どうして君がうちの娘のエスコートを? 息子はどうしたのかね」
「そうね。さっきまでラズも一緒にいたでしょう?」
「それ、は……」
温かく迎え入れてくれた両親は、不思議そうな顔をして私の隣に立つギースベルトを見ていた。
当然といえば当然の話である。家族でも親類でもない人間がエスコートをしたのだから、そこには然るべき理由がなくてはいけないはずだ。
私も理由が知りたくてジッとジェイドを見つめた。
両親と私とに見つめられて居心地悪そうにしていたジェイドは、それでも意を決したように背筋を伸ばし、まるで軍人のような姿勢でお父様の質問に答えた。
「それは、私がラズライトに頼み込んでエスコート役を代わって貰ったからです」
「何故だね?」
「……どうしても、この場で彼女とダンスを踊りたくて……」
ジェイドの言葉にお父様もお母様も驚いたように息を呑んだ。
それでも二人とも思考停止するようなやわな人ではなかった。
すぐに気を取り直して質問を重ねた。
「だからといってデビュタントのエスコート役だぞ。娘の今後にも関わることだ」
暗に私の今後の婚活について示唆するお父様に、ジェイドは視線を逸らさずにはっきりと言った。
「理解しています。後日改めて父と伺いたく思っておりますが、私は、彼女に、ユヴェーレン嬢に結婚を申し込みたいのです」
この発言にはさすがにお父様もお母様も驚いて言葉を失っていた。
もちろん私も。
驚きすぎて息が止まるかと思った。というか少し止まっていたと思う。
「……君が……?」
お父様の声はほんの少し掠れていて、お母様は口元に手を当てたまま目をパチパチさせるばかりだった。
「私はギースベルト伯爵家を継ぐことになります。伯爵位を継いでからも生涯彼女ただ一人を愛し、幸せにすると誓います。ですからどうか結婚の申し込みをお許し頂けませんか」
「……それはこの場で返答出来かねる。後日君の父上と正式な場を設けることにするが……、ラピス、お前の意向は?」
「え、わ、私、ですか?」
「そうだ。まだ早いというのならそれでも構わん」
「私……、私は……」
今度は皆の視線が私に集まり、私は思わずジェイドの腕を取って叫んだ。
「私、彼と少しお話ししてきます!」
「わっ!?」
そしてジェイドの腕を引っ張って足早にその場を離れ、ホールの隅の人気のない場所へと滑り込んだ。
ホールの隅なら少ないながら人目もあり、完全に二人きりの密室という訳でもないからお母様も許してくださるだろう。
「……あの、ミス・ユヴェーレン」
「どういうつもり?」
「なにが?」
口を開いたジェイドを遮って問う。
さっきから私はわからないことだらけで、今だって思考が追いついていないのだ。
速やかな説明を求めたい。
そういう気持ちで、私はジェイドを睨みつけるようにして重ねて問うた。
「今更一体どうしたっていうのよ。あなたもルチアみたいな淑女が良いのでしょう? 私なんかに結婚を申し込むなんて、何か悪いものでも食べたの?」
「私なんかって、なんだって君はそんな卑屈になるんだ?」
「卑屈にもなるわよ! 私はルチアみたいな素晴らしい淑女でもなければ、ラズライトみたいに優秀でもない。私は……私だけ、出来損ないなんだもの。そんな私に結婚を申し込むなんて、どう考えてもおかしいじゃない」
さっきジェイドはエスコート役を勝ち取ったと言ったが、それだって真実かどうか怪しいものだ。
もしかしたら何かの賭けに負けて押し付けられたとかそういうオチがつくかもしれない。
むしろそっちの方がまだ納得出来る。
さぁ、なんとでも言ってみなさいよ。
覚悟を決めてジェイドを見れば、彼は目を丸くして私を見つめていた。
「……出来損ない? 君、それ本気で思ってるのかよ?」
「は?」
「いや、いい。何となくわかる。規格外と一緒にいると感覚がおかしくなるんだよな。俺にも経験がある」
「ちょっと、どういう意味?」
全く理解が出来なくて首を傾げていると、ジェイドは頭痛を感じているのか眉間を指先で揉みながら続けた。
「君は周りが凄すぎるせいで自己評価がちょっとおかしくなってるって話だよ。いいかい? 普通の令嬢は君のように四カ国語も流暢に操れないし、古語にも古典にもそこまで精通してない。外国語のジョークにその国の古典から引用して返すだなんてことも、出来やしないんだよ」
「ルチアは出来るわ」
「そうだな。でも彼女はローエンシュタインのお姫様だろ。名門中の名門で厳しい教育で有名なローエンシュタインの出身なら出来て当然かもしれないが、それは皆の普通ではないってこと。君は十分優秀で、これからの社交界を引っ張っていく存在にだってなれるんだよ」
「そう、なの……?」
「そうだよ!」
私は出来損ないじゃなかったの?
そう問うと、ジェイドは当たり前だろと溜め息を吐いた。
「近くにいたのがローエンシュタインの一人娘とあのラズライト・ユヴェーレンじゃ感覚がおかしくなるのもわかるけどさ。あっちが規格外なだけなんだ」
「でも、私が出来損ないじゃないのと、結婚を申し込むとはまた別の話でしょ? あなた、あの時、最後のファミリーデーの時よ。私じゃなくてルチアをダンスに誘ったじゃない」
「それは……! あの時は、仕方がなかったんだ」
「どういうこと? 説明してくれるわね?」
こうなったら洗いざらい話してもらおう。
私はそう決めて、逃がさないようにジェイドの腕を両手でギュッと掴んだ。
ジェイドは困ったように視線をうろうろさせていたが、溜め息を一つ吐くと、先ほどお父様に結婚の許しを得ようとした時のように意を決した顔になって口を開く。
「あの時、ユヴェーレンの……ラズのお姫様をダンスに誘ったのは、君に好きな男だとか、婚約者候補だとか、そういうのがいないか聞き出そうと思ったからだよ」
「なんですって?」
「だって仕方ないだろ! あいつに何度聞いても『僕に勝てもしない男に教える訳ないだろ』って教えてくれないんだから!」
「そんなのラズに聞くくらいなら、さっさと私をダンスに誘って私から直接聞けばよかったじゃない!」
「直接聞ける勇気があったら最初からそうしたさ! それに、あいつに勝てたら君をダンスに誘うっていう約束だったんだ。結局あいつに勝てずに俺は万年次席だったけどな!」
「じゃあ、もしもあなたが主席になっていたら、私はダンスに誘えてもらえていたってこと……?」
まさかそんな理由があっただなんて。
初めて明かされた真実が衝撃的過ぎて脚の力が抜けてふらついてしまった私を、ジェイドは慌てて近くの椅子に座らせてくれた。
「ミス・ユヴェーレン。俺はずっと君に相応しい男になりたかった。だからラズライトに勝って主席になれないうちは自信が持てずにダンスにも誘えなくて……。なぁ、君、俺がどれだけファミリーデーのダンスパーティーで君と踊った奴らに嫉妬したかわかる?」
「な、何よ、調子の良いことを言って。その割に自分は女性たちを侍らせていたではないの」
「侍らせるだって!? 違う! あれは、君と踊る時に君に恥をかかせてはいけないから、ダンスの練習に付き合ってくれる人を探してると言ったら何故か相手が殺到してああなっただけなんだ」
ファミリーデーのダンスパーティーは、女性からダンスに誘っても良いという暗黙の了解がある。
そしてジェイドはギースベルト伯爵家の嫡男。
そんな彼が『ダンスの練習相手を探しているんだ』なんて言ったら、チャンスを狙った令嬢方が我先にと群がってもおかしくはない。むしろそうならない方がおかしい。
例年お決まりの女性を侍らせたジェイドを思い出し、私はつい呟いた。
「う、嘘でしょ……?」
「こんなことで嘘をついてどうするんだよ。俺は少なくとも君にだけは絶対に嘘をつかない」
「だって……。だって、それじゃあ、あなたが私のことを好きみたいに聞こえるわ」
「好きだから、死にそうに緊張しながら君のお父上に結婚の許しを貰いに行ったんだけどな」
そしてジェイドはきゅっと唇を噛んだ。
「最後のファミリーデーの後、つまらない意地を張って結局君と踊る機会を逃したことを散々後悔した。もう後悔したくない。デビュタントを迎えたら誰もが君を放っておかないに決まってる。俺としても、もうなりふり構っちゃいられないんだ」
「……ミスタ・ギースベルト……」
椅子に座る私の前に跪き、ジェイドは私の手を取って言った。
「ミス・ユヴェーレン。お願いだ。どうか俺を選んでくれ」
その言葉が胸の奥にじんと響く。
私はこの手を握り返して良いのかしら。
失恋したと思って泣いたあの日の自分を思って私は逡巡した。
「……私は……」
真っ直ぐに私を見つめる狼のように鋭い緑の瞳。
けれど笑うと人懐こく見えるのを知っている。
彼の名前と同じ翡翠色の綺麗な目に、今、私が、私だけが映っていた。
「あの、では、本当にあなたは私のためにここに来てくれて、ラズライトに代わってエスコートしてくれたのね」
「君のため、と言っていいのかな。俺がどうしてもそうしたかったんだ。だから、ラズライトにチェスで勝負を挑んでエスコートの権利を勝ち取った。……時間がかかってもう少しで君のデビュタントを台無しにしてしまうところだったことは本当に申し訳なかった。心から謝る」
「確かに不安にはなったけど、でも、あなたはちゃんとラズに勝って私のところに来てくれたわ。そうでしょう、ミスタ・ギースベルト」
我ながら甘過ぎるかしら。
私は小さく笑って肩を竦めた。
ジェイドは本当に?と私の真意を窺うように私を見つめ続けている。
彼に見つめられていると思うと、それだけで頬がますます熱くなっていく。
きっと真っ赤になってしまっている頬を押さえて私は思わず俯いた。
あぁ、私はまだこんなにも彼のことが好きなのだわ。
初恋にしがみついてはいけないとあの日涙と共に流したはずの恋心は、熾火のように胸の中に残っていて、今再び燃え出そうとしている。
そんな未練がましい自分がおかしくて、でもそれ以上にジェイドの気持ちが嬉しかった。
「……俺を許してくれるなら、どうかジェイドと呼んで貰えないか」
私は自分が思っていたより単純で現金な女の子だったらしい。
デビュタントのお披露目を中止しなければならないかもしれないと青褪めたあの時のことが、もう随分遠くに感じられる。
それよりも今は名前を呼んでほしいと言われたことで胸がいっぱいだった。
ファーストネームを呼ぶことを許されるのは、家族以外ではごく親しい、とても親密な許された相手だけ。
貴族の暗黙の了解を知らない彼ではないから、これはきっとそういうことなのだろう。
嬉しくてじわりと視界が滲む。
「──ジェイド」
小さく、確かめるように舌に音を乗せる。
初めて名前を呼んだその瞬間、ジェイドはそれはもう嬉しそうに微笑んだ。
その表情を見た途端、体温がぐんと上がった気がした。そろそろどこか溶けてしまいそうだ。
「ジェイド。あの、あのね。私のことも、どうぞラピスと呼んでちょうだい」
「良いのか……?」
「えぇ、あなたなら良いわ。でも、一つだけ条件があるの」
「条件というのは?」
椅子に座ったまま深呼吸を一つ。
私はこちらを見上げるジェイドに視線を合わせて囁くように言った。
「……ダンスに、誘ってほしいの」
ダンスだけなら先ほどもしたが、定められたエスコート役としてのダンスと、夜会の会場でダンスを申し込まれるのとではやっぱり違う。
一度くらいは好きな相手からダンスに誘ってほしいのだ。
でも条件として出すは子供っぽいと思われるかしら。
少しの不安と共にジェイドの返答を待つ。
ジェイドは一瞬驚いた顔になり、そしてあの狼のような鋭い目をふっと柔らかに細めた。
「俺もずっと君をダンスに誘いたかった。……ミス・ユヴェーレン。いや、ラピス。俺ともう一曲ご一緒願えないだろうか」
笑うと少し幼く見える、私の大好きな笑顔。
その笑顔を見た瞬間、胸の真ん中をぎゅうとものすごい力で掴まれたような感覚が私を襲い、瞬く間に私は頬どころか全身真っ赤になってしまった。
あぁ、これはもう完全に私の敗けよ。二度目の敗北。一度目よりも明確に、私は今この人に二度目の恋をした。
お庭の薔薇みたいに真っ赤な顔で頷くことしか出来ない私に、ジェイドはまた少し笑ったのだった。
そして私は念願だったジェイドからのダンスの誘いを受けてホールで踊り、半ば夢現のようなふわふわとした足取りでジェイドと共に両親のもとへと戻ったのである。
両親は私を見るなり目を丸くして、そしてやれやれと息を吐いた。
「ラピス、どうやら返事は聞くまでもなさそうだな」
お父様にそう言われて、私はなんだか照れくさくて何も言わずただ目を伏せる。
私の隣ではジェイドも同じように目を伏せていた。
そんな私たちを見て、お母様が小さく笑いながら後方を指差した。
「どうやらあの子の計画通りなようね」
振り返れば、いつの間にかこちらを見て楽しそうに笑うラズライトとルチアがそこにいた。
「上手くいったみたいで良かった」
「ラズライト!」
続けて声を掛けられて、私とジェイドはまさか先ほどからずっと見ていたのかと顔を赤くした。
ホールの隅で話していた時も、個室にいた訳ではないから見られていたとしても不思議ではないけれど、それはそれとして何となく気恥ずかしい。
ラズライトにエスコートされるルチアもニコニコと微笑んでラズライトに続く。
「うふふ、私、歳下のお義兄さまが出来るのね。素敵だわ」
「お義兄……ッ?!」
「る、ルチア、そんな、気が早いわ。まだ婚約だってしていないのよ」
「あら、でもすぐそうなるでしょう? そうよね、ラズ」
「間違いないね。だってジェイドは初めて会った時から『天使様』にそれはもうゾッコンだったからねぇ」
「お前、そ、それ、それは、秘密だってあれほど……!」
うんうんと頷くラズライトの言葉にジェイドがわかりやすく狼狽えていて、私は聞き慣れない言葉にこてんと首を傾げた。
「天使様って何なの?」
ラズライトはなんだかニヤニヤ笑っているし、ルチアも答えがわかったのか肩を竦めている。
けれど二人とも私にそれを教えてくれるつもりはなさそうだ。
私は仕方なくジェイドを見上げて再び訊ねた。
「ねぇ、ジェイド。天使様って……」
「あぁもう! 君のことだよ! 決まってるだろ!」
「なっ、え、えぇえ!?」
素っ頓狂な声を上げてしまった私に、ジェイドは吹っ切れたように言った。
「君と初めて会ったあの日に俺は天使様の存在を信じたね。あの手のかかるお坊ちゃんの片割れが、こんなに可憐で……、可憐?いや、そんなもんじゃないな。もうとにかく衝撃的過ぎた。俺の目に君は光を纏った天使に見えたんだ。こいつとおんなじ目の色と髪の色なのに君の可愛さったら……!」
「やめ、もう、もうやめて! もうわかったから! ジェイド!」
「嫌だね。こうなったら全部伝えてやる。ラピス、君、覚悟した方がいいぜ」
「そんな覚悟出来る訳ないでしょ!」
まるで口論するような勢いでジェイドは私について語り始め、私はそれを制止し続ける。
ジェイドの口からは本当に次から次へと言葉が出て来て止まる気配がないのだから驚いた。
「まったく。もう少しカッコつけられたら完璧なのに真っ赤になってちゃ台無しだ」
「あらあら、本当。二人とも真っ赤ね。可愛いわ」
「ルチア。僕は?」
「もちろんラズが一番可愛いわ」
そんな私たちの横でラズライトとルチアがニコニコと笑っている。
絶対に私の味方をしてくれそうにないので、私はこれ以上ジェイドに追撃されてなるものですかとジェイドの胸ぐらを掴んで小さく叫んだ。
「もう! 今すぐやめないとその口塞ぐわよ!」
「ははは、生憎だが俺には君と出会ってから今まで溜めに溜めた想いが……、ん!?」
忠告したのに黙らないジェイドの胸ぐらを掴んだまま、両腕に思い切り体重を掛ける。
彼がよろめいてほんの少し屈むような格好になった瞬間を私は見逃さなかった。
精一杯背伸びをしてジェイドの言葉を唇で遮る。
本当に、軽く触れるだけの口付けは、ごく短い時間だったはずなのに一瞬時が止まったように長く感じた。
すぐにちゅっと小さな音を立てて唇が離れ、私は背伸びが続かなくて踵を下ろした。カツンとヒールが床を叩く。
「――口を塞ぐと言ったでしょう」
ようやく静かになったジェイドが目を丸くしているのを見て、私はザマァ見なさいとフンと鼻を鳴らした。
私だってやられているばかりではないのよ。ルチアと違って私はお転婆なんだもの。
「だ、だからって、ラピス……、君、こんな……」
顔を真っ赤にさせたまま口を押さえているジェイドが何だかとっても可愛く見える。
ルチアがよくラズライトを可愛いって言うのはこういう気持ちの時かしら。
私はまだ固まっている彼の鼻先をちょんと突いて笑った。
「言ったでしょ。ユヴェーレンの女は本番に強いのよ!」
──こうして、随分と遠回りをした私とジェイドの初恋は、デビュタントを迎えた夜に所謂大団円を迎えたのだった。
公衆の面前で殿方にキスしたことについて、私は帰りの馬車でお母様に懇々と説教をされた訳だけど(とばっちりでラズライトも叱られたわ)、まぁ、それはそれこれはこれよね。
「ジェイド、ねぇ、これ髪飾り歪んでない?」
「大丈夫、歪んでない。いつも通り最高に可愛いよ。俺のタイは?」
「完璧! あっ、そろそろ時間かしら」
「あぁ、また後で会場でな」
双子の弟であるラズライトと、私の家庭教師であるルチルアンナの結婚式の日。
私とジェイドはそれぞれブライズメイドとアッシャーに任命されて支度に追われていた。
これから私はルチアの入場の手伝いに、ジェイドはラズライトの様子を見てから先に会場に入ることになっている。
「あぁ、待ってジェイド。忘れものよ」
最後に鏡で髪や襟元の確認をして先に部屋を出ようとしたジェイドを引き留め、くいと袖を引く。
「え、忘れもの?」
そして振り返った彼の頬にちゅ、とキスを贈った。全く、ジェイドったら本当に無防備なんだから。
頬を押さえて硬直しているジェイドに私はジェイド曰く『ラズライトと同じ悪戯顔』を浮かべてパチリとウインクを飛ばした。
「ふふ、天使様の加護よ。ありがたく受け取りなさい」
「……ありがたいけど、どうせなら唇が良かった」
「ワガママ言わないの。今日だけは主役より先にキスする訳にはいかないじゃない」
「お、言ったな? ラズたちの次は俺たちだからな。君、覚悟しといてくれよ?」
「まぁ、どうしようかしら」
くつくつと二人で小さく笑い合いながら部屋を出て、廊下の真ん中でまた後でと手を振って別れる。
私が長年抱え続けた憂鬱はようやく全てが溶けきって、種子のまま死んでいくのだとばかり思っていた初恋はゆっくりと花を開かせている。その花の名を、私はきっと幸福と名付けるのだろう。
(私もラズとルチアみたいに幸せに……、いいえ、私たちには私たちの幸せがあるはずだわ)
ブライズメイドとして仕立てたドレスの裾を揺らし、一度深呼吸をしてからルチアの部屋のドアをノックする。
「──先生、時間よ。心の準備はよろしいかしら」
そんな軽口を叩いてドアを開けた私の胸の中は、キラキラと翡翠色に輝く幸せに満ちていた。
ジェイドは翡翠なので、宝石的にいうのならジェダイトの方が正しそうなのですが、ラピスラズリを和名の瑠璃にしたのでこちらもジェイドで揃えてみました。
前作と合わせてお楽しみ頂ければ幸いです。




