プロローグ
祖母は僕が殺した。
そう言ったら、大袈裟だと笑われるかもしれない。
でも、どうしてもそう思ってしまう。
祖母がおかしくなっていたことには、気づいていた。
冷蔵庫の奥で変色したヨーグルト。
誰もいないのに二つ並べられた食器。
左右で違う靴下。
祖母は、しっかりした人だった。そんな失敗をする人じゃなかった。
僕は、それを知っていた。
それでも目をそらした。
祖父が死んでから、祖母の声はよく響くようになった。
泣き声も、独り言も、誰かの名前を呼ぶ声も、
大きな家の壁にぶつかって、僕の耳まで届いた。
それが怖かった。
祖母が変わっていくことが、
僕の記憶の中の祖母が壊れていくことが、
ただただ、怖かった。
あのまま覚えていてほしかった。
しっかり者で、よく笑って、僕の名前をまっすぐ呼ぶ祖母のままでいてほしかった。
だから、認めなかった。それだけだ。
祖母が話しかけてきても、祖母が何かを忘れていても、何も言わなかった。
何もしなかった。
そうしている間に、祖母は僕の名前を忘れた。
目が合っても、笑っても、もう僕のことを「誰か」としか見ていなかった。
その瞬間、胸の奥が冷たくなった。
それ以上、近づくのが怖くなった。
会うのをやめた。
連絡もしなかった。
祖母の家の前を通っても、足を止めることはなかった。
そのうちに、祖母は死んだ。
僕は、祖母の手を握らなかった。
祖母の声をまっすぐに受け止めなかった。
ただ、見なかった。見たくなかった。それだけだった。
それだけだったのに、ずっと心の奥で、誰かに責められている気がする。
もう誰もいないのに、ずっと。
祖母が死んでから、しばらく家には行かなかった。行けなかった。
行けば何かを直視する気がして。
ある日、家族に遺品整理の手伝いを頼まれて、ようやく祖母の家を訪れた。
もう祖父も祖母もいないのに、雰囲気だけはあの日のままで、それがどうしようもなく気持ちが悪かった。
記憶に染みついた場所から逃げて、何気なく開けた押入れから出てきたのが、古いフィルムカメラだった。
錆びついていて、うまく巻けないフィルム。
ピントの合っていないファインダー。
それでも、僕は気づけばシャッターを切っていた。
祖母の湯呑みを。
誰もいない縁側を。
靴下の片方だけが干された、洗濯物の紐を。
それが僕の、最初の写真だった。
撮っているときは、なぜか息ができる気がした。
まだ、ここにある。
まだ、残っている。
そう思いたかったのかもしれない。
けれど、その感覚が何なのかは、わからなかった。
苦しさかもしれないし、悲しさかもしれない。
後悔かもしれないし、罪悪感かもしれない。
ただ、それに名前をつけたくて。
それが何かを知りたくて。
カメラ一つだけ持って、高校卒業と同時に家を飛び出した。
あれから、二十年が経った。
久しぶりに吸い込んだ故郷の空気は、あの日と同じ、少し湿った匂いがした。
カメラは今も、肩にかけてある。
処女作です。
よろしくお願いします。