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監視彼氏

作者: 闇男

## 第一章 偶然の始まり


雨の音が窓を叩く水曜日の午後、私は彼を初めて見た。


会社の休憩室で一人コーヒーを飲みながら資料を眺めていた時、誰かが席に近づいてくる気配がした。顔を上げると、そこには茶色い髪に優しそうな目をした男性が立っていた。


「すみません、この席空いてますか?」


彼の声は低く、少し緊張しているようにも聞こえた。私は頷いて「どうぞ」と答えた。


「ありがとうございます。あの、初めまして。システム開発部の神崎俊介です」


彼はそう言って軽く会釈をした。細身の体に似合わないほど大きな手で、コーヒーカップを持っていた。


「営業企画の沢村梨子です。よろしくお願いします」


そんな何気ない会話から、私たちの関係は始まった。


今思えば、あの日の出会いは本当に偶然だったのだろうか。


彼は最初、ただの優しい同僚だった。仕事で困っていると自然に手を差し伸べてくれて、昼食を一緒にする機会も増えていった。彼の話は知的で、時折見せる照れた表情が可愛らしくて、気がつけば私は彼との時間を楽しみにするようになっていた。


「沢村さんの好きな映画って何ですか?」


ある日の昼食時、彼がふと尋ねた。


「洋画が好きで、特にサスペンスとか。最近だと『窓の向こう』が良かったな」


「え、本当ですか?僕も先週見たんです!あのラストシーンの展開は予想外でした」


彼の目が輝いた。そして、私が言及した映画の細部まで熱心に語り始めた。彼の映画の趣味が私とよく似ていることに、嬉しい驚きを感じた。


数週間後、会社帰りに神崎さんと偶然駅で出会い、彼が「良かったら、今度一緒に映画でも」と誘ってくれた。そして週末、二人で映画館へ行くことになった。


それが、私たちが初めて会社外で会った日だった。


彼は私の好みを察してくれるのが上手かった。映画の後に連れて行ってくれたカフェは、私が以前SNSで「行ってみたい」と投稿した店だった。彼も知っていると言って嬉しそうにしていた。


「ここのティラミスが美味しいって、梨子さんも知ってたんですね」


彼はそう言って微笑んだ。私は自分がいつその店について話したのか思い出せなかったが、きっとどこかで触れたのだろうと思った。


デートを重ねるごとに、私たちは親密になっていった。彼は私の好きな食べ物や音楽、服のブランドまで覚えていてくれて、いつも私の好みに合わせたプレゼントをくれた。


「これ、梨子さんが前に欲しいって言ってたやつですよね?」


彼が差し出したのは、確かに私が友人との会話で欲しいと言っていた腕時計だった。でも不思議なことに、その会話に彼はいなかったはずだった。


「どうして知ってたの?」


「え?あの、確か梨子さんが話してたことがあって...」


彼は少し言葉に詰まった後、「偶然見かけて、梨子さんに似合うと思って」と言った。その時は気にも留めなかったが、今思えばそれが最初の違和感だったのかもしれない。


交際が始まって一ヶ月ほど経った頃、彼は私の趣味や習慣を驚くほど詳しく知っていた。朝は何時に起きるか、通勤中に何を聴くか、休日に何をするのが好きかまで。それが特別なことだとは思わなかった。ただ、彼が私のことをよく見ていてくれているんだと感じて嬉しかった。


「梨子、今日も白いブラウスが似合ってるね」


彼が言った。確かに私は白いブラウスをよく着る。でも、それだけではなかった。


「今日のアクセサリーも可愛いね。昨日買ったの?」


彼の言葉に、私は少し驚いた。確かに昨日買ったばかりのピアスだった。でも、彼には言っていなかったはずだ。


「うん...どうして分かったの?」


「え?あ、なんとなく新しく見えたから...」


彼はそう言って話題を変えた。それが二度目の違和感だった。


時間が経つにつれ、彼の「偶然」は増えていった。私の行きつけのカフェで偶然出会ったり、休日に立ち寄った本屋で彼を見かけたり。最初は単なる偶然だと思っていたが、その頻度があまりにも高すぎると感じ始めていた。


「神崎さん、最近よく会うね」


ある日、私がそう言うと、彼は少し顔を赤らめて「そうかな?単なる偶然だよ」と答えた。その笑顔は優しかったが、どこか計算されているようにも見えた。


それから数週間後、友人の結婚式に参加した帰り道、私は彼を見かけた。私が行くと告げていなかった駅の近くを、彼が歩いていたのだ。驚いて声をかけると、彼は明らかに動揺した様子で「ちょっと用事があって」と言った。


その夜、家に帰るとなぜか玄関のドアが少しだけ開いていた。不審に思って部屋を確認したが、何も盗まれた形跡はなかった。ただ、なぜか私のパソコンの電源が入っていた。確かに朝は切ったはずなのに。


そして、最も不気味だったのは、枕元に置いていた日記帳が少しずれていたことだ。誰かが読んだような痕跡があった。


私はその夜、初めて彼への恐怖を感じた。「単なる偶然」と思っていたことが、実は計画的な「監視」だったのではないかと。


翌日、会社で彼と会った時、私は何も言わなかった。でも心の中で決めていた。彼の正体を確かめなければならないと。


その日の帰り道、私は普段と違うルートで帰った。そして案の定、数百メートル後ろを彼がついてきているのを確認した。私は急に足を止め、振り返った。彼はすぐに路地に隠れようとしたが、間に合わなかった。


「神崎さん、なぜ私をつけてくるの?」


彼は一瞬凍りついたように立ち尽くし、それから申し訳なさそうな表情を浮かべた。


「梨子さん、違うんだ。僕はただ...」


「私の家に入ったの?パソコンをチェックしたの?」


彼の顔色が変わった。


「梨子さん、誤解だよ。僕はただ梨子さんのことが好きで...」


「好きだからって、人の家に無断で入るの?私を監視するの?」


私の声が震えていた。恐怖と怒りが入り混じった感情が込み上げてきた。


彼は黙って俯いた後、ゆっくりと顔を上げた。そこにはもう、あの優しい笑顔はなかった。


「梨子さんのことが知りたかったんだ。もっと、全部...」


彼の声は低く、どこか別人のように聞こえた。


「梨子さんのことは全部知ってる。朝は6時に起きて、コーヒーを飲んでから出かける。通勤中はいつもクラシック音楽を聴いてる。職場では水筒のお茶を飲む。昼食は野菜サラダが多い...」


彼は私の日常を詳細に語り始めた。それは単なる観察ではなく、明らかに私を監視していた証拠だった。


「もう十分だ!警察に通報する!」


私がそう叫ぶと、彼の表情が一変した。


「そんなことしないで!僕は梨子さんを守りたいだけなんだ!」


彼が一歩前に出たので、私は反射的に後ずさった。その時、彼の手に何かが光るのが見えた。それは...私の家の鍵だった。


「返して!」


私が叫ぶと、彼はゆっくりと鍵を差し出した。


「梨子さん、僕は本当に君が好きなんだ。だから...」


「もう十分よ。これ以上近づかないで。次は本当に警察に行くから」


私はそう言って鍵を奪い取り、急いでその場を離れた。背後で彼が何か叫んでいたが、振り返らなかった。


家に着くと、すぐにドアの鍵を変えるよう管理会社に連絡した。そして警察にも相談した。彼らは「証拠がないと難しい」と言ったが、一応警告はしてくれるとのことだった。


次の日から、彼は会社に来なくなった。人事部によると「体調不良で休職」したらしい。私はそれで安心したが、それも束の間だった。


数日後、私の携帯電話に見知らぬ番号から着信があった。出ると、彼の声だった。


「梨子さん、ごめんなさい。でも僕は梨子さんのことが好きで...」


私はすぐに電話を切り、その番号をブロックした。だが、その後も別の番号から何度も着信があった。メールアドレスも次々と変えて、謝罪と愛情を混ぜたメッセージを送ってきた。


さらに恐ろしいことに、私のSNSアカウントに不審なログイン履歴があることに気づいた。彼が私のパスワードを知っていたのだ。慌てて全てのアカウントのパスワードを変更した。


一週間後、私は実家に避難することにした。夜中に誰かがドアをノックする音で目が覚めたのがきっかけだった。ドアを開けると、そこには誰もいなかったが、ドアノブには赤いバラが結びつけられていた。


実家に着いた翌日、母に全てを話した。彼女は「すぐに警察に行きましょう」と言ってくれた。そして今度は、警察も真剣に取り合ってくれた。ストーカー規制法に基づいて、彼に警告を出すと言ってくれたのだ。


しかし、それでも彼の行動は止まらなかった。実家の前にも彼の姿が見えるようになった。窓から外を見ると、木の陰に隠れて立っている彼の姿が見えた。警察に通報しても、彼が来る頃には既に姿を消していた。


「梨子、会社を辞めたら?」


父がそう提案した時、私は涙が止まらなかった。好きだった仕事を、彼のせいで諦めなければならないなんて。でも、他に選択肢がなかった。


会社に辞表を提出した日、同僚たちは驚いていた。特に仲の良かった友人の美咲は「なぜ?」と何度も尋ねた。全てを話すことはできなかったが、「個人的な理由で」と伝えると、彼女は理解してくれたようだった。


辞職から一週間後、私は引っ越しの準備を始めた。友人の紹介で、遠方の別の街に新しい仕事も見つかっていた。ようやく彼から逃れられると思った矢先、恐ろしい発見をした。


私の荷物を整理していると、見覚えのない小さな黒い箱が見つかった。よく見ると、それは超小型のカメラだった。私の部屋に、監視カメラが仕掛けられていたのだ。


恐怖で体が震えた。さらに探してみると、リビングにも、浴室にも同じようなカメラが見つかった。私の生活のすべてが、彼に見られていたのだ。


警察に通報すると、彼らは「これは明確な証拠になる」と言った。ついに彼を逮捕できると思った。だが、彼の姿はどこにも見つからなかった。


引っ越し当日、私は警察官の付き添いのもと、最後の荷物をまとめていた。そこへ突然、ドアが開く音がした。玄関に立っていたのは、痩せこけた姿の彼だった。


「梨子さん、行かないで...」


彼の声は震えていた。目は充血し、何日も眠っていないように見えた。


「神崎さん、もうやめて。これは愛じゃないわ」


私はできるだけ冷静に言った。


「愛してるんだ、梨子さん。僕だけが君を理解している。君のすべてを知っているのは僕だけだ」


彼が一歩前に出た時、警察官が彼の前に立ちはだかった。


「神崎俊介さん、あなたをストーカー規制法違反の容疑で逮捕します」


彼は抵抗することなく、ただ私を見つめたまま連行されていった。その目には、愛情と執着が混ざった不気味な光があった。


それから一年が経った。彼は罰金刑と執行猶予付きの判決を受け、心理カウンセリングを受けることになった。私は新しい街で、新しい生活を始めた。


しかし、時々感じるのだ。誰かに見られている感覚を。窓の外に人影を見た気がして振り返ると、そこには誰もいない。電話が鳴っても、出ると無言だったり。


「気のせいよ」と自分に言い聞かせる。もう彼からは自由になったはずだ。


だが、先日受け取った封筒の中には、私の新しい家の前で撮られた写真が入っていた。そこには「永遠に見守っています」という言葉が書かれていた。


監視は、まだ続いているのだ。


## 第二章 埋め込まれた視線


神崎俊介の部屋は、整然としていた。


四畳半の狭いワンルームアパートだが、書籍は分野別に並べられ、デスクの上のパソコンと周辺機器も完璧に配置されていた。壁には何も飾られていない。ベッドは軍隊のように四角く整えられている。


唯一、この完璧な空間に異質な存在があるとすれば、それは部屋の隅に設置された大型のモニターだろう。そこには分割された複数の画面が映し出されていた。


沢村梨子のアパートのリビング。

沢村梨子の寝室。

沢村梨子の浴室。

沢村梨子のパソコン画面。

沢村梨子のスマートフォン画面。


そして最後の画面には、リアルタイムのGPS位置情報と共に、彼女の現在地が表示されていた。


俊介はモニターの前に座り、キーボードを軽く叩いた。画面が切り替わり、梨子のSNSアカウントのページが表示された。彼女が知らない間に彼がインストールしたプログラムによって、彼女のすべての行動が記録されていた。


「今日も元気そうだね、梨子」


俊介は静かに呟いた。彼の声には愛情が満ちていた—少なくとも彼自身はそう信じていた。


彼が梨子に惹かれたのは、彼女が入社したその日だった。システム開発部で黙々とコードを書いていた彼にとって、明るく活発な彼女は、まるで別世界からやってきた存在のように思えた。


最初は遠くから眺めているだけだった。毎日の彼女の行動パターンを記録し、彼女の好みや趣味を調べ、彼女の会話を聞き取ろうとした。それが「調査」から「監視」へと変わったのは、彼が会社のネットワークを通じて彼女のパソコンにアクセスした日からだった。


それは簡単だった。システム管理者権限を持つ彼にとって、彼女のパソコンに遠隔操作ソフトをインストールするのは難しくなかった。そこから彼女のメール、検索履歴、文書をすべて見ることができるようになった。


そして、彼女のスマートフォンにもアクセスする方法を見つけた時、彼は自分が「運命の人」だと確信した。彼女の全てを知ることができるのは、彼だけなのだから。


「僕だけが梨子を本当に理解できる」


俊介はそう信じていた。彼女の過去の恋愛履歴、家族との関係、友人との会話、全てを知っていた。それを基に、彼は「完璧な恋人」になるための計画を立てた。


彼女の好みに合わせて自分を変え、彼女が興味を持ちそうな話題を調べ、彼女が行きたがっていた場所をチェックする。そして「偶然」を装って彼女に近づいた。


最初のアプローチは完璧だった。彼は彼女が休憩室にいる時間帯を把握していて、彼女が一人でいる瞬間を見計らって話しかけた。彼女の反応は予想通りだった。


それからの彼の行動は、すべて計算されていた。彼女のSNSで言及していた映画の話をし、彼女が好きな音楽について語り、彼女が気になっていた本を薦める。彼女の心を掴むのは、思ったより簡単だった。


「梨子は純粋だから、僕の気持ちを理解してくれる」


彼はそう思っていた。でも、本当に彼女が理解していたのは、彼が見せていた「偽りの姿」だけだった。


交際が始まった後も、彼の監視は続いていた。むしろ、エスカレートしていった。彼女の部屋に忍び込み、小型カメラを設置し、彼女の日記を読み、彼女の下着の匂いを嗅ぎ、彼女の髪の毛を集めた。


彼にとって、それは「愛の証」だった。彼女のすべてを知り、彼女のすべてを持っていたいという欲望に駆られていた。


だが、彼女が彼の行動に気づき始めた時、事態は急変した。彼女の態度が変わり、彼を避け始めた。そして、あの日、彼女に直接問い詰められた。


「なぜ私をつけてくるの?」


彼女の恐怖に満ちた眼差しは、彼の心を深く傷つけた。彼は理解されていないと感じた。彼の「愛」が受け入れられていないことに、深い怒りと悲しみを覚えた。


逮捕された日、彼は警察に全てを話した。彼がどれほど彼女を愛していたか、どれほど彼女のことを知っていたか、どれほど彼女を幸せにしたかったかを。


警察官たちは彼を奇異な目で見た。心理カウンセラーは彼の行動を「病的」と評した。彼は理解されなかった。


出所後、彼は表面上は「更生」を装った。カウンセリングに真面目に通い、「反省している」と言い続けた。だが、彼の心の中では、彼女への執着が消えることはなかった。


彼女が引っ越し、新しい職場で働き始めたことも、彼は既に知っていた。彼女のSNSアカウントからIPアドレスを追跡し、彼女の新しい住所を特定するのは難しくなかった。


そして今、彼は再び彼女を監視していた。今度はより慎重に、より完璧に。


「梨子、僕はいつも見守っているよ」


俊介はモニターに映る彼女の姿に微笑みかけた。彼の指先は、次の「偶然の出会い」を計画するためのメモを打ち込んでいた。


## 第三章 壊れた鏡


沢村梨子は新しい街で、新しい生活を始めていた。


東京から遠く離れた地方都市の小さなデザイン会社で働き始めて三ヶ月が経っていた。会社は和やかな雰囲気で、同僚たちも優しく接してくれた。特に同じデザイナーの高山智也とはすぐに打ち解け、仕事終わりに食事に行くこともあった。


「沢村さん、このデザイン素晴らしいですね」


高山はそう言って、梨子の手がけたパンフレットのデザインを褒めた。


「ありがとう。でも、まだ色のバランスが...」


「いやいや、本当に素晴らしいですよ。沢村さんはセンスがあります」


高山の言葉に、梨子は照れながらも嬉しく思った。彼は純粋に彼女の仕事を評価してくれている。それだけで十分だった。


前の職場での出来事以来、梨子は人間関係に慎重になっていた。特に男性との距離感には気を使っていた。高山とも、あくまで同僚以上の関係にはならないよう心がけていた。


しかし、ある日の帰り道、高山が思いがけない提案をした。


「沢村さん、今度の週末、美術展に行きませんか?」


梨子は一瞬戸惑った。それはデートの誘いに聞こえた。


「ごめんなさい、高山さん。私は...」


「あ、違うんです。仕事の参考になりそうな展示があって。もちろん、他の同僚も誘おうと思ってたんですが...」


高山の言葉に、梨子は少し安心した。それでも、彼女は断ることにした。


「ありがとう。でも今度にします」


その日の夜、梨子は一人アパートで夕食を取りながら考えていた。高山のような素直で優しい人を警戒してしまう自分が嫌だった。あの出来事から一年以上経つのに、まだ心の傷が癒えていないことに落ち込んだ。


「もう大丈夫なはずなのに...」


彼女は溜息をついた。テレビをつけると、ちょうどストーカー被害についての特集が放送されていた。被害者の女性が涙ながらに体験を語る姿に、梨子は自分を重ね合わせた。


「多くの場合、ストーカー行為は、加害者が『愛している』という歪んだ感情から行動を起こします」


画面の中の心理学者がそう説明していた。


「彼らは自分の行為を『愛』だと正当化し、相手の恐怖や不快感を理解できないのです」


その言葉に、梨子は神崎の顔を思い出した。彼もきっと、自分の行動を「愛」だと信じていたのだろう。その「愛」のために、彼女の生活は台無しになった。


番組が終わった後も、梨子はしばらくソファに座ったまま動けなかった。そして、ふと窓の外を見ると、道路の向かい側に立つ人影が目に入った。


男性のシルエット。街灯の明かりで、その輪郭だけがはっきりと見えた。


梨子の心臓が早鈍りを打った。その姿は、どこか神崎に似ていた。


「気のせい、気のせいよ...」


彼女は自分に言い聞かせた。カーテンを閉め、深呼吸をした。それでも、胸の動悸は収まらなかった。


次の日、会社で高山に会った時、梨子は思い切って声をかけた。


「高山さん、美術展のこと、まだ誘ってくれる?」


高山は驚いたような、嬉しいような表情を見せた。


「もちろんです!今週の土曜日、大丈夫ですか?」


梨子は頷いた。恐怖に負けてはいけないと思った。新しい生活、新しい人間関係を恐れていては、いつまでも彼の影に怯えたままだ。


土曜日、梨子は約束の場所に向かった。美術館の前で待っていると、高山が手を振りながら近づいてきた。彼は普段よりもきちんとした服装をしていて、少し緊張しているようだった。


「お待たせしました。行きましょうか」


美術展は現代アートの特集で、二人はゆっくりと作品を鑑賞した。高山は芸術についての知識が豊富で、作品の背景や作家について詳しく説明してくれた。梨子は久しぶりに、心から楽しい時間を過ごしていると感じた。


展示を見終わった後、二人は近くのカフェに入った。窓際の席に座り、コーヒーを注文する。外は小雨が降り始めていた。


「今日はありがとう。とても楽しかった」


梨子は微笑んだ。


「こちらこそ。沢村さんと一緒に過ごせて嬉しかったです」


高山の言葉に、梨子は少し顔を赤らめた。彼の目は優しく、どこにも計算や駆け引きが見えない。


会話が弾む中、梨子はふと窓の外に目をやった。そこで、彼女は凍りついた。


道路の向かい側に、黒い傘を差した男が立っていた。雨の中、じっとこちらを見ている。その姿は、昨夜見た人影と同じだった。


「沢村さん?どうしましたか?」


高山の声が遠くに聞こえた。梨子の視界は、窓の外の男だけに集中していた。


「あの...あの人...」


梨子の声は震えていた。高山も窓の外を見たが、その時には男の姿は消えていた。


「誰かいましたか?」


「いえ...気のせいかも」


梨子は無理に笑顔を作ったが、心の中は恐怖で一杯だった。


「少し疲れたみたい。帰ってもいいかな」


「もちろん。送りますよ」


高山の申し出を、梨子は断れなかった。一人で帰るのが怖かった。


二人が梨子のアパートに着いた時、既に日は暮れていた。高山は玄関先まで送ってくれた。


「ありがとう、高山さん。今日は本当に楽しかった」


「こちらこそ。また行きましょう」


高山が帰った後、梨子は急いで部屋に入り、ドアの鍵を二重三重に確認した。そして、窓のカーテンを全て閉め、部屋の電気をつけた。


彼女のスマートフォンが鳴った。見知らぬ番号からの着信だった。恐る恐る出ると、一瞬の沈黙の後、低い男性の声が聞こえた。


「梨子さん、元気ですか?」


その声に、梨子の体は硬直した。神崎だった。


「どうして...この番号を...」


「梨子さん、僕は心配してるんです。あの男性は危険かもしれません」


梨子の血の気が引いた。彼は高山のことを知っていた。つまり、彼女を監視し続けていたのだ。


「もう二度と連絡しないで!警察に通報するわ!」


梨子は叫び、電話を切った。手が震えて、スマートフォンを落としそうになった。


彼女はすぐに警察に連絡した。神崎の接触禁止命令に違反していることを告げ、今すぐ対応してほしいと頼んだ。警察は「パトロールを強化する」と約束したが、それだけでは不安だった。


梨子は高山にも連絡を入れ、簡単に事情を説明した。彼は驚き、心配してくれた。


「すぐに行きます。一人でいないでください」


高山の言葉に、梨子は少し安心した。彼が来るまでの間、彼女は部屋の隅で膝を抱えて座っていた。


数十分後、インターホンが鳴った。覗き穴から見ると、高山が立っていた。彼女は安堵のため息をついて、ドアを開けた。


「大丈夫ですか?」


高山の顔には心配の色が濃く出ていた。梨子は彼を部屋に招き入れ、簡単に神崎のことを説明した。前職場での出来事、ストーキング被害、そして今日の出来事まで。


「そんなことがあったなんて...」


高山は驚いた表情で梨子の話を聞いていた。


「警察は?通報しましたか?」


「したわ。でも...」


梨子は言葉を詰まらせた。神崎がまた彼女を見つけたという事実が、彼女の心を深く傷つけていた。


「明日、一緒に警察署に行きましょう。正式に被害届を出したほうがいい」


高山の提案に、梨子は感謝した。彼の存在が、この恐怖の中で唯一の支えに思えた。


その夜、高山は梨子のアパートのソファで眠ることになった。梨子は一人で寝るのが怖かったのだ。


朝、二人は警察署へ向かった。梨子は昨日の電話と、以前の被害について詳しく説明した。警察官は真剣に聞いてくれ、神崎の行動は明らかに接触禁止命令違反だと認めた。


「捜査を開始します。それまでは、できるだけ一人にならないようにしてください」


警察署を出た後、高山は梨子に提案した。


「しばらく私の家に泊まりませんか?一人暮らしなので部屋はありますし...」


梨子は迷った。高山は信頼できる人だと思うが、男性の家に泊まるのは...


「心配しないで。僕は絶対に変なことはしません。友人として、あなたを守りたいだけです」


高山の誠実な目を見て、梨子は頷いた。


「ありがとう。でも、数日だけにするわ」


その日、梨子は必要最低限の荷物をまとめ、高山のマンションへ向かった。彼の部屋は整然としていて、清潔だった。彼は梨子にゲストルームを案内した。


「ここを使ってください。何か必要なものがあれば言ってくださいね」


高山の優しさに、梨子は心から感謝した。


数日間、梨子は高山の家で過ごした。彼は常に彼女への配慮を忘れず、プライバシーを尊重してくれた。二人は一緒に料理をしたり、映画を見たりして、穏やかな時間を過ごした。


ある晩、梨子は高山に打ち明けた。


「高山さん、あなたのおかげで少し安心できるようになったわ。本当にありがとう」


「沢村さんが安心できるなら、僕も嬉しいです」


高山の微笑みに、梨子は久しぶりに心が温かくなるのを感じた。


次の日、警察から連絡があった。神崎は地元の警察に拘束されたという。彼は梨子の新住所の近くで発見され、接触禁止命令違反で逮捕されたのだ。


「ようやく...」


梨子は安堵のため息をついた。高山も彼女のために喜んでくれた。


「良かったですね。これで少し安心できますね」


警察の話によると、神崎の自宅からは梨子に関する大量の資料が発見されたという。彼女の新しい生活に関する情報、写真、さらには彼女の新しい友人たちの個人情報まで。


「彼は精神鑑定を受けることになります。今回は実刑の可能性が高いでしょう」


警察官の言葉に、梨子は複雑な感情を抱いた。神崎が自分にしたことを思えば、彼が罰せられるのは当然だ。だが同時に、彼が病気なのだとしたら、治療を受けるべきだとも思った。


その夜、梨子は高山の家で最後の夜を過ごすことになった。明日からは自分のアパートに戻るつもりだった。


「本当にありがとう、高山さん。あなたがいなかったら、私はどうなっていたか...」


二人は居間でワインを飲みながら話していた。窓の外は雨が降り、部屋の中は温かく心地よかった。


「沢村さん、僕は...」


高山が言いかけたとき、梨子のスマートフォンが鳴った。警察からだった。


「沢村さん、申し訳ありません。神崎容疑者が逃亡しました」


梨子の体から血の気が引いた。


「どういうこと...?」


「移送中に隙を見て逃げたようです。現在、捜索中です。念のため、安全な場所に避難してください」


電話を切った梨子は、呆然と立ち尽くした。高山が彼女の肩に手を置いた。


「どうしましたか?」


梨子は震える声で状況を説明した。高山の表情が硬くなった。


「ここにいるべきです。外は危険です」


梨子は頷いた。今は高山の家が最も安全だと思えた。


その夜、梨子は眠れなかった。神崎がまた彼女を追いかけてくると思うと、恐怖で体が震えた。何度も窓の外を確認し、ドアの鍵を確かめた。


明け方近く、ようやく疲れて眠りについた梨子は、奇妙な夢を見た。


彼女は迷路の中にいた。どこへ行っても同じ景色が続き、出口が見つからない。そして、迷路の壁はすべて鏡になっていた。鏡に映る自分の姿を見ると、それが少しずつ神崎の姿に変わっていくのが分かった。


「梨子さん、僕はあなたのためにここにいるんだよ」


鏡の中の神崎がそう言った。


「いいえ!離れて!」


彼女が叫ぶと、鏡が割れ、無数の破片が彼女に向かって飛んできた。


「沢村さん!沢村さん!」


梨子は高山の声で目を覚ました。彼女は冷や汗をかいて震えていた。


「大丈夫ですか?悪い夢を見たようですね」


高山の優しい声に、梨子は少し落ち着いた。窓の外は既に明るくなっていて、新しい一日の始まりを告げていた。


「ごめんなさい、変な声を出したかしら」


「いいえ、気にしないでください。朝食を作りました。食べましょう」


高山の作った朝食は美味しく、梨子は少しずつ心を取り戻していった。食後、高山は彼女に提案した。


「今日は会社を休みましょう。警察に行って、今後の対応を相談しましょう」


梨子は頷いた。二人は警察署へ向かい、最新の状況を確認した。神崎はまだ見つかっていなかったが、梨子のアパート周辺には警察官が配置されていた。


「当分の間、警戒を続けます。何か不審な点があれば、すぐに連絡してください」


警察署を出た後、高山は梨子に言った。


「もう少し、うちに泊まりませんか?」


梨子は感謝の気持ちを込めて頷いた。彼女は高山の優しさに、心から救われていると感じた。


その日の夕方、二人はスーパーで食材を買い、夕食の準備をしていた。高山のキッチンで、二人は協力して料理を作っていた。


「沢村さん、玉ねぎを切ってもらえますか?」


高山がそう言って、包丁を梨子に渡した。彼女が玉ねぎを切り始めると、高山は冷蔵庫からワインを取り出した。


「これ、今日のために買っておいたんです」


彼は微笑みながら、グラスにワインを注いだ。


「ありがとう。でも、私はお酒が弱いの...」


「大丈夫です。これは軽いワインですから」


梨子は遠慮がちにグラスを受け取り、一口飲んだ。確かに飲みやすいワインだった。


「美味しい」


彼女が言うと、高山は嬉しそうに微笑んだ。


料理が完成し、二人はテーブルに向かった。窓の外は既に暗くなっていて、雨が再び降り始めていた。


「乾杯しましょう。沢村さんの安全のために」


高山がグラスを上げた。梨子も彼に倣い、グラスを合わせた。


夕食を食べながら、二人は仕事の話や趣味の話で盛り上がった。梨子は久しぶりに、神崎のことを忘れて笑うことができた。


食事の後、二人はソファに座ってテレビを見ていた。梨子はだんだんと眠気を感じ始めた。頭が重く、視界がぼやけてきた。


「少し...眠いわ...」


彼女は言葉を絞り出した。高山が彼女の肩に手を置いた。


「疲れているんですね。休みましょう」


梨子は立ち上がろうとしたが、足が思うように動かなかった。部屋が回転しているように感じた。


「どうしたの...体が...」


彼女の言葉は途切れがちになった。高山が彼女を支えた。


「大丈夫ですよ、梨子さん」


彼の声が、どこか変わったように聞こえた。そして、彼が彼女の名前を「梨子さん」と呼んだことに、梨子は違和感を覚えた。高山はいつも「沢村さん」と呼んでいたはずだ。


「高山...さん...?」


梨子は目を凝らして彼の顔を見た。部屋の薄暗い灯りの中、彼の表情がはっきりと見えなかった。


「私はずっとあなたのそばにいますよ、梨子さん」


その声は、高山のものではなかった。神崎の声だった。


梨子は恐怖で悲鳴を上げようとしたが、声が出なかった。彼女の意識は急速に薄れていった。


最後に見たのは、高山...いや、神崎の微笑む顔だった。


「さあ、家に帰りましょう、梨子さん。僕たちの新しい家に」


そして、梨子の世界は闇に沈んだ。


## 第四章 歪んだ愛の形


梨子が目を覚ました時、彼女は見知らぬ部屋にいた。


頭が鈍く痛み、口の中が乾いていた。体を起こそうとすると、手首に違和感があった。見ると、手首はベッドの柱に柔らかい布で縛られていた。足首も同様だった。


「ようやく目を覚ましましたね、梨子さん」


部屋の隅から声がした。そこには高山...いや、神崎が立っていた。彼は茶色く染めた髪と、少し伸ばした髭を蓄えていた。高山そっくりだったが、目の奥に潜む狂気は神崎そのものだった。


「神崎...どうして...」


梨子の声は震えていた。


「やっと二人きりになれましたね。誰にも邪魔されない場所です」


神崎は穏やかに微笑んだ。それがより一層、彼女を恐怖させた。


「あなたは...高山さんを...」


「彼は存在しません。高山智也は私が作った人物です」


神崎の言葉に、梨子は愕然とした。


「どういうこと...?」


「私があなたの新しい職場に応募したんです。髪を染め、髭を生やし、声も少し変えて。名前も偽名で。履歴書も偽造しました。IT技術者なら簡単なことです」


神崎...いや、高山の姿をした神崎は、冷静に説明した。


「あなたが東京を離れると知った時、私もすぐに行動しました。あなたの行く先を調べ、同じ街に引っ越し、同じ会社に応募した。あなたが来る前から、私はそこにいたんです」


梨子は言葉を失った。彼女が安全だと思っていた場所、信頼していた人、全てが神崎の周到な計画の一部だったのだ。


「なぜ...こんなことを...」


「あなたを守るためです。あなたは一人では生きていけない。私だけがあなたを本当に理解し、守ることができる」


神崎の目は真剣だった。彼は本気でそう信じていた。


「これは狂気よ!私を解放して!」


梨子は叫んだ。神崎は悲しそうな表情を浮かべた。


「まだ分かってくれないんですね。でも大丈夫です。これからゆっくり時間をかけて、私の愛を理解してもらいます」


彼はそう言って、部屋を出て行った。ドアには複数の鍵がかけられる音がした。


梨子は周囲を見回した。部屋には窓がなく、ベッドと小さなテーブル、椅子があるだけだった。壁には写真が貼られていた。それは全て梨子の写真だった。仕事中の彼女、買い物をする彼女、友人と話す彼女...日常のあらゆる瞬間が切り取られていた。


「神様...助けて...」


梨子は呟いた。誰も彼女の居場所を知らない。神崎が「高山」として、彼女の失踪を報告するのだろう。完璧な計画だった。


数時間後、神崎が食事を持って戻ってきた。彼は梨子の手首の拘束を緩め、彼女が食べられるようにした。


「毒は入っていませんよ。あなたに危害を加えるつもりはありません」


彼は優しく言った。梨子は無言で食事を受け取った。腹が減っていたが、恐怖で喉を通らなかった。


「食べてください。体力が必要です」


神崎の言葉に、梨子は少しずつ食べ始めた。食事が終わると、神崎は彼女の手首を再び縛った。だが、今度は少し緩めだった。


「明日は仕事があるので、夜遅くなります。でも心配しないでください。ここには監視カメラがあるので、あなたの様子はいつでも確認できます」


神崎はそう言って、部屋の隅のカメラを指さした。


「お願い、解放して...」


梨子は懇願した。神崎は頭を横に振った。


「まだダメです。あなたが私の愛を理解するまでは」


彼はそう言って再び部屋を出た。


時間が経つにつれ、梨子は絶望感に襲われた。誰も彼女を探しに来ないだろう。神崎は「高山」として、会社では普通に振る舞うのだろう。彼女の失踪について、「最後に会った時は元気だった」と証言するのだろう。


夜が更けると、部屋の灯りは自動的に暗くなった。梨子は不安と恐怖の中で、眠りにつくことができなかった。


翌朝、神崎は出勤前に彼女に朝食を持ってきた。彼は清潔なスーツを着て、高山の姿に完全に変身していた。


「おはようございます、梨子さん。今日も良い一日になりますように」


彼は微笑んだ。梨子は返事をしなかった。


「会社では、あなたが体調を崩して実家に帰ったと伝えます。心配しないでください」


神崎はそう言って出て行った。


一人になった梨子は、拘束から逃れる方法を考えた。手首の布は緩めだったが、それでも抜け出すのは難しかった。彼女は必死に手首をねじり、布を引っ張った。数時間の格闘の末、ようやく片方の手首を自由にすることができた。


彼女はすぐにもう片方の手首、そして足首の拘束も解いた。自由になった彼女は、すぐにドアに向かった。予想通り、しっかりと鍵がかけられていた。


部屋を調べると、小さな浴室があった。だが、そこにも窓はなかった。完全に密閉された空間だった。


「何か...何か使えるものは...」


梨子は部屋を隅々まで調べた。浴室の鏡が目に入った。彼女はためらいなく鏡を割った。鋭い破片を手に取り、ドアの鍵穴に挿し込んだ。


しかし、鍵は複雑で、簡単には開かなかった。彼女は諦めず、何度も試した。


時間が経つにつれ、疲労と絶望感が彼女を襲った。そして、外から足音が聞こえ始めた。神崎が戻ってきたのだ。


梨子は急いで鏡の破片をマットレスの下に隠し、ベッドに戻った。拘束具を元の位置に戻し、縛られているふりをした。


ドアが開き、神崎が入ってきた。彼は仕事帰りのスーツ姿で、手には食事を持っていた。


「お帰りなさい、梨子さん。今日はどうでしたか?」


彼は当たり前のように挨拶した。まるで彼女が自分の意志でそこにいるかのように。


「解放して...お願い...」


梨子は弱々しく言った。神崎は悲しそうな表情を浮かべた。


「まだその話ですか。私はあなたを守っているんです。外の世界は危険に満ちています。ここが一番安全なんです」


彼は食事をテーブルに置き、梨子の元に近づいた。彼女の「拘束」を確認し、少し緩めた。


「あまりきつくないですか?痛かったらすぐに言ってくださいね」


彼の気遣いが、状況をより一層不気味にしていた。


「会社では皆があなたのことを心配していましたよ。特に田中さんは」


神崎は日常の報告を始めた。彼女の同僚たちの様子、会社での出来事、まるで彼女が単に休んでいるかのように話した。


梨子は黙って聞いていた。彼の狂気の深さを測りかねていた。


食事の後、神崎は彼女の前に座った。


「梨子さん、少しお話ししましょう。私たちの将来について」


彼の目は真剣だった。


「私たちはここでしばらく過ごします。あなたが私の愛を理解するまで。そして、あなたが本当に私を愛してくれると確信できたら、新しい場所に引っ越しましょう。二人の新しい生活を始めるんです」


梨子は恐怖で体が震えた。彼は本気だった。


「私は狂ってない...」


神崎はそう言って、彼女の頬に触れた。梨子は思わず顔をそむけた。


「時間が解決してくれますよ。さあ、今日は疲れたので休みます。おやすみなさい、梨子さん」


彼は部屋を出て行った。


再び一人になった梨子は、マットレスの下から鏡の破片を取り出した。そして、神崎が戻ってくるまでの間に、何とか脱出する方法を見つけなければならないと決意した。


翌日、神崎は出勤前に再び彼女に朝食を持ってきた。彼は変わらず穏やかに微笑んでいた。


「昨夜はよく眠れましたか?」


梨子は黙ったまま、彼を見つめた。神崎は気にせず、続けた。


「今日は早く帰ってきます。楽しみにしていてくださいね」


彼は出て行った。


梨子は神崎が出て行くとすぐに、「拘束」から解放された。彼女は再びドアの鍵に挑戦した。何時間も粘り強く試した結果、ついに一つの鍵が開いた。しかし、まだ複数の鍵が残っていた。


彼女は諦めず、次の鍵に取り掛かった。時間との闘いだった。


午後になり、ついに最後の鍵も開いた。梨子は勇気を振り絞ってドアを開けた。ドアの向こうは暗い廊下だった。


彼女は静かに廊下を進んだ。家は静まり返っていた。リビングらしき部屋に着くと、そこには大きなモニターが設置されていた。モニターには複数の画面が映し出されていた。


梨子は震える手で画面を見た。そこには彼女のアパートの内部、彼女の職場のデスク、彼女がよく行くカフェ...彼女の生活のあらゆる場所が映っていた。


「神様...」


彼女は言葉を失った。神崎の監視は、彼女の想像をはるかに超えていた。


リビングを抜け、玄関に向かおうとした時、彼女は足を止めた。テーブルの上に携帯電話があった。神崎のものだろう。


梨子はためらわず電話を手に取り、警察に電話した。


「助けてください...私は誘拐されています...」


彼女は自分の名前と、分かる範囲での現在地を伝えた。警察は「すぐに向かう」と約束した。


電話を切った彼女は、急いで玄関に向かった。ドアを開けようとした時、背後から声がした。


「どこへ行くつもりですか、梨子さん?」


振り返ると、神崎が立っていた。彼は予定より早く帰ってきたのだ。彼の表情は悲しみに満ちていた。


「なぜ...私を裏切るんですか...」


神崎の声は震えていた。彼の手には何かが握られていた。それは...ナイフだった。


「神崎さん...落ち着いて...」


梨子は恐怖で後ずさった。神崎は一歩、また一歩と彼女に近づいてきた。


「私はあなたのために全てを捧げました...仕事も、家も、人生も...」


彼の目には涙が浮かんでいた。


「あなたの選択は間違っています。私だけがあなたを愛せるんです。私だけがあなたを理解できるんです」


彼がさらに近づいてきた時、梨子は咄嗟に近くの花瓶を掴み、彼に投げつけた。花瓶は彼の頭をかすめ、壁に当たって砕けた。


「梨子さん!」


神崎が叫んだ。彼の表情が一変した。穏やかさは消え、怒りと狂気だけが残った。


「どうして分からないんですか?私の愛を!」


彼は叫びながら、ナイフを握りしめた。梨子は玄関ドアに手をかけたが、鍵がかかっていた。


「開かないよ。特殊な鍵だから」


神崎は冷静さを取り戻したように言った。


「あなたはここから出られない。私たちはここで一緒に暮らすんです。永遠に」


彼の言葉に、梨子は絶望を感じた。


「私は警察に電話したわ。もうすぐここに来る」


彼女は言った。神崎の表情が硬くなった。


「そうですか...それなら、時間がないですね」


彼はナイフを見つめた。


「私たちは一緒にいられないなら...せめて、永遠に一つになりましょう」


彼の意図に気づいた梨子は、恐怖で叫んだ。


「やめて!お願い!」


神崎が彼女に飛びかかろうとした瞬間、外から大きな音がした。そして次の瞬間、玄関ドアが破られ、警察官たちが押し入ってきた。


「動くな!武器を捨てろ!」


神崎は一瞬呆然としたが、すぐに梨子に向かってナイフを振りかざした。警察官が彼に飛びかかり、取り押さえた。


「沢村梨子さんですか?大丈夫ですか?」


一人の警察官が梨子に声をかけた。彼女は震えながら頷いた。


「ありがとう...ありがとう...」


彼女は涙を流した。


神崎は抵抗することなく、警察に連行された。彼は最後まで梨子を見つめていた。その目には、狂気と愛情が混ざり合っていた。


「梨子さん...僕は本当にあなたを愛しています...」


それが、彼の最後の言葉だった。


その後、梨子は病院に運ばれ、検査を受けた。彼女は幸い、身体的な被害はなかった。しかし、心の傷は深かった。


警察の調査で、神崎の家からは梨子に関する膨大な資料が発見された。写真、メモ、彼女の持ち物のレプリカ、さらには彼女のDNAサンプルまで。彼の監視と執着は、想像を絶するものだった。


また、「高山智也」として働いていた会社でも、彼は完璧に役を演じていた。同僚たちは彼が神崎だとは全く気づいていなかった。


神崎は精神鑑定の結果、重度の妄想性障害と診断された。彼は精神科病院に収容され、治療を受けることになった。


梨子は一時的に実家に戻り、両親の支えの中で少しずつ回復していった。心理カウンセリングも受け、トラウマと向き合おうとしていた。


「あなたは悪くない」


カウンセラーは彼女にそう言った。


「あなたは被害者です。彼の行動はあなたのせいではありません」


徐々に、梨子は日常を取り戻し始めた。新しい仕事も見つけ、新しい街で再び一人暮らしを始めた。だが、今度は防犯対策を万全にした。


ある日、彼女は郵便受けに一通の手紙を見つけた。送り主の名前はなかったが、消印は神崎が収容されている病院の近くの町だった。


恐る恐る手紙を開くと、そこには短い文章が書かれていた。


「梨子さん、私は治療を受けています。あなたを傷つけてしまって、本当に申し訳ありません。いつか許してもらえるとは思っていません。ただ、あなたが幸せになることを願っています。さようなら。神崎」


手紙を読んだ梨子は、複雑な感情に襲われた。怒り、恐怖、そして少しだけの安堵。彼が本当に治療を受け、変わろうとしているのなら...


彼女はその手紙を警察に提出した。神崎が接触禁止命令に違反していないか確認するためだ。警察は調査の結果、手紙は病院のソーシャルワーカーを通じて送られたもので、治療の一環だったと説明した。今後このような連絡はないと保証された。


時間が経つにつれ、梨子は少しずつ恐怖から解放されていった。新しい友人もでき、新しい恋人もできた。彼女は再び笑えるようになった。


ただ、時々夢の中で、彼女はまだあの部屋に閉じ込められている。そして窓から、神崎が彼女を見つめている。その夢から目覚めると、彼女はまだ完全には癒えていないことを思い知らされる。


だが、それでも彼女は前に進むことを決めていた。恐怖に打ち勝ち、新しい人生を切り開くために。


「もう誰にも監視されない。私は自由なの」


梨子は自分自身に言い聞かせた。それは彼女の新しい人生の始まりだった。


## 第五章 監視の影


神崎俊介は精神科病院の一室で、静かに窓の外を見つめていた。


三年の月日が流れていた。彼は真面目に治療を受け、医師やカウンセラーの言葉に耳を傾けていた。彼らは彼の病状を「妄想性障害」と「境界性パーソナリティ障害」と診断した。


「愛情と執着の区別がつかなくなっていたんですね」


カウンセラーの言葉に、神崎は頷いた。今では、自分の行動が異常だったことを理解していた—少なくとも、表面上は。


「神崎さん、今日はどうですか?」


病室のドアが開き、担当医の佐藤医師が入ってきた。中年の優しそうな男性だった。


「変わりありません」


神崎は静かに答えた。彼の態度は穏やかで、かつての狂気の片鱗は見えなかった。


「薬の調子はどうですか?副作用は?」


「少し眠気がありますが、大丈夫です」


神崎は従順に答えた。佐藤医師は満足そうに頷いた。


「素晴らしい進歩です。このままいけば、近いうちに退院も視野に入ってくるでしょう」


神崎の目が一瞬輝いた。


「本当ですか?」


「ええ。もちろん、外部での生活にはいくつかの条件が付きます。定期的な通院、薬の服用、そしてソーシャルワーカーの監督下での生活になります」


神崎は深く頷いた。


「分かりました。全て従います」


佐藤医師は彼の肩に手を置いた。


「あなたは本当に良くなっています。自分の過去の行動を認識し、反省し、変わろうとしている。それが大切なことです」


神崎は微笑んだ。穏やかで、誠実そうな笑顔だった。


医師が去った後、神崎は再び窓の外を見つめた。雨が降り始めていた。雨粒が窓ガラスを伝い落ちる様子を、彼は静かに観察していた。


そして、ベッドの下から小さなノートを取り出した。表紙には「回復の記録」と書かれていた。だが、そのノートを開くと、中身は全く別のものだった。


ページ一杯に貼られた新聞の切り抜き。インターネットの記事のプリントアウト。そして、いくつかの写真。それらは全て、沢村梨子に関するものだった。


彼女の新しい職場についての記事。彼女が参加したデザインコンテストでの受賞の写真。そして、彼女の新しい恋人との写真。全てインターネットや新聞から集められたものだった。


神崎はペンを取り、最新の情報を書き加えた。


「2025年6月15日。梨子さん、新しいプロジェクトで責任者に。おめでとう。でも、あの男との関係は進展しているようだ。許せない」


彼は静かに書き続けた。表面上は回復していたが、内面では彼女への執着は消えていなかった。むしろ、洗練されていた。


神崎は何度か、ソーシャルワーカーを通じて梨子に手紙を送った。病院側は、それが彼の治療の一環だと考えていた。彼が自分の罪を認め、謝罪することは、回復の重要な一歩だと。


だが、神崎にとってそれは単なる演技だった。彼は病院のコンピュータを使って、こっそりと彼女の情報を集め続けていた。患者用のパソコンは制限されていたが、システムエンジニアだった彼にとって、そのセキュリティを破るのは難しくなかった。


「もう少しだ...」


彼は呟いた。退院が近づいていた。そして、彼には計画があった。


一方、沢村梨子は新しい生活を送っていた。


彼女は東京に戻り、有名なデザイン会社で働いていた。仕事は順調で、最近では主任デザイナーに昇進したばかりだった。


そして、彼女には新しい恋人がいた。中村健太。同じ会社の経理部で働く、誠実で優しい男性だった。二人は一年前に社内イベントで知り合い、徐々に親しくなっていった。


神崎のことがあってから、梨子は人間関係に慎重になっていた。特に男性との関係には。だが、健太の誠実さと優しさは、少しずつ彼女の心の壁を溶かしていった。


「梨子、おめでとう。昇進、本当に嬉しいよ」


健太は彼女の手を握りながら言った。二人はレストランで祝杯を上げていた。


「ありがとう。健太がいなかったら、ここまで頑張れなかったかも」


梨子は微笑んだ。彼女の笑顔は、以前のように純粋で輝いていた。


「そんなことないよ。梨子は強い人だ。自分の力で這い上がってきたんだから」


健太は彼女の過去を知っていた。梨子は時間をかけて、神崎のことを彼に話した。彼は理解を示し、彼女をサポートしてくれた。


「でも、あなたがいてくれて本当に良かった」


梨子は健太の手を握り返した。彼女は再び愛することを学んでいた。恐怖に打ち勝ち、新しい幸せを掴んでいた。


その夜、二人は健太のマンションで過ごした。彼女は時々彼の家に泊まることがあった。自分のアパートでも、彼を招くことがあった。少しずつ、彼女は信頼を取り戻していた。


翌朝、梨子は早めに起きて、コーヒーを入れた。キッチンの窓から朝日が差し込み、穏やかな朝の光が部屋を満たしていた。


彼女はふと窓の外を見た。通りを行き交う人々、日常の風景。全てが平和に見えた。だが、その時、彼女は不思議な感覚に襲われた。


誰かに見られている感覚。


彼女は首を振った。「気のせいよ」と自分に言い聞かせた。あの事件以来、時々そんな感覚に襲われることがあった。心理カウンセラーは「トラウマの残響」だと説明した。


健太が起きてきて、彼女の肩に手を置いた。


「おはよう。何か考え事?」


梨子は微笑んで振り返った。


「ううん、ただぼんやりしてただけ。コーヒー入れたわ」


二人は朝食を取りながら、今日の予定について話した。健太は午後から出張があり、二日間東京を離れるという。


「寂しくなる?」


彼は冗談交じりに訊いた。梨子は笑った。


「大丈夫。仕事で忙しいし。それに、明後日にはもう帰ってくるんでしょ?」


健太は頷いた。


「梨子、実は話があるんだ」


彼の表情が少し真剣になった。梨子は彼を見つめた。


「何?」


「出張から帰ったら...一緒に住まないか?」


梨子は驚いた。


「同棲?」


「うん。もちろん、急かすつもりはないんだ。ゆっくり考えてくれていい」


健太は優しく言った。梨子は少し考え込んだ。


「考えさせて。すぐには答えられないけど...」


「もちろん」


健太は微笑んだ。彼は彼女の気持ちを尊重してくれる人だった。


その日の午後、梨子は会社で新しいプロジェクトの打ち合わせをしていた。集中していたが、時々あの奇妙な感覚—誰かに見られている感覚—が戻ってきた。


会議が終わり、彼女はデスクに戻った。メールをチェックしていると、知らない送信者からのメッセージが届いていた。


「おめでとう、梨子さん。昇進、本当に嬉しく思います」


送信者の名前は「友人より」となっていた。梨子は眉をひそめた。メールの本文には他に何も書かれていなかった。


「変なの...」


彼女は独り言を言った。スパムメールかもしれないが、なぜか彼女の昇進を知っているようだった。会社の誰かからのいたずらだろうか?


その日の夕方、梨子は一人で帰宅した。健太は既に出張に出発していた。彼女はアパートのドアを開け、靴を脱いだ。


「ただいま...」


彼女は無意識に言った。もちろん、返事はなかった。


部屋に入ると、彼女はいつものように窓の鍵とドアの鍵を確認した。あの事件以来の習慣だった。そして、部屋の隅々まで確認した。クローゼット、ベッドの下、バスルーム...全て問題なかった。


彼女は安心して、夕食の準備を始めた。シンプルなパスタを作り、ソファでテレビを見ながら食べた。


食後、彼女はノートパソコンを開き、仕事の続きをした。時計が11時を指した時、彼女はようやく仕事を終え、入浴した。


湯船に浸かりながら、彼女は健太の提案について考えていた。同棲。それは大きな一歩だった。神崎のことがあってから、彼女は人を完全に信頼することを恐れていた。だが、健太は違った。彼は彼女の過去を理解し、彼女のペースを尊重してくれた。


「そろそろ、前に進む時かもしれない...」


彼女は呟いた。お湯の中で手を見ると、指が少しふやけていた。長風呂だった。


浴室を出て、彼女はベッドに向かった。窓の外を見ると、月明かりが部屋を照らしていた。彼女はカーテンを閉め、ベッドに横になった。


疲れていたので、すぐに眠りに落ちた。


深夜、彼女は不思議な音で目を覚ました。カチッという小さな音。最初は夢かと思ったが、もう一度同じ音がした。


彼女は身を起こし、耳を澄ました。音は玄関の方から聞こえてきた。誰かがドアの鍵を開けようとしている音だった。


恐怖が彼女を襲った。彼女はベッドから飛び起き、スマートフォンを手に取った。警察に通報しようとした時、突然部屋の電気が消えた。停電だった。


「何...?」


彼女は震える声で言った。窓の外を見ると、他のアパートの明かりも消えていた。確かに停電のようだった。


彼女はスマートフォンのライトをつけ、玄関に向かった。ドアをのぞき窓から見ると、廊下も暗かった。


彼女が安心しかけた時、ドアノブが動いた。誰かが外からドアを開けようとしていた。


「誰...誰?」


彼女は恐怖で声が震えた。返事はなかった。


彼女は急いで警察に通報した。「誰かが私のアパートに侵入しようとしています」と伝えた。警察は「すぐにパトカーを向かわせます」と言った。


通報を終えた彼女は、部屋の中で身を隠す場所を探した。バスルームに入り、ドアを閉めた。彼女は震えながら、警察が来るのを待った。


しばらくして、外から警笛の音が聞こえた。警察が到着したのだ。彼女は少し安心した。


バスルームから出ると、部屋はまだ暗かった。彼女は慎重に玄関に向かった。ドアをのぞき窓から見ると、廊下に警察官の姿が見えた。


彼女はドアを開けた。


「沢村さんですか?大丈夫でしたか?」


警察官が尋ねた。彼女は頷いた。


「誰かがドアを開けようとしていました...」


警察官たちは彼女のアパートと周辺を調査した。不審者の姿はなかったが、ドアには確かに何者かが鍵を開けようとした形跡があった。


「恐らく、泥棒でしょう。停電に乗じて侵入しようとしたのかもしれません」


警察官はそう説明した。だが、梨子の心には疑問が残った。なぜ、多くのアパートの中から、彼女の部屋が狙われたのか?


警察は念のため、電気が復旧するまで彼女のアパートの前で待機することを約束した。一時間後、電気は復旧した。


警察官が去った後、梨子は一晩中眠れなかった。彼女は何度もドアの鍵を確認し、椅子をドアの前に置いた。


翌朝、彼女は会社を休んだ。健太に電話して昨夜の出来事を話した。彼は心配して、「すぐに帰る」と言ったが、彼女は「大丈夫、警察も対応してくれたし」と説得した。


その日、彼女は不動産屋に行き、引っ越しについて相談した。この機会に、健太との同棲を考え始めていた。もはや、一人で生活することに恐怖を感じていた。


不動産屋から帰る途中、彼女は再びあの感覚に襲われた。誰かに見られている感覚。彼女は周りを見回したが、特に怪しい人物は見当たらなかった。


アパートに戻ると、管理人が彼女を呼び止めた。


「沢村さん、先ほど宅配便が来ましたよ。あなた宛ての荷物です」


管理人は小さな箱を彼女に渡した。送り主の名前はなかった。


彼女は部屋に戻り、恐る恐る箱を開けた。中には一枚の写真が入っていた。それは彼女と健太がレストランで食事をしている写真だった。写真の裏には、メッセージが書かれていた。


「彼はあなたにふさわしくない」


梨子の体から血の気が引いた。これは明らかに脅迫だった。そして、誰かが彼女と健太を監視していたことを示していた。


彼女はすぐに警察に連絡した。警察官が来て、写真と箱を証拠として持ち帰った。


「神崎俊介との関連を調査します」


警察官はそう言った。梨子は神崎の名前を聞いて、さらに恐怖を感じた。彼はまだ病院にいるはずだ。だが、誰かが彼の指示を受けて彼女を監視しているのだろうか?


警察は神崎の状況を確認すると約束した。そして、念のため梨子のアパート周辺のパトロールを強化することになった。


その夜、梨子は友人の家に泊まることにした。一人でアパートにいるのが怖かったからだ。


友人の千春は、大学時代からの親友だった。彼女は梨子の状況を理解し、快く泊めてくれた。


「まさか、あの人がまた...」


千春は心配そうに言った。彼女も神崎のことを知っていた。


「分からないわ。でも、誰かが私を監視している...」


梨子は震える手でお茶を飲んだ。


二人は夜遅くまで話し、ようやく眠りについた。


翌日、警察から連絡があった。神崎は依然として病院にいることが確認されたという。彼が外部と接触する機会は厳しく制限されており、彼が直接指示を出すことは難しいと思われた。


「では、誰が...」


梨子は混乱した。神崎でなければ、誰が彼女を監視しているのか?


その日の午後、健太が出張から戻ってきた。彼は予定を切り上げて帰ってきたのだ。彼は梨子に会うなり、彼女を抱きしめた。


「大丈夫?本当に心配したよ」


梨子は彼の腕の中で、初めて安心感を覚えた。


「うん...でも、怖かった」


二人は警察署に行き、状況を確認した。警察は写真と箱の指紋を調べていたが、結果はまだ出ていなかった。


「念のため、沢村さんの周りにはパトロールを続けます。また、神崎容疑者の病院との連携も強化します」


警察官は彼らに説明した。


健太は梨子の手を握り、「一緒に住もう。今すぐに」と提案した。梨子は迷わず頷いた。


二人は不動産屋に行き、新しいマンションを探し始めた。健太のマンションは一人暮らし用の小さなものだったため、二人で住むには新しい場所が必要だった。


数日後、二人は理想的な物件を見つけた。セキュリティが厳重で、駅から近く、二人の職場にもアクセスが良いマンションだった。彼らはすぐに契約手続きを始めた。


引っ越しの準備をする中、梨子は徐々に安心感を取り戻していった。健太と一緒にいると、恐怖が薄れていくのを感じた。


そして、引っ越しの日が来た。梨子はアパートの荷物をほとんど処分し、最小限の荷物だけを新しいマンションに持っていくことにした。過去との決別の意味もあった。


新しいマンションでの生活が始まった。セキュリティが厳重で、玄関には常に警備員がいた。部屋は明るく広く、二人の新しい生活にぴったりだった。


「ここなら安心ね」


梨子は新しい部屋を見回して言った。健太は彼女の肩を抱いた。


「うん、ここからは二人の新しい人生の始まりだ」


彼らは新生活を楽しんでいた。共同生活は、彼らの関係をより深めた。梨子は次第に恐怖から解放され、日常を取り戻していった。


ある日、健太が仕事から帰ってくると、彼は真剣な表情で梨子に言った。


「警察から連絡があったよ」


梨子は緊張した。


「何?」


「神崎が退院したらしい」


梨子の体が硬直した。


「でも、心配ないよ」健太は急いで付け加えた。「彼は厳しい条件下での退院で、ソーシャルワーカーの監督下にある。そして、あなたとの接触は固く禁じられている。警察も監視を続けるそうだ」


梨子は深呼吸をした。


「分かった...でも、あの写真と箱は?」


「それについては、まだ調査中だそうだ。神崎との関連は見つかっていないけど、引き続き捜査するとのこと」


梨子は窓の外を見た。新しいマンションの窓からは、東京の街並みが一望できた。彼女は安全なはずだった。だが、なぜか心のどこかで、まだ彼女を見つめる目があるような気がしていた。


「大丈夫」健太は彼女の手を握った。「僕がいるよ」


梨子は彼に微笑みかけた。彼女は恐怖に負けないと決めていた。新しい生活、新しい愛、そして新しい自分。彼女はもう、誰かの監視の下で生きる人形ではない。


だが、彼女が知らないところで、神崎俊介は静かに微笑んでいた。彼は確かに退院していた。そして、彼には新しい計画があった。


「梨子さん、僕はまだあなたを見守っていますよ...」


彼はそう呟きながら、新しいノートに書き込んでいた。そのページには、梨子と健太の新しいマンションの住所が記されていた。


## 最終章 解放の瞬間


東京の冬は、いつもより冷たく感じた。


沢村梨子は新しいマンションのリビングで、デザインの仕事をしていた。窓の外では、雪が静かに降り始めていた。


「もう12月か...」


彼女は呟いた。神崎が退院してから三ヶ月が経っていた。特に何も起こらなかったが、彼女の心の奥底には、まだ不安が残っていた。


健太は出勤していて、彼女は今日は在宅勤務だった。新しいマンションでの生活は平穏で、二人の関係も順調だった。彼女は少しずつ過去のトラウマを乗り越えつつあった。


インターホンが鳴り、彼女は少し驚いた。誰も来る予定はなかった。


「はい?」


「沢村梨子さんですか?宅配便です」


モニターに映る宅配業者の姿は、普通の配達員だった。梨子は安心して、ドアを開けた。


「沢村様宛ての荷物です。こちらにサインをお願いします」


彼女はサインをし、小さな箱を受け取った。送り主の欄には、彼女の会社の名前があった。おそらく仕事関連の資料だろう。


彼女は箱を開け、中を確認した。そこには一冊の本が入っていた。タイトルは「新しい始まり」。


「変ね、こんな本を注文した覚えは...」


彼女が本を手に取ると、中から一枚の写真が落ちた。それは彼女と健太が新しいマンションのバルコニーで話している写真だった。明らかに望遠レンズで撮影されたものだった。


彼女の体から血の気が引いた。写真の裏には、見慣れた筆跡でメッセージが書かれていた。


「新しい生活、おめでとう。でも、彼は本当にあなたを愛していますか?」


梨子の手が震えた。これは明らかに神崎からのものだった。彼は彼女の新しい住所を知っていた。そして、彼女を監視し続けていた。


彼女はすぐに警察に連絡した。警察官が到着し、写真と箱を証拠として持ち帰った。


「神崎の監視状況を確認します。また、あなたのマンション周辺のパトロールを強化します」


警察官はそう約束した。


梨子は健太に電話し、状況を説明した。彼は「すぐに帰る」と言った。


一人でマンションにいるのが怖かった梨子は、マンションのロビーで健太を待つことにした。ロビーには常に警備員がいて、安心だった。


健太が到着すると、彼は彼女を強く抱きしめた。


「大丈夫?警察には連絡した?」


梨子は頷いた。二人は部屋に戻り、今後の対策を話し合った。


「引っ越すべきかな...」


梨子は不安そうに言った。健太は彼女の手を握った。


「逃げ続けるわけにはいかない。警察と協力して、彼を捕まえよう」


彼の言葉に、梨子は勇気づけられた。


その夜、警察から連絡があった。神崎の監視状況を確認したところ、彼は定期的にソーシャルワーカーとの面会を守り、外出も制限内で行動していたという。しかし、彼が梨子のマンション近くで目撃されたという報告はなかった。


「それでは、誰が写真を...」


梨子は混乱した。神崎が直接行動していないとすれば、誰かに依頼しているのだろうか?


警察は神崎の関係者や知人を調査すると約束した。また、マンション周辺のパトロールも強化されることになった。


数日後、警察から再び連絡があった。マンション周辺の防犯カメラを確認したところ、不審な人物が目撃されたという。その人物は数日間、マンションの向かいのカフェから建物を監視していたようだった。


「その人物の特徴は?」


健太が尋ねた。


「中年の男性で、帽子とマスクを着用していたため、顔の詳細は不明です。現在、その人物の特定を進めています」


警察の説明に、梨子と健太は顔を見合わせた。神崎ではない誰かが、彼女を監視していたのだ。


「神崎の協力者かもしれませんね」


警察官は付け加えた。


その後も、梨子は時々あの感覚—誰かに見られている感覚—に襲われることがあった。特に外出時や窓の近くにいる時に。


ある日、彼女が会社から帰宅する途中、その感覚が特に強くなった。彼女は振り返り、周囲を見回した。人混みの中に、一人の男性が立っていた。彼は彼女を見ているようだった。彼女が気づくと、男性はすぐに視線をそらし、歩き去った。


その日の夜、梨子は健太に男性のことを話した。


「背が高くて、痩せていて、帽子をかぶっていた...顔はよく見えなかったけど、私を見ていたのは確かよ」


健太は心配そうに彼女の話を聞いた。


「明日から、僕が会社まで送り迎えするよ」


彼の提案に、梨子は感謝した。一人で外出するのが怖くなっていた。


翌日から、健太は彼女を会社まで送り、夕方には迎えに来てくれた。そのおかげで、彼女は少し安心して過ごせるようになった。


しかし、ある朝、健太が急な会議で早く出勤することになった日、梨子は一人で出社することになった。


「大丈夫?一人で行ける?」


健太は心配そうに尋ねた。梨子は強がって頷いた。


「うん、昼間だし、人も多いから大丈夫」


彼女は自分に言い聞かせるように言った。


健太が出発した後、彼女は準備を整え、マンションを出た。エレベーターで一階に降り、ロビーを通って外に出た。


冬の朝の空気は冷たかったが、太陽が出ていて明るい朝だった。彼女は少し安心して、駅に向かって歩き始めた。


途中、彼女は再びあの感覚に襲われた。誰かに見られている感覚。彼女は足を止め、周囲を見回した。人通りは多かったが、特に怪しい人物は見当たらなかった。


「気のせいよ...」


彼女は自分に言い聞かせ、再び歩き始めた。


駅に向かう途中、彼女は人通りの少ない脇道を通ることになった。そこで、彼女は足音を聞いた。誰かが彼女の後をついてくる音だった。


彼女は振り返った。そこには、昨日見かけた男性が立っていた。背が高く、痩せていて、帽子をかぶっている。今回は、マスクもしていた。


「あなた...誰?」


梨子の声は震えていた。男性は沈黙したまま、一歩近づいてきた。


「近づかないで!警察を呼ぶわよ!」


彼女は叫んだ。スマートフォンを取り出そうとした時、男性が急に動いた。彼は彼女に向かって走ってきた。


梨子は恐怖で凍りついた。逃げようとしたが、足が動かなかった。男性が彼女の腕を掴んだ。


「離して!」


彼女は叫んだ。その時、彼女の背後から別の声が聞こえた。


「梨子!」


健太の声だった。彼は会議がキャンセルになり、彼女を心配して追いかけてきたのだ。


男性は健太の姿を見ると、梨子の腕を放し、逃げ出した。健太は男性を追いかけようとしたが、男性は素早く人混みに紛れ込んだ。


「大丈夫?怪我はない?」


健太は息を切らしながら、梨子の元に戻ってきた。彼女は震えながら、彼に抱きついた。


「怖かった...あの人、私を...」


「警察に通報しよう」


健太はスマートフォンを取り出し、警察に通報した。


警察が到着し、二人は状況を説明した。警察は周辺の防犯カメラを確認すると約束した。


その日、梨子は会社を休み、健太と一緒に警察署に行った。そこで、彼らは意外な情報を得た。


「防犯カメラの映像から、その男性を特定できました」


警察官はそう言って、モニターに映像を映した。そこには確かに、彼女を追いかけた男性の姿があった。男性が帽子を取る瞬間があり、その顔がはっきりと映っていた。


「この人物は神崎俊介の従兄弟、神崎勝也です。二人は幼少期から親しかったようです」


警察官の説明に、梨子は愕然とした。神崎は直接行動せず、親族を使って彼女を監視していたのだ。


「神崎勝也を逮捕状請求中です。また、神崎俊介の接触禁止命令違反で、彼も再拘束される可能性があります」


警察の説明に、梨子は少し安心した。だが、神崎の執着の深さに、恐怖を覚えた。


その日の夜、梨子と健太はマンションに戻った。警察は念のため、マンションの前にパトロールカーを配置してくれた。


「これで終わりになるといいね」


健太は優しく言った。梨子は頷いたが、心の中ではまだ不安があった。神崎は彼女から離れないだろう。彼の執着は、時間とともに消えるものではなかった。


翌日、警察から連絡があった。神崎勝也が逮捕されたという。そして、彼の自宅から梨子に関する多くの資料が発見された。写真、メモ、彼女の行動記録...全て神崎俊介の指示で集められたものだった。


「神崎俊介も再拘束されました。今回は精神科病院ではなく、刑務所に収監される可能性が高いです」


警察官の言葉に、梨子は深いため息をついた。ようやく、終わりが見えてきたのだ。


数週間後、神崎俊介の裁判が行われた。彼は接触禁止命令違反と、ストーカー行為の教唆で起訴された。


梨子は証人として出廷した。法廷で神崎と対面するのは、彼女にとって大きな試練だった。だが、健太と友人たちの支えがあり、彼女は勇気を出して証言台に立った。


「被告人は、あなたをどのように追いかけ、監視していましたか?」


検察官の質問に、梨子は冷静に答えた。彼女は全ての経緯を、詳細に証言した。そして、神崎の行為が彼女の人生にどれほどの恐怖と混乱をもたらしたかを語った。


神崎は法廷で、冷静に彼女を見つめていた。彼の目には、かつての狂気は見えなかった。むしろ、諦めに似た表情だった。


裁判の結果、神崎は3年の実刑判決を受けた。また、出所後も長期間の接触禁止命令が出された。彼の従兄弟も、共犯として罪に問われた。


裁判が終わった後、梨子は健太と一緒に法廷を後にした。


「終わったね」


健太は彼女の肩を抱いた。梨子は頷いた。


「うん...やっと終わった」


彼女の心には、まだ傷が残っていた。だが、今彼女は前を向いて歩いていた。恐怖に打ち勝ち、新しい人生を築いていくために。


数ヶ月後、梨子と健太は結婚した。小さな式だったが、彼らにとっては特別な日だった。


結婚式の日、梨子は窓の外を見た。春の陽光が降り注ぎ、桜の花びらが風に舞っていた。


「綺麗ね」


彼女は呟いた。健太が彼女の隣に立った。


「うん、新しい季節の始まりだね」


彼の言葉に、梨子は微笑んだ。確かに、これは彼女にとって新しい始まりだった。


彼女はもう、誰かの監視の下で生きる人形ではない。彼女は自分自身の人生を生きる、自由な人間だった。


「さあ、行きましょう」


健太が彼女の手を取った。彼女は深呼吸をし、彼と共に歩き出した。


背後に残るのは、監視の影ではなく、ただの過去の記憶だけだった。


梨子は最後に振り返った。もう誰も彼女を見ていなかった。


「さようなら、過去の私」


彼女はそう心の中で呟き、未来へと歩み出した。

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