松下海洋研究所にて
松下海洋研究所は東京湾の埋立地、人工島に位置していた。広大な敷地のほとんどは、ガラス張りの研究棟と、海中へと伸びる巨大なドック、そして深海の環境を再現したという特殊な水槽群で占められていると以前聞いた。周囲は常に潮の香りが漂い、遠くには大型船の汽笛が聞こえる。日中であれば、太陽光がガラスに反射し、きらきらと輝く近代的な建物だが、夜になるとその様相は一変する。無数の窓から漏れる室内灯の青白い光が、まるで深海の生物の眼のように、闇に浮かび上がるのだ。
所長である松下勝明氏は、この研究所の創設者であり、貴之の最大のパトロンでもあった。彼の父は戦後復興期に海運業で巨万の富を築き上げた人物で、その莫大な遺産を継いだ勝明氏は、それまでの一族の事業とは全く異なる「海洋研究」へと傾倒していったらしい。彼自身は研究者ではないのだが、たとえ若手の研究者であっても支援を惜しまないその姿勢から、海洋研究の分野では多くの尊敬を集める現代の偉人。もっとも、貴之のパトロンをしていることからもわかる通り、彼の援助の手は様々な才能に対して向けられている。
実をいうと、私は勝明氏が苦手だった。落ち着き漂う話し方と人好きのする笑顔の奥に、時折何かを感じるのだ。愛や正義感の充足よりも、もっと現実的な何かを見つめているような。篤志家の一面も、気前の良さも、そもそも私たちと同じ視点で生きているわけではないからではないだろうか。
……弟の恩人に対して邪推してしまう自分が嫌になる。自らの研究所に貴之の最新作、<夜と道 弐百>を常設してくれるだけでなく、政治家や経営者仲間を集めた盛大なパーティまで開いてくれるというのに。
車を降り、研究所のメインエントランスへと向かう。煌びやかなエントランスを抜けると、そこはガラスの壁に囲まれた広大なロビーだった。東京湾の夜景が巨大なパノラマとなって広がり、無数の星々のようにきらめく光が視界に飛び込んでくる。普段は静寂に包まれているであろうこの空間は、今夜ばかりは華やかな招待客で埋め尽くされ、グラスが触れ合う音や、人々の囁き声が混じり合い、パーティらしい華やかな喧騒を生み出していた。
ロビーの中央には、スポットライトを浴びて貴之の最新作、<夜と道 弐百>が堂々と展示されている。縦三メートル、横五メートルはあろうかという巨大なキャンバスは、その圧倒的な存在感で周囲の視線を集めていた。近づくにつれて、その絵が放つ冷たい輝きに、胸の奥がざわつくのを感じる。
ひとたびキャンバスの正面に立てば、それはもはや“絵”ではない。夜の藍が底無しの深度で息づき、一本の砂利道が私の足元から無音のまま星間空域へと延びている。道の彼方、闇をくり抜くように浮かぶ――白い輝線でカットされた蒼玉の一点。……これは地球だ。私達にとって最もなじみ深い故郷が偉業を告げる碑文のように、夜空の虚無へ刻まれている。貴之が自作に既知の天体を置いた前例など、記憶にない。それだけに、この蒼い星は彼にとっても特別なのだろう。
ただ、圧倒的だった。
私はキャンバスから一歩も動けず、胸骨の奥で潮汐のように高まる鼓動を聞いていた。
「皆様、本日はようこそ、松下海洋研究所へお越しくださいました」
マイクの声に意識を引き戻される。ロビー中央に用意されたステージで所長のスピーチがはじまったらしい。挨拶もそこそこに所長が貴之について語る。
「ここからはいつも通り、貴之君と呼ばせてください。
貴之君の絵を初めて見た日のことは、今でも昨日の出来事のように思い出せます。
十年前のあの日、私は少し前に最愛の妻に先立たれて途方に暮れておりました。
やはり男は弱いのか、これからどうするかなんてこと、毎日考えてましたよ。
それこそ、本当に死んでしまいたいなと思うこともありました」
古株の職員にはわかる話なのだろう、斜め前にいる壮年の男性が涙ぐんでいるように見えた。
「研究所からの帰宅途中、ふと気が付くと妻と若いころに過ごした公園の近くだなって。
ここから家もそう遠くないので、運転手に降ろしてもらいましてね。
公園に向かって歩いていると、えらく明るい光が漏れている建物があって。
何気なしに看板を見てみると、"夜と道展"と書いていてね。
普段は絵を見ることもなかったんだけど、道を失った自分とかずっと夜のままの心とか、何か詩的でお恥ずかしいのですが、引っかかるものがありまして」
所長が恥ずかしそうに自分の鼻をかく。
「ふらりと入って、言葉を失いました。
目の前の絵。
これは絵ではなく、真理の側面だと直感しました。
私にはそう言った感性はないと思っていたのですが、ビカビカッと光が見えたのです。
妻のこと、自分のこと、研究所のこと、世界のこと、宇宙のこと。
すべてが一遍につながったんです。
もう、涙が止まりませんでした。
そこで申し訳なさそうな貴之君に声を掛けられましてね。
知らないおじさんの泣き顔は相当怖かったんじゃないかな」
会場が暖かい笑いに包まれる。所長のそばに立つ貴之は冗談っぽく頷きながら拍手している。貴之の絵にかなり入れ込んでいるのは知っていたが、これほどとは思っていなかった。弟の才能を誇らしく思う反面、どこか魔性めいた絵の力が少し恐ろしく思える。
「彼の絵は絶対に世界中の人に知られるべきだ、何か私にできることはないか。
そうだ、金とコネだってね。
貴之君にも快く支援を受けてもらってね。
この素晴らしい才能は今ではみなさんご存じの通り、世界中で評価されています」
確かに、彼なら金もコネも豊富だ。言葉の通り、所長の支援が始まってからは個展の場も東京、香港、ニューヨークなど世界規模に広がった。そのいずれも大盛況で貴之は今の名声を手に入れたが、おそらく弟の力だけではここまで早く影響力を持つことはできなかっただろう。評価はされるのにはもっと時間がかかってもおかしくなかったはずだ。
所長はそのあとも饒舌にスピーチを続け、その後貴之にマイクを渡した。恩人の前で粗相をするわけにもいかないのだろう。貴之は普段私と話すときの弟の一面、いたずらっぽくて皮肉な様子を見せることなく、真面目ながら堂々といった様子で会場への礼と自らの軌跡について語り始めた。……実に感慨深かった。兄として、家族として、成長した姿を見ることも、その姿を多くの人が愛していることも、心の底からうれしく思う。半ばうっとりと兄バカ心地に浸っていると、やがて貴之の話題はあの日のことへと移った。
「絵を描き始めた日のこと、これまでしっかり語ったことはありませんでした。
私はあの日まで絵なんて描いたことがなかった。興味を持ったことも」
「兄貴とゲームで遊んでいて、突然ふっと目の前が真っ暗になりました。
まるで夜空に浮かんでいるように体の感覚もなくなり、急に肌寒く感じて。
そこで光を見ました。
遠くの方からキラキラした、例えるなら貝の裏側、螺鈿のような模様をした星がふっと現れたのです」
「すべて突然の出来事でしたが、恐怖は全く感じませんでした。
というよりも、これはどうしようもないなと諦めきった心境が近いです。
泣いても、暴れても、嘆願してもどうすることもできない。
死すらもこの場から逃げだすことの役には立たない。
それくらいの諦観に至れば恐怖なんて起こることもないのです。
たかが4年生の子供にここまで考えさせるくらいには異質な体験でした」
「体感時間的に30分ほど螺鈿の星を眺めていたと思います。
その間、星は私のことを探るような様子でクルクルと周りをまわったり、頭上で止まってみたり。
今思えば、私の脳、心を壊さない程度のさじ加減を探していたのかも。
というのも、その後はっきりと、聴覚が受容できる最大の音量で言葉が響いたのです」
「道を描け、と」
私は思わず会場の皆の表情をうかがった。誰も不思議そうな顔をしているが、どこか納得した様子でうなずいているように見える。天才画家の始まりに合った神秘体験、神からの啓示に関するその他の偉人の寓話と同じように考えているのだろうか。
しかし、私にはそれが神秘的な体験だとはとても思えなかった。あの日の貴之の様子は聖なるものに触れた人間の様子には見えなかった。それよりももっと狂気に近い、貴之の言葉を借りるなら”心が壊れる寸前”の、土壇場の光景に見えた。あえて触れることがなかったのも、子供心に覚えた純粋な恐怖からだった。
「あの日から今日まで、その声に従うように書き続けてきました。
今でも絵を描いていると、あの日のように周りが暗くなって、その中に光を見ます。
今回見た光は私たちの住む星、地球でした」
貴之は自分の描いた絵を指さす。そしてそのままマイクを所長に返すと、もう語るべきことはないといった様子で壇上から降りてしまった。所長が取り繕うように会場へ改めて謝辞を述べ壇上から降りると、しんとした空気も消え、パーティの喧騒がすぐに戻った。