裏側にいるもの
個展の熱狂が冷めやらぬまま、貴之の最新作は松下海洋研究所へと送られた。途中、客の一人が警備員に追い出されるちょっとしたアクシデントはあったが、貴之の個展では頻繁にあることらしく大事に至ることもなかった。
普段は弟の個展に顔を出すこともないのだが、今回はそうもいかなかった。ファンの間を縫うように貴之が早足でこちらに近づいてくる。
「にーちゃん、この後のパーティすっぽかすなよな」
「わかってるよ。ジャケット着ないとダメとかあったっけ?」
「いや、いらないよ。どうせあの辛気臭いスーツしかないんでしょ。墓場で一番賑やかな人って感じの」
したり顔で貴之が笑う。やはり母さんに似ているなと思う。すっかり本来の白さに戻った肌が、整った顔に何処となく妖しい影を落とし、かえってそれが色気を感じさせる。一時はどうなるか心配だったが、我が弟ながら良い男になったものだ。
「にーちゃん、いま、兄貴ヅラしてるよ」
「兄貴だしな」
周りにいた貴之のファンがざわつく。貴之と私を見比べるような、値踏みするような視線が生ぬるくて、私は顔を隠すようにその場から立ち去った。
◇
そのまま逃げ込むように車に乗り込む。時間はまだ十六時、夜のパーティまで時間がある。何気なくバックミラーを見ると、浅黒く地味な目元で気難しそうな男の顔がこちらを睨み返す。歳を取った。あれから二十年も。
――二十年前のあの日、貴之が描き上げた一枚の絵。今では夜の道と呼ばれる作品群の最初の一枚が、その後の私たち兄弟の運命を決めた。
あの日以来、貴之は一切のスポーツを辞めてしまい、学校から帰ってきては絵を描き続ける日々を過ごすようになった。困惑する周囲を気にもせず、学校で使っていた水彩絵の具セットを使い潰し、いつしか画材が油絵の具になる頃には様々な公募で賞を取るまでになっていた。
貴之曰く、賞に応募するのは絵を描き続けるための戦略。弟にとって絵を描く以外のことは、絵を描くための段取りだった。
絵のモチーフは決まって夜と道。だが、初めて描き上げた絵の不穏さは今や絵の中には見当たらない。
同じようなものばかり描いているはずなのに、素人目にもそれぞれ違って見えるのは、やはり才故なのだろう。こういうものを堂に入っているというのだろうか、貴之の絵は何処にあっても一番美しく、不思議と望郷の想いを感じさせられた。今では時の人、現代美術の最前線にいる天才として忙しい日々を過ごしている。
あの日以来、私もまた夜に魅せられた。クレヨンで刻まれた生々しく白い点、あの星がどうしても頭から離れず、やがて天体観測をするようになり、ついには天文学者などというものになってしまった。精緻な物理の法則と数学に支配された空の配列は、ただ美しい。学べば学ぶほど、空が一枚の絵に見えるようになった。
絵に、弟の才に導かれたといえば言い過ぎだろうか。突き抜けた才能が運命を決めてしまう、そんな見えない力場のようなものを感じずにはいられない。
貴之は絵に夢中なったものの、私を忘れることはなかった。むしろ毎日家で過ごすようになり、会話も増えてより親密になったほどだった。実家にいるうちは沢山のことを話したが、あの日の貴之については自然とどちらからも触れることはなかった。まるで思い出から抜け落ちたように。
ふと外を見ると、駐車場のベンチで落ち着かない様子で足を揺らす男が目に入った。
見覚えのある顔。個展で警備員に摘み出された男だとすぐにわかった。
四十代半ば位だろうか、品のいいスーツに身を包み、銀縁のメガネも相まって真面目な、それも成功したビジネスマンのようにみえる。とてもじゃないが、あんな行動をするようなタイプには見えなかった。
……裏側さん。確か貴之はそんなふうに呼んでいた。裏側さんは個人のあだ名ではなく、貴之の個展に毎回のように現れる"ある行動"をする人々の呼称らしい。
彼ら、あるいは彼女らは何故か皆、立ち入り禁止ラインを超えて貴之の絵の裏側を覗き込もうとするのだ。今ベンチにいる彼もまた、吸い込まれるように自然な感じで、壁に顔をくっつけながら貴之の絵の裏側を覗こうとしていた。
何故、絵の裏側なんだろうか。
気になってしまうと、どうしようもなかった。私は車から降り、ベンチに座る男に声をかける。
「こんにちは、本日は個展に来ていただきありがとうございました」
声をかけられて初めて私に気がついた男がハッとこちらに視線を向ける。
「この度は大変申し訳ございませんでした!」
「いえ、全然です。弟の絵に興味を持っていただけたようで何よりです。本人もあそこまで夢中になっていただけると嬉しいと思ってるかもしれません」
「ああ、菅原さんのお兄様でしたか……」
なるべく気を使わせないようにはしているつもりだが、男は心底申し訳なさそうに俯いた。
「申し遅れました、私は菅原貴之の兄の菅原圭吾と申します」
「あっ、私は大眉と申します」
大眉さんが名刺を取り出し、手渡してくれる。そこには有名な証券会社の名前と、部長の肩書きが書かれていた。思った通り、あんなことをするようなタイプではなさそうだった。個展に来たきっかけや、私の愛車についての他愛もない話を続けるうち、大眉さんから少しずつ緊張が抜けていった。私は意を決して裏側の件について切り出すことにした。
「大眉さんは貴之の絵の裏側を覗かれていましたが、あれって何を見たかったんですか?」
大眉さんの身体がピクりとして、メガネの奥の目がかすかに揺れた。私は構わず続ける。
「実は貴之の個展には大眉さんと同じ行動をする人がよく現れるらしいんですよ。どうしてもその理由が知りたくて声かけちゃいました」
自分だけじゃないということに驚いたのか、大眉さんの目が見開かれた。
「……実は、私にもさっぱりわからないんです。
ただ、あの絵を見ていると奥に何かがいる気がして、気がついたら警備員に羽交い締めにされていました」
そう語る大眉さんの目は私を通り抜け、その彼方を見ているように見えた。思わず私も後ろを振り返る。いつの間にか夕焼けも遠くなり、空は夜の群青へ沈む途中だった。
――しかし、何かがおかしい。
南南西 210°、高度わずか14°――いつも通り、さそり座の心臓、α星アンタレスが濃い血のように脈打つ。そのすぐ11分角ほど下、極細の白い光点が添えられている。
見たこともない星だった。等級はせいぜい5等級前後のはずなのに残照を突き抜けて冷たく際立ち、まるでアンタレスに寄生するように脈動して――。
突然大眉さんが立ち上がり、彼に視線を戻す。大眉さんはそのまま私の顔も見ず、挨拶もそこそこに速足で立ち去ってしまった。裏側の件と同じくらい彼に似合わない態度だったので少し驚いたが、何か用事でも思い出したのだろうか。彼の背中が闇に飲まれたあとで振り返ると、アンタレスのそばにあったはずの白い点は影も形もない。
駐車場のベンチの前、結局深まってしまった謎を抱えて悶々とする。
一体、あの絵の奥に何がいるというのだろうか。もしかして、私があの日の絵に感じた不穏な気配と何か関係があるのか。
――気分が悪かった。
私は車に乗り込み、パーティー会場の松下海洋研究へ向かうことにした。