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プロローグ

 小学六年生の夏休み。

 前日から降り続く雨のせいで遊びにいくこともできず、私は二つ下の弟の貴之(たかゆき)と冷房の効いた部屋で野球ゲームをして遊んでいた。


 貴之(たかゆき)は昔から、とにかく動いていないと死んでしまうというタイプだった。四六時中走り回っていたおかげか運動神経は抜群によく、少年野球のチームでは4年生にしてエース、先月は100メートルで市の小学生記録を更新したばかりだ。たまにこうやって遊びに行けない日に私とゲームをする時にも、やはりスポーツゲームを好んだ。今も贔屓(ひいき)のチームを操作しながら、くるぶしのラインで色がキッパリと分かれた足をパタパタさせている。


 日焼けした肌、背も私と同じくらい高く、足なんか私よりずっと長くて綺麗。ここまで出来が違うと競争心も嫉妬心も湧いてくることがない。私にとって、貴之(たかゆき)は自慢の弟であり、最高の遊び相手なのだ。


 どの球種にするか、あえて外してみるか。勝負熱にコントローラーを持つ手が汗ばむ。

 ふと横を見ると貴之(たかゆき)が私の手元を覗き込んでいた。


 「サイン盗むのは反則だよ」

 「にーちゃん、隙だらけだから」


 白い歯で笑う貴之(たかゆき)は母さんによく似ている。あまりにしわくちゃな顔で笑うから、些細な反則など許してしまう。いや、この顔で笑われたら怒る気などいつもどこかに消えてしまうのだ。


 つられ笑いのまま、コントローラーを貴之(たかゆき)から見えない位置に構え直す。ちぇっ、なんて舌打ちのフリをしながら貴之(たかゆき)も真剣に画面を見つめる。



 ――窓ガラスを叩く雨の細い爪音が消えていく。

 ――室外機が吐き出すかすれた風鳴りが薄れていく。

 ――剥ぎ取られた音の隙間を埋めるように空間が広げられ、部屋の空気が張り詰める。


 「……あっ」


 貴之(たかゆき)が唐突に声をあげ、上を向いて固まった。その声は驚きや発見というより、むしろ何かに心臓を掴まれたような、息をのむ響きだった。背筋はピンと伸び上がり、お尻が床から浮かび上がる寸前。貴之(たかゆき)の目は、中空の一点を見つめたまま瞬きをしない。その視線の先には、何も、本当に何も、普段と変わらない天井があるだけだというのに。


 「貴ちゃん?どうし」


 貴之(たかゆき)の肩に触れようとした手が思わず止まる。


 ――貴之(たかゆき)の眼球が。

 ――意識的には絶対に不可能な速さで小刻みに揺れていたから。


 先ほどとは違う、冷たい緊張感が部屋に張り詰めていく。貴之(たかゆき)の身体はアンテナのように真っ直ぐのまま、時折、『カッ、カッ』と喉を鳴らし、口角には泡が見える。


 ……数秒、いや、もっと長かったかもしれない。やがて貴之(たかゆき)の身体から硬さが消えた。そして、弾かれたように立ち上がると、コントローラーを投げ捨て、脇の学習机に駆け寄り、引き出しから画用紙とクレヨンを取り出す。これまで絵なんて描いたこともないのに。

 

 その動きには人の動作に(にじ)み出す精気や無駄というものが一切なかった。

 まるでヒトじゃないような。


 椅子にも座らず、床に画用紙を広げると、貴之(たかゆき)は一心不乱にクレヨンを走らせ始めた。


 最初は、夜の色だった。

 濃い紺色、深海のような藍色、複雑に絡み合う青のグラデーションが、紙いっぱいに広がる。青に満ちた画用紙の温度が下がり、覗き込む目が低温火傷のようにじりじり熱くなる。子どもっぽいクレヨンには似合わない、繊細で、優美で、そしてどこか不安を掻き立てるような塗り方だった。


 次に、茶色や灰色で線が引かれる。それは道だった。クレヨンの芯が紙肌を削り、〈ザリッ、ザリッ〉と乾いた砂利道を踏みしめる足音のような擦過音を立て、画用紙の手前から奥へと伸びていく。


 普通、道はどこか目的地に繋がるものだろう。家の玄関、公園、あるいは地平線の彼方。だが、貴之(たかゆき)が描いたその道は、上へと、夜空の真っ只中へと向かって伸びていた。重力に逆らい、無理やり空へとのぼっていく、不自然で、(いびつ)な道。


 そして最後に、貴之(たかゆき)は白いクレヨンを手に取った。夜空の色に塗り込められた空間の一角、空へと続く道のさらに奥。そこに、小さな白い点が一つ、置かれた。


 それは星だった。


 たった一つの白い点。小さいのに、ただの白い点なのに、なぜか目を奪われる。画用紙いっぱいの夜空、その奥に広がり続ける闇を吸い寄せ、火を灯したような、異様な一点だった。


 これで絵が完成したのか、貴之(たかゆき)はふっと張り詰めていた力を抜いた。そのまま後ろに倒れ込み、ぜいぜいと荒い息を吐いている。汗で濡れた額には、見たことのない興奮と疲労が浮かんでいた。


挿絵(By みてみん)


 貴之(たかゆき)の隣に座り、完成した絵を見つめる。夜空に続く道、そしてあの火のような星。絵から(にじ)み出た闇、乾いた冷気で床板が軋んでいるように見えた。それは子供の落書きというにはあまりに異様で、完成されていた。



 あの瞬間、弟の中に何かが「宿った」のだ。

 それは「才能」という言葉では片付けられない、もっと尊くて、もっと恐ろしい何か。


 夜と道の画家が、産声を上げた瞬間だった。

 同時に宇宙の外、領域外でも何かが産まれた。

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