あなたの記憶をいただきます
ーーチリン
鳴り響く鈴の音。
大手メーカー勤務の営業マン、前田透。二十九歳。
「喫茶店か?」
中に入ると木を基調とした内装が目に入る。入口すぐに椅子が三つ並んだカウンター。六畳あるかないかの、こじんまりとした店だった。
「いらっしゃいませ」
いつの間にか、カウンター越しに現れた店員。
シワひとつない白い長袖のシャツに、黒いエプロン。背は高く、すらっとしたスタイルは俗にいうイケメンというやつなのだろう。見たところ、歳は自分とそう変わらなそうだ。
「お好きな席にどうぞ」
そう店員に言われ、右端の席を選んで座った。他の客が来て、隣に座られるのだけは避けたい。
「当店ではオリジナルのブレンドコーヒーしか置いておりませんが、よろしいでしょうか」
「あ、はい。お願いします」
座ってしまった後にそう言われて、誰が断れるだろうか。
ガリゴリガリゴリ
黙々とコーヒー豆を挽く店員。その手際は良いが、どこか簡素で素っ気ない。機械のように無機質に感じさせる何かがあった。さほど大きくない店で、一人働いてるのを見るとおそらくマスターなのだろう。
コーヒーを淹れる音だけが店内に響く。
「お待たせいたしました」
真っ白いコーヒーカップが前に置かれる。一般的なものと比べると、すべての線が細く感じられる不思議なカップだ。カップの表面はとても薄く、持ち手も細い。ちょっとした衝撃で、今にも崩れ落ちてしまいそうに見える。
華奢な持ち手を恐る恐る持ち上げ、出来立てのコーヒーを一口すすった。
口の中に広がる苦み、そしてその中にほのかに混じった甘みと酸味。鼻腔を抜けるコーヒー独特のこの香り。体がじんわりと温まり、気持ちが落ち着いてきた。
店内には小さな音でジャズが流れている。誰も話さず、動かず、静かにしていると聞こえる程度の音量だ。マスターは何も言わず、そこにいる。このジャズを楽しめるのも、無駄に話しかけてこないマスターのおかげだ。
一生続いても良い、と思えるほどの心地の良い時間に身を任せる。ジャズの一曲が終わり一瞬の静寂の後に次の曲が流れ始めた。止まることはないのか。音楽も、時間も。
「はぁ」
「どうかなさいました?」
思っていたより大きな溜息が出てしまったのか、マスターが心配そうに話しかけてきた。
「いや……まあ……」
普段は自分のことを話すなんてことしないのだが、何だか今日はできるような気がした。
「明日も仕事だと思うと……嫌だな……と。何でこの仕事続けてんだろなーって……」
一度開いた口は止まらない。
「最初は楽しかった……はずなんだけどね……もう思い出せなくなっちゃったよ」
そう。楽しくなければ、今まで続かなかっただろう。
「その記憶、 呼び起こしましょうか?」
唐突に何を言い出すのかとマスターを見るが、ただこちらを見てにこりと笑っているだけだった。
「冗談はよしてくれ」
「冗談だなんて」
マスターは笑っているが、嘘はついていない。何故かそう思った。
「催眠術か何かか?」
「それは企業秘密です。危ないことではないですよ。ただ……」
そう言って、一度言葉を切るマスター。ただ、何なんだ。
「あなたの記憶をいただきます」
「記憶を?」
記憶をいただくって……どういうことだ?はいどうぞって、人に渡せるようなものでもないだろう。マスターの唐突な言葉に驚きが隠せなかった。
「記憶を失くすってことか?全部?」
「いいえ、ご安心ください。私がいただくのは幼少期の記憶のみです。そうですね……幼稚園の頃とか」
「幼稚園?もうそんな昔のこと何も覚えてないぞ」
「いいえ。あなたが思い出せないだけで、記憶というものは深いところに眠っているのです」
ばか真面目に回答するこの男の表情は一切崩れない。本気で言っているのだ。
「分かった。どうすればいい」
ただの興味本位だった。本当にそんなことができるのかと。できるものならやってみろと。
あとは。
明日が楽しみだって、少しでもそう思うことができるのなら……という期待も込めて。
「そのままで大丈夫です。目を瞑ってください」
言われた通り目を閉じ、暗闇の中へと入る。
「行ってらっしゃいませ」
―――――
―――
―
「透は就活どうだよ」
「んー、ぼちぼち?」
「何だそれ」
大学四年生の二学期。まだ内定はゼロ。正直、この時期に内定が無いという事実は、俺に相当な焦燥感をもたらしていた。
俺は就職できるのだろうか。まさか、このまま卒業してフリーターになるのか。同級生の前では平気なフリをしているが、不安やら悲壮感やらが心の中で渦巻いていた。
「S大学の前田透です。よろしくお願いします」
今日も今日とて面接。自己紹介に、学生時代のエピソード。自分の強みと弱み。もう何度同じ話を繰り返しただろうか。投げやりになりたい気持ちを何とか抑え込める。書類選考を通過した会社は、あと片手で数えるほどしか残っていないのだ。
たくさん応募したはずだった。みんなと同時期に就活を始めて、そんな遅いスタートだった訳でもない。何の根拠もないが、この時期には内定の一つももらえているだろう、そう漠然と思っていた。
来る日も来る日も就活サイトを見ては応募。そしてたまに面接。そんな日々が続いていた。もう限界だ。本当に身も心も疲弊しきって、何もかも放って逃げだしかけていた時。
「内定だ!!!!」
やっと内定の連絡が来たのだ。この地獄から抜け出せると思うと、もう天にも昇るような気持ちだった。しかも、内的先は大手のメーカーで、初任給も悪くない。
ずっと心配していた両親にすぐさま連絡すると、電話越しでも分かるほど喜んでくれた。うちは裕福とはいえない家庭で、大学だって奨学金で通っている。苦労しながら、それでもいつも応援してくれていた両親。
ここまで育ててくれたのに、応援してくれたのに、内定の一つも取れない自分。そんな自分が情けなくて、申し訳なかった。それが、今、ちゃんと恩返しができたような、両親の期待に応えられたような、そんな気持ちに満たされていた。
一つの内定が俺の世界を変える。地獄のような就活生活が、卒業を待つだけの大学四年生という天国へと変わった。同級生たちと最後の学生生活を謳歌し、俺は入社した。
営業職なだけあり、周りの先輩たちは体育会系でガッツ!根性!といった感じの人たちだった。ただ、教育係に恵まれた俺は、時に優しく、時に厳しく指導してもらいながら新卒一年目を過ごした。
最初は右も左も分からない。だが、分からないなりに必死に食らいついた。人生初めてのボーナスでは、父親に万年筆、母親に財布をプレゼントしてみたりして。
二年目になると、先輩からいくつか大手クライアントを引き継いでもらったり。規模はそこまで大きくはないが、自分で新規クライアントを獲得することもあった。順調といえる社会人生活の一方、プライベートでは彼女もできて、人生すべてが良い方向に進んでいる、そんな感覚だった。
しかし、年次を重ねていくとそれまでのやり方では通じなくなる。後輩の指導、営業成績、仕事の重圧、様々なものが私の両肩に重くのしかかった。
「おい、前田。今月の営業成績はどうなってるんだ」
「前田さん、ここ教えてもらっていいですか」
「ちょっと前田さん、この企画書何なんです?これじゃ取引なんてできませんよ」
あー、無理だ。今日も疲れた。早く家に帰りたい。
「麻美ただいま」
「ちょっと?タバコ臭いんだけど?」
いつからかも分からない、成り行きで始まった同棲生活。ほんの少し前までは、『ただいま』、『おかえり』がくすぐったくて、でもそれが幸せだったのに。
「はぁ」
「溜息つきたいのは、こっち何だけど?」
「ごめん」
昔は麻美も可愛げがあったんだけどなあ……。何てことは口に出さず、風呂場へ向かった。
そんな日が続いた。そして、一ヶ月後。
「前田!お前すげえじゃねえか!!」
「ありがとうございます!」
ある日、担当していたプロジェクトが大成功し、歴代トップの成績を記録した。
その日は帰り道まで、俺は有頂天だった。たまたま目に入った花屋で、チューリップの花束を買っちゃったりなんかして、家に帰った。
「ただいま!」
「……おかえり」
「あの、麻美。これ」
花束を差し出すと、驚いた表情を見せる麻美。そしてポロポロと涙をこぼしだした。
「あ、麻美!?」
「何で突然……」
「何でって……」
今日は最高の気分だから。それもあったが、花屋のチューリップを見て、真っ先に麻美が思い浮かんだのだ。
毎日通っている道なのに、こんな時だけ調子がいいと思われるかもしれない。でも、プレッシャーやストレスで俯いた視界には地面しか見えていなかった。そこから解放された今日、初めて店の存在に気づいたのだ。
ここ最近の俺たちの間には距離があったかもしれない。それでも、毎朝俺より早起きして朝食とお弁当を作り、夜は俺が帰ってくる前に晩飯をかかさず用意してくれた。俺には一切家事を手伝えなんて言わなかった。自分だって働いて、疲れてたはずなのに……家の負担は全部麻美が背負ってくれていたんだ。
それを伝えると、麻美はさらに激しく泣き出してしまい、どうしたら良いか分からない俺は、ぎこちなく彼女を抱きしめた。彼女のことを抱きしめたことなんて、数え切れないほどあるはずなのに。背中にそっと回された彼女の腕。そこから伝わる温もりに安心すると同時に、ありきたりな表現かもしれないが、心の底から愛おしさが溢れた。
「結婚しようか」
「え!?今!!??」
無意識に、口から出た言葉だった。麻美は驚いた顔でこちらを見上げているが、当の俺本人もびっくりした。
俺は靴を履いたままで、二人で玄関で抱き合っている姿が妙におかしくて、二人で泣きながら笑いあった。
「実はね、私からも言いたいことがあるの」
麻美に手を引かれ、リビングへ入り、食卓に向かい合って座った。
「実はね……その……」
俯いて、こちらをまっすぐに見ない麻美。
「あの……私……妊娠したの」
そう言って、ちらっとこちらを見上げる。ゆっくりと机に置かれたエコー写真。
「だから……あの……よろしくお願いします」
写真を置いた彼女の手は震えていた。
「いつ病院に行ったんだ?」
「先週」
先週からずっと、一人でこの事実を抱え込んでいたのか。俺にどう打ち明けるか、俺がどんな反応をするか不安に思って。
俺を殴りたくなる。
「いい旦那、いい父親になるから。ありがとう麻美」
やっと涙が引っ込んだのに、またわんわんと泣き出す彼女。俺は絶対に麻美を……産まれてくる子を幸せにする。そう堅く誓った。
仕事は相変わらず忙しく、大変だったが、それからはなるべく麻美との時間を作り、一緒に親になる準備をした。両親にこのことを報告すると、とても喜んでくれた。
「前田さん、本日はご足労いただきありがとうございました」
「いえ、こちらこそお時間いただきありがとうございます。また社内で検討し、ご連絡させていただきます」
今日もクライアントのもとで商談。ビルを出て、腕時計を確認するとちょうど昼の時間だった。
建物の中は冷房が効き快適だったが、一歩外に出るとそこは直射日光に照らされた灼熱地獄だ。スーツのジャケットを脱ぎ、上まで留めていたシャツのボタンも外し、ハンカチで汗を拭う。商談が早めに終わったので、外で軽くランチを食べる時間くらいは確保できそうだった。近くにあった公園のベンチに座り、近くに良い店がないか検索する。
「わー!ボールそっちいったよー!!」
同じ服に身を包んだ子どもたちが遊んでいる。幼稚園生がお散歩途中に公園に寄ったのだろうか。ボールが俺の足元に転がってくる。
それを拾い上げ、走ってきた子に手渡してあげる。
「おじちゃん!ありがとう!!」
元気の良いお礼をハキハキ言うと、ボールを抱えてみんなのところへと駆けていった。
これから産まれてくる、我が子のことを想像する。実はここ最近、このことばかり考えてしまう。性別は麻美がジェンダーリビールケーキなるものを用意してくれるらしく、俺はまだ知らない。男の子だったら一緒に野球をしたい。サッカーでもいい。とにかく一緒に体を動かしてみたい。女の子だったら……想像できないが、『パパのパンツと一緒に洗濯しないで!』さえ言われなければ。あと、スカートは短すぎず……。
いかんいかん。もしかして俺って親バカになるタイプか?ま、どっちだっていいさ。さっきの子のように元気に育ってくれれば、それだけでいいんだ。
そのために、俺はもうひと頑張りしますか!
そう思い、ベンチから立ち上がる。公園を出て、大通りの方へ向かおうとしたその時。
「たかしくん!!!!」
後ろから、女性の叫ぶ声が聞こえた。
振り返ると、横断歩道の真ん中で男の子が転んでしまったようだ。どこか怪我したのか、うずくまったまま泣いている。
そこへスピードを出した一台の車が迫る。
最悪なことに、運転手はスマホを見ていて男の子にまったく気づいていない。
考えるよりも先に体が動いた。
キィーーーーーーーーーーーーー
ガシャン
うわあ、体中が痛てえ。頭がガンガンする。
「大丈夫ですか!?今救急車を!!」
「うわぁーーーーん!」
誰かが何か言ってる気もするが、もう聞こえない。
ああ、俺死ぬのか……?まだ子どもの顔も見れてないんだぞ。
麻美。
麻美……ごめん、ごめんなあ。これから苦労かけちまうなあ。
俺、死にたくない
―――――
―――
―
「……っはぁはぁはぁはぁ!!!」
「起きましたか」
「麻美は!帰らないと!!」
「それはできません」
「できないって何だよ!!!」
カウンター越しにマスターに掴みかかる。が、彼は相変わらず表情一つ変えない。
このままでは埒が明かない。俺は一刻も早く、麻美と子どものところへ帰らないといけないんだ。喫茶店の入口へ向かい、ドアを押す。
しかし、ピクリとも動かないドア。鍵がかかっているとか、そういう感触ではない。壁を押しているような違和感だ。
振り返りマスターを睨みつける。
「何でだよ!!」
「もうお気づきではないですか」
初めてマスターの顔から笑みが消え、真剣な表情になった。
思い出す、あの痛み。
「生きてるはず……ないよな……。ああ、麻美、麻美……。ごめんな……父親できなくてごめんな……」
思い浮かぶのは、麻美とまだ産まれてもいない子どものことばかり。
堪えきれず溢れ出る涙。それを拭おうとした手が、透けていく。
「俺はどうなるんだ!?」
「次へ生まれ変わる準備をするのです。ここは記憶を失くし、混乱した魂が辿り着く場所。そんな状態では次のスッテプへ進めませんからね。私は記憶を思い出すのを少しばかりお手伝いする。そして皆様が次のステップへ進むのを見守るんです」
真剣な表情でつらつらと話すマスター。その間にも、俺の体は徐々に透けていく。
「俺はまだやり残したことがあるんだ……戻してくれよ!!」
「なりません。ここへ来た以上、次に地上へ戻れるのは魂が生まれ変わった時です。たとえ、後悔が残ろうとも、どんな理由であろうとも、決められた理に逆らうことはできないのです」
そう言って、マスターは頭を下げた。
何もできず。何も言えず。ただただ立ち尽くして、前田透は消えていった。
「どんなにやり残したことがあろうとも、死んでしまえば何もできない。だから皆生まれ変わる前に準備期間があるのですよ。苦悩や後悔を来世に持っていかないために。その記憶を忘れ、新しい人生を歩むために。神も残酷ですね。死ぬ間際、混乱したままでは記憶の整理ができず、生まれ変わることもできないなんて。どうせ、思い出したってその記憶は消えてしまうのに……
独り言が過ぎましたね」
男は黒いエプロンを外し、喫茶店の入口へ向かう。前田が押した時にはピクリとも動かなかったドアが、すっと開く。
男の背中から大きな白い翼が広がり、先ほどまでの面影はなくなっていた。夜空を飛んでいく者の手には、淡い光が。
そして、いつもの場所へと向かう。
無機質な機械音が一定のリズムで部屋に響く。ベッド横の窓からは、心地の良い風が部屋へと流れ込んでいる。それに紛れ込むかのように、静かに姿を現した翼の生えた者。
「どうか良い夢を」
眠る少女に光を捧げる。
ーーこれは人間の女の子に恋をした天使の物語