第3話 アイドルだったバーのマスターはいたずらっぽく笑う
拗ねる気持ちが芽生えながら、俺から話すべきかとユウさんに目配せをする。したけど、ユウさんはこっちを見ていない。
豊かな胸の前で手を合わせる。
言わなきゃ、とそんな心の声が伝わってくる様子だけれど、口が思うように動いてくれないのか、僅かに開いた唇がためらうようにぎゅっと結ばれる。
聞きづらいんだろうなぁとは思う。
一緒にいても、姉について話すことはあまりなかった。
それこそ、最初に出会った頃、夏の始まり。
俺を試すように夜明けのアイドルのライブを観せたのが最後。それからは話題に上がることもほとんどなかった。
血の繋がった姉だけど、触れたくない話題。そんな空気を感じている。
口を挟む気はない。
でも、取っ掛かりぐらいはいいのかなって、自分を納得させる。
「シノがアイドルを辞めた理由を知りませんか?」
マスターさんを見ながら尋ねると、隣から視線を感じた。気になって、少し顔を動かして視界に収めると、ほっとしたような、悔やむような、複雑な顔をしていた。
余計なお世話だったかも。
押し黙るマスターさんを見ると余計にそう感じる。
寂蒔とした、どこか寂しさを伴う静けさが流れる。
話しながらも用意してくれた飲み物を差し出され、「ありがとうございます」と声を抑えながらお礼を言う。
固く口を閉ざすマスターさん。
重苦しさすら感じる空気に、席を外した方がいいのかと考える。やや逃げも入っているけど、その方が話しやすいかもと思ったのも本当だ。
だから、グラスを持って奥の席に移ろうとしたんだけど、肩を押さえるように制服が引っ張られて浮かせた腰がすぐに落ちてしまう。
視線を落とすと、知らない間にユウさんが制服の裾を掴んでいた。シワができるくらいしっかりと握っている。無意識なのか、微かに俯いたままこちらを向くことはない。
頼られているのか、縋られているのか。
どうあれ、離れることはできなさそうだと、諦めて椅子に座り直す。
長く、重い沈黙。
それを破ったのはマスターさんの吐息だった。溜め込んだ想いごと吐き出すような、そんな吐息。ユウさんに向けていた視線を前に戻すと、瞼を伏せるようにカウンターに目を落としていた。
「バーのマスターというのはお客様の秘密を厳守するものです」
答えないという、明確な解答だった。
知っているかどうかすらはぐらかしているけど、口ぶりからすると知らないということもなさそうだった。それでも言わないのはお客様、というよりもシノを気遣ってのことだろう。
マスターさんにも悪いことをしたな。
仲のいい天津姉妹。その間に立って板挟みになっている。顔には出さないけど、負担に感じていると思う。
そんなマスターさんに、知っているのなら教えてとこれ以上迫るのは違うだろう。
ユウさんも同じように思っているのか、「そう、ですか」と諦めをこぼしている。ただ、その肩は先程よりも下がっていて、落胆しているのは明らかだった。
心苦しく感じるが、こればかりはどうしようもない。
ただ、ここまで付き合ったんだ。
ユウさんが諦めるまでは付き合うつもりでいる。心配で目も離せないし。
でも、こうなると残された手段は天津姉妹の直接対峙しかないかもしれない。俺はそれにも立ち会うの?
邂逅を想像する。
……なんだか今からやるせない気持ちになっていると、
「昔、アイドルをしていました」
唐突に、マスターさんがそんな告白をする。
腰を折るような話はしていなかったけれど、バッターボックスでバッドを構えていたらサッカーボールが飛んできたような唐突さだった。
なぜ今その話を?
というか、
「アイドルだったんですか?」
常々綺麗な人だとは思っているけど、まさかアイドルだったとは。容姿からすれば納得なのだけど、格式の高いバーの雰囲気にも合う大人らしさからは華やかすぎるアイドルという場とは縁遠いようにも見える。
そうなのか。
信じられず、ついまじまじと端正な顔を見てしまうと、隣からも「え?」と驚きの声が上がる。最初はユウさんも知らなかったのかなと思ったけど、視線の先が俺だった。
その顔には驚愕が張り付いて……あれ。
「そんな有名だった……の?」
知らない俺が常識知らずみたいな空気だ。
「少し前までは歌番組にも出てて、引退を発表した時には連日ニュースで取り上げられていたぐらいなんだけど」
本当に知らないの? という疑惑の目に、ぎこちなく頷く。
今のシノみたいな騒動、ということだろうか。
それならその反応も頷ける。
……頷けるけど、しょうがないとも自分を擁護したい。
興味がない情報は長期的な記憶に残らないものだ。アイドルの引退なんて、ファンにとっては大事件かもしれないけど、俺からすればまたかーぐらいのものだ。人気だろうがなんだろうが、その程度珍しい話でもないのだから。
でも、信じられないと見つめられる中、開き直ることもできない。本人を前にしたら尚更だ。知らないなんて胸を張って言えるか。
世間知らずでごめんなさいと身を縮めるしかない。もうちょっと世情に耳を傾けようと、そう思った。
「活動は三年程度でしたから、知らなくても無理はありません」
「そう、ですかね?」
ならいいのだけどと思うけど、隣から刺さる視線に顔が上げられない。
無知を恥じていると、マスターさんが天井を仰ぐ。目も当てられないと見放されたのかと不安になったけど、どうやら違うらしい。
「私だけの特別な人がほしかった」
ぽつりとこぼす。
その言葉にどれだけの想いが込められているのかはわからない。でも、きっとマスターさんの言葉は、アイドルとしての出発点で、また終着点でもあったんだと、そう感じる。
店内を淡く照らす明かりによってできる光と影が、マスターさんの整った目鼻立ちを浮き上がらせる。
やっぱり美人だよなぁ。
見惚れて、目が離せなくなる。発する雰囲気からすべて、人を惹きつける。
普通、人気アイドルだったと自己申告されたところで、冗談の類だと相手にもしないけど、マスターさんの言葉は胸にすとんと落ちてくる。
「でも、活動しているうちに気付かされた。どれだけライブで歌っても、映画の主演を演じても、そんな人は現れないんだって。私を応援してくれるファンも、共演する演者も。私は誰かの特別になれても、私の特別には誰もなれないんだって、気付かされた」
仰いでいた顔を俯くように下ろす。
その顔には自嘲するような笑みが浮かんでいて、今にも泣きそうに見えた。
「バカだったんです。だから、そんなやる前からわかるようなことを知るのに、三年もかかってしまいました」
以上、私の話でした、とマスターが手を合わせて締めくくる。
浮かべる笑顔に話していた時の陰りはなく、これまでの表情が全部演技だったように思えてしまう。どこまで本心だったんだろう。そう思わずにはいられない……けど。
きっと、嘘はなくって。
でも、わざわざ話してくれたのは、そういうことなんだと思う。
明かしたくなんてなかったであろう過去を他人のために語り、それでも笑顔でいられるマスターさんはどこまでも大人だった。
その優しさに触れて、なにを思うのか。
顔を伏せて、影になったユウさんの横顔からはその心を覗き見ることはできない。でも、きっと胸に届くものはあったはずだと、そう願っている。
少しそっとしておくべきだよな。
そう考えて、ユウさんから視線を切る。
すっかり氷が溶け切り、薄くなったドリンクで乾いた喉を潤す。新しいのと入れ替えますかというマスターさんからのご厚意を遠慮して、代わりに話の中で気になっていたことを雑談交じりに訊いてみる。
「芸名ってなんですか?」
きょとんっと、珍しく子どもっぽい表情を見せるマスターさんを内心かわいいなと思っていると、すぐににっこりと完璧な笑顔に切り替わる。
人差し指を唇に触れさせ、いたずらっぽく囁く。
「ないしょ」
……引退していてよかったなと、本心からそう思う。
でなければ、身を持ち崩すほどにのめり込んでいただろうから。





