10
「急いで逃げねえと、魔物が来るぞ! 」
「逃げるって言ってもぉ!」
サムが青い顔でへたり込んでいるザイを見る。ザイが死ねといえば首の飛ぶ奴隷紋は健在だ。我に返ったザイが怒りのあまりそうしないとも限らない。サムはそれを危惧したのだろう。
「しっかりしろ、糞婆! てめえ、ここで死にてえのか!?」
ダンがザイの両肩を掴み、激しく揺さぶる。
「切り捨てられた……? 用済みだってことかい? この私が?」
ダンの呼びかけにも反応せず、宙を見つめ譫言を繰り返すザイ。その様子を見たダンは小屋から森の木々に火が燃え移るのを確認して舌打ちする。
その時、どぉんと地面から伝わる衝撃がリリアネア達の身体を駆け上がる。ぱちぱちと炎が草木を焼く音に小さな地響きの音が混ざり始め、その場にいたザイ以外の全員に緊張が走った。
「……絶対近づいてきてるよね、あれ。何がとは言わないけど」
色を失った顔でカミーユが呟く。
「リリアネア? どうしーー」
リリアネアは無言でザイとダンの側へ行くと、ザイの頬を思い切り打った。勿論今までの恨みを込めて、拳で。
「痛そう……」
自分が殴られた訳でもないのに、サムが自身の顔を押さえる。
「……このっ! 小娘が、私を殴ってただで済むと思って……!」
「うるせぇ。てめえの話を聞いてる場合じゃねえんだよ、立て、糞婆」
リリアネアはいつでも殴れることを示すため、拳を構えて凍てつく瞳でザイを見下ろす。言外にそれを悟ったザイがひっと言葉を上げ、ふらつきながらも立ち上がる。
「よし。逃げるぞ、皆。こんな所でこの婆と一緒に死んでたまるか」
リリアネアの言葉に、全員が地響きがした方とは反対方向へ走り出す。しかし、闇の深い森は、夜目の利かないリリアネア達の走行を阻んだ。地面から盛り上がっている木々の根があちこちにあり、足を取られそうになってしまうのだ。
その間に段々と地響きの音は大きくなり、リリアネア達の方へと近づいてくる。
「……このままだと追いつかれるぞ! どっか臭いを落として隠れられそうな所はねえのかよ、婆!」
大きく肩を上下させたダンが、やや離れたところにいるザイに向かって怒鳴る。ザイは体力的に限界なのか、遅れを見せ始めていた。
「……一つ心当たりがない訳でもないがねぇ。あんた達に教えることになろうとはね」
心底嫌そうに言うザイがよたよたとした足取りでリリアネア達の側までやってくる。
「出し惜しみしてる場合かよ。早く案内しろ!」
ダンが急かすとフン、と鼻を鳴らしたザイが先頭に立ち案内のため足を進めようとした、その時だった。
ヒュン、と見えない何かが風を切る音がした。リリアネアが音のした方向を見るとどしゃり、と音を立ててそれは地面に倒れ込み、鉄錆の臭いがあたりに広がる。
「……え?」
ザイの身体は横に真っ二つにされ、地面に血溜まりをつくっていた。突然の出来事にリリアネア達は動くことができない。
息を呑み、暗がりに目を凝らす。そして、爛々と光る赤の瞳を見つけた時、冷水を被ったように全身が冷えていく。
『ーーグルルゥ……』
現れたの紫紺の豹に似た魔物。しかしその体躯は一般的な豹の五倍ほどはあろうかという大きさだ。その長い尾は二つに分かれ、ゆらゆらと不気味に揺れている。
(でかい……! 熊よりでかいぞ!?)
自身の体より大きな生物を前にして本能的な恐怖で、リリアネア達はゆっくりと後退る。
しかし背後でドォン、と音がしてその足はその場に縫い止められてしまった。錆びついた自動人形のように振り向くと、背後で同型だがやや小振りの魔物が木々を凪倒していた。不自然に倒れた木々は何かに圧迫された様にへこんでいる。
(こいつら、まさか……!)
これは狩りだ。相手を背後から狙い、目的地へと効率よく追い込むための。リリアネア達は気づかずまんまと罠に嵌ってしまったのだ。
前後を挟まれる形となってしまったリリアネア達は、魔物の動向を見逃さないよう互いに目を配る。
「どうするんだよ、これ……!」
「なんとかして此処から逃げないと……! せっかく奴隷から解放されたのに、あんなのと戦ってたら命がいくつあっても足りないよ」
「そんなこと、言われなくてもわかってる」
ここにいるのは訓練など全く受けた事のない一般市民なのだ。真っ向から勝負を挑んでも、ただ餌になるだけである。しかも、ただ牙を持つ獣とは違う。あの攻撃を受けたらひとたまりもない。この世と一瞬でおさらばである。
『グゥアアーー!』
大きな豹型の魔物が吠えたかと思うと、他の仲間の魔物がリリアネア達に飛びかかってくる。リリアネア達は各々散らばり、地面に転がりながらなんとか攻撃を避けた。
一瞬、魔物達の意識が各人に逸れる。その隙を突いてダンとカミーユが走り出し、逃走を図る。
「絶対に俺はこんなところでは死なねぇ! 悪いがみんな。恨むなよ!」
「恨みっこなしで! じゃあね、皆!」
カミーユとダンはそれぞれ反対方向へと走って行く。それを見た大型の魔物が合図を出すように高い声で鳴いた。夜闇に消えゆく二人の背を小さな魔物達が追走する。
「ひぃい……! ひどいよ、二人共!」
地面に転がったサムは状態を起こし、なんとか魔物と距離を取ろうとしている。
(まずい……! このままだと、餌になって終わりだ!)
しかしそう思っても、リリアネアはサムに迫る魔物を成す術なく見つめることしができない。
ゆっくりと恐怖を煽り立てるように魔物はサムの眼前に迫り、その頭を垂れた。
「ぅ、あ……っ!」
リリアネアは、その光景を見舞いと一瞬目を閉じた。
ごき、と嫌な音がしてリリアネアは目を開けた。魔物の口からは固いものを咀嚼する音が響いている。一心不乱に人の肉を喰む魔物の姿に足が竦むリリアネアの耳に、よく知った彼女の怒声が届く。
「ちょっと、リリ! 何ぼうっとしてるの! 走りなさい!」
それまで姿を隠していたザリカが突然現れ、リリアネアを叱咤する。彼女はリリアネアの逃走時間を稼ぐため、魔法で蔦や草木を操り壁を作ってくれた。
「わ、分かった!」
「着いてきて、私が案内してあげるから!」
ザリカの体が月光のように淡く輝き、リリアネアの視界を広くする。魔物に見つかりやすくなってしまうが、ザリカが考えた末の逃げるための苦肉の策なのだろう。
「あんたがやばいって思った時から、逃げられる場所を探してたの。探してたら、なんとかあっちに洞窟があるのを見つけて。もしかしたら水もあるかもしれないし、何とか臭いを落とせるかも」
側を飛び続けているザリカは、一人で逃げられた筈なのにリリアネア達のために身を隠すことのできる場所を探していてくれたらしい。
「とりあえず、何とかしてそこまで行かないと。私じゃ、あの魔物は倒せそうにも……」
ない、と言葉を紡ごうとしたザリカだったがそれは叶わなかった。
「きゃっ!」
「うっ……!」
風の塊のような物が足元で炸裂し、リリアネア達は風圧で木に叩きつけられる。軋んだ肋骨が肺を圧迫し、一瞬痛みで呼吸ができなくなる。
痛みに歯を食い縛りながらなんとか身体を起こす。
「ザリカ!」
榛色の目は閉じられ、小さな口から苦痛の呻き声が漏れている。魔物の荒い息遣いが近づいてきた。魔物は何故かリリアネアではなく、その尾を触手のように操りザリカに迫っていた。何もできないリリアネアより、ザリカの方を脅威と判断したのだろうか。
「ちょ、ちょっと放しなさいよ……!」
意識を取り戻したザリカが木の根を操り尾を断ち切ろうとするが、魔物の尾に触れた途端白煙をあげて朽ちていく。
「な、何よこれ! うっ……!」
ザリカの体に、錆びた鉄のような斑ら模様が浮かぶ。その色は黒のような、深い藍色のような形容し難い色をしている。
彼女は苦悶の表情を浮かべ、苦痛に必死に耐えているようだった。透き通った翅はその輝きを失い、力を失くしていく。
彼女が虫の息となった時、もう用はないと魔物は塵でも捨てるようにぼとりとその場に落下させた。
そして、牙を見せ唸り声を上げながらリリアネアの方へと足を向ける。
「何だよ、あれ……!」
魔物は最後はお前だと言わんばかりにゆっくりと余裕のある歩みで、リリアネアとの距離を詰めてくる。リリアネアの脳裏にサムの最期の姿が過ぎる。
魔物の生温い息が顔にかかり、口腔から滴り落ちた涎が腕を焼く。
(結局、ここまでか……結局、碌でもない奴の人生なんてこんなもんか)
リリアネアは目を閉じ、自身の最期を覚悟した。
『ギャウ!』
痛苦に身構えていたリリアネアの耳朶を、甲高い悲鳴が打つ。生温い吐息が一瞬で離れ、何かが激しくぶつかる音がした。すぐさま目を開けたリリアネアは、眼前に立つ見知らぬ男の姿を驚愕の瞳で見つめる。
琥珀の髪は月光に照らされ、鼻筋の通ったきめ細やかな白い肌は精巧に作られた人形のようだ。色彩は凡庸だが、飛び抜けて美しく整ったその容姿が、命の危機にある現状を一瞬遠ざける。
「ーーお前、随分と鈍間だね?」
(こいつ……! 最低だな!)
侮蔑の響きと見下ろしてくる男の冷めた瞳に、一気に現実に引き戻されたリリアネアだった。