心の奥底にあるもの
ココアで口をあたため、私は話し出した。
「私は施設で育ちました。母は私が生まれてすぐ亡くなり、父が小さい私に暴力をふるっていたそうです」
「そのこと、彼には……」
「話しました。『大丈夫だよ、君は素敵な人だから』って言ってもらえましたけど……でも私はまともな家庭を知りません。
彼はすごくいい人です。だけどこんな私が、結婚して彼を幸せにできるだろうかと不安で……」
最後は語尾が小さくなってしまった。
急に松谷様が立ち上がる。
私の目の前にしゃがみ、そしてまるで子供に話すように視線を合わせて、
「大丈夫よ!」
そうおっしゃった。
力強い言葉だった。前にいるのに、どん! と背中を押された気がした。
「私は、昨日と今日と、あなたから元気をもらったもの。
今だってあなた、自分より彼の幸せを気にしている。あなたは人を思いやれる素敵な人よ。自信をもって。
どうか、これからのあなたを大事にして」
その言葉は、この夜の澄んだ空気のように、すう、と私に染みわたるようだった。
いつの間にか出ていた涙をぬぐう。
「そうですね。
つらくなって、逃げ出したくなったら1人で旅に出るのもいいかもしれませんね」
「そうよ、特に碧水館っていうところはオススメよ」
「私もです」
それから二人で笑った。
私達は並んで、星空が映る天鏡池をしばらく眺めた。
「朝は本格的なカメラを持ってる人ばかりで、邪魔になる気がしてたの。夜は静かでいいわね」
「私もこの時間の天鏡池、好きです。
深い色が、自分の心を落ち着かせてくれるみたいで」
「……そうね」
不安を抱えて進むより、自分の奥底にあるものを大事にしていければ。
私達はたぶん、三日月の下、同じように考えていた。
二日後は久々に日勤で、私は朝から他のスタッフと旅館前のロータリーでバスのお見送りをしていた。
「団体様が帰るとほっとしますね」と手を振りながら二石ちゃんが言う。
「明日も修学旅行生が来るわよ」と三枝さんがつぶやく。
「ひゃー」
「静かにしなさい」と私は二人をたしなめた。
見送りが終わり、入口へと歩き出すと、庭の方から出てきた松谷様と目があった。
「おはようございます」
「おはようございます。よかった、会えて」
朝日に照らされ、すっきりと明るいお顔をされている。
「お庭をご覧になっていたんですね」
「ええ、写真も撮っちゃった」
興味津々の後輩達に「先に戻りなさい」と目配せした。二人は一瞬、子供のように頬を膨らませる。
あの夜のことは松谷様と私との秘密だ。
「今日チェックアウトなの」
「そうですか。ご滞在いただき、ありがとうございました」
「あなたのことが気になって。その後彼氏さんとはどう?」
私は今朝のやりとりを思い出す。
先日の埋め合わせに、今度おいしいパスタのお店に連れて行ってもらうことになった。一緒に残業した仲間に教えてもらったらしい。
「相変わらず優しいです。今後、つらいこともあるかもしれないけど……あの夜話して、不安がずいぶんと落ち着きました。ありがとうございました」
「私こそあなたには助けてもらって、感謝しているわ。
また泊まりに来るわね」
最高の褒め言葉だった。
私は胸をはって「いつでもお待ちしております」と応えた。
ロビーに戻ると「なに話してたんですか」と二人がこそこそ聞いてきた。
私はすました顔で「ないしょ」と答える。
「えー」
「ずるーい」
「ほら、仕事仕事」
私は後輩達の背中をフロントへと押す。
今日も、たくさんの方が気持ちよく過ごして、笑顔で帰れるように、最善を尽くそう。
きっと天鏡池を見るたび、松谷様を思い出す。
あの人の未来が明るいものでありますように、と願った。