湖での出会い
社宅に戻った頃には夜だった。車のドアを閉める音がバン、と響く。思わずあたりを見回した。後輩達の部屋の窓は暗いままだ。まだ仕事だろう。
このまま部屋に戻るのは嫌だな、と思った。
駐車場脇の階段を上り、職場を横目に国道に出る。外灯の下、人気はない。しばらく行くと、天鏡池最寄りの駐車場、そして自販機がある。あたたかいココアを買って、左右の手でお手玉しながら遊歩道を降りていく。
彼からのメッセージを思い返す。
「先輩が急病で早退して、明日のプレゼンも代わることになった」
「申し訳ない、また改めて会おう」
がっかりした一方、どこかでほっとしている自分がいた。もやもやした気持ちのまま彼に会うのは悪い気がした。
展望所が見えてきた。天鏡池を一望できる、木でできた広い見晴台だ。
奥には四阿がある。そこで一息ついて戻ろうと思ったけれど、先客がいた。
向こうも私に気づいた。
あのお客様──四位様だった。
頬に、涙が光っていた。
「あの、大丈夫ですか」
思わず聞いてしまった。
四位様は恥ずかしそうに涙をぬぐった。
「ごめんなさい、みっともないところを……」
再度私を見て、はっと目を大きく見開く。
「あら、あなた、もしかして旅館の方?」
「そうですが」
「よかった、あなたにお礼を言いたかったの」
「え?」
四位様は微笑んでいる。
そよそよと、二人の間を夜風が吹きぬける。四位様の背景でススキが揺れた。「座って」と言われるまま、私はベンチに座る。きっと、狐につままれたような顔をしていただろう。
「昨日はありがとう」と、四位様は頭を下げた。
「あの、落とし物のことでしたら、お気遣いなく」
「それもありがたかったんだけど、なんていうか……あの会話で、自分を取り戻せたみたいで……ああ、いきなりこんな話して、わけがわからないわね」
「いえ……」
まるで顔に書いてあるのを読まれたみたいだ。
ほんのわずか、迷った。
今日はオフだ。このまま社宅に戻ってもよかった。だけど。
──お客様には、笑顔で帰っていただきたい。
「よかったら、お話をお聞かせいただけませんか?
お役に立てるかわかりませんが、お話することで楽になるかもしれません」
四位様は「いいのかしら」と戸惑った。私はその目をまっすぐ見て、うなずく。
後輩達との会話がよみがえる。
──誘拐? 駆け落ち?
どんなことでも、真剣に聞こうと思った時。
四位様はペットボトルのお茶を一口飲まれた。
それから、ふう、と息をつき。
「私、夫をおいて1人でここに来たの。
この旅行が終わったら離婚するわ」と言った。