5.夢の悪魔と天使のベル
「ねえあなた。大丈夫? 顔色が良くないわ」
父の帰邸は遅くなると告げられ、母とふたりで摂ることになった夕食の席。
トリアは心配そうに娘の顔を覗き込み、小首を傾げて尋ねた。
アスタリテは慌てて首を横に振る。
「平気です。ちょっと、宿題で根を詰めすぎたかも」
「そうなの? ターニャ」
疑いのまなざしを緩めないトリアは、アスタリテの後方に控える乳母に確認した。
ターニャは、さもあらんと頷く。
「はい。お嬢様ときたら、休日二日分の課題に加えて予習まで終えてしまわれました」
「まぁ!」
丁寧に裏ごしされたかぼちゃのスープをスプーンで掬う手を止め、トリアが感嘆する。それから、正面に座る娘をしみじみと見つめた。
「ごめんなさいね、そうとも知らず」
「いいえ、その――ちょっと、私もやりすぎました」
薄く切ったバケットに魚の燻製と玉ねぎのマリネが乗った前菜を口に運び、アスタリテは苦笑する。
あのあと、ショックから立ち直るために勉強をやりすぎたのは本当だ。
できるだけ日常を感じていたかったし、一度目の学園生活で難儀した問題の数々が苦もなく解けるのはうれしかった。意外にも気持ちは落ち着いた。
(それでつい、未履修項目にまで進んでしまって。お茶を運んでくれたターニャに見つかったのだけど)
食事をすれば血色は戻るだろうか……などと考え、黙々と料理を口に運ぶ。
トリアは、ほう、と溜め息をついてグラスワインを手に取った。
「でも偉いわ。明日のためにやるべきことををぜんぶ終わらせるだなんて。お父様がお聞きになったら、さぞ喜ばれることでしょう」
「え?」
「いやだわ。明日は、我が家に例の男の子を引き取る日でしょう。あなたったら、そのために頑張ったのではなくて?」
「あ――ええ。そうです、お母様」
「今夜はちゃんと休むのよ」
「はい」
しおらしく目礼をしながら、アスタリテは、そういえば今朝の食卓で父が『お前の弟になる子を迎えに行ってくる』と話していたことを思い出した。
(さて。どんな子だったかしら)
いつもよりも早めに就寝準備を整えられ、明かりを落とされて寝台に押し込められる。
アスタリテは昼間の疲れもあって、あっという間に眠りに落ちた。
***
『――のまま忘れて、アスティ。きみを巻き込むわけにいかない』
『いや! だめよ、諦めないで……!』
鉄格子を掴み、アスタリテは必死に彼に呼びかける。
囚われ人となった彼の顔は、暗がりにあって見えない。顔を背けているようにも見える。打ちひしがれ、生きながら死に向かうような。
アスタリテは崩折れ、膝をついて涙をこぼす。
背後で、いくらかの金銭を渡して買収した看守が戻ってくる足音がした。つめたい石の階段を、コツ、コツと鳴らしている。
冷えて寒い。
こんなところで、こんなにも輝かしい彼が朽ちてゆくなんて。
耐えられるわけがない。
決意し、顔を上げたアスタリテは、迫る看守に聞こえないよう小声で囁いた。
『神がお助けくださらないのなら、悪魔にだって助けを乞うわ。待っていて。必ず、あなたをここから出してみせる……!』
キィ、と錆びた扉をひらき、刻限を告げる看守が来るころには、アスタリテは立ち上がり、頬を拭って楚々とお辞儀をしていた。
地上へ戻る階段をのぼる。
胸の中を嵐が吹き荒れていた。
願いを叶える。禁忌を犯す。
その覚悟がついたのだ――
(!!!! だめよ。行ってはだめ!)
深く、もがくような眠りの底で現在のアスタリテが手を伸ばす。伸ばそうとするのに届かない。
だって、アスタリテはその後を知っている。
その足で邸に戻り、金の蔓が絡む鏡からベーゼリッテを解き放った。禁忌の魔女は、決して彼を助けてはくれなかったのに。いたずらに時間を巻き戻した。体を奪われて。
彼。
……彼とは?
(ああ。もうわからない。彼が誰なのか。どうやって出会ったのかも)
『お願い。待っていて。――、……――!!』
何もかもを忘れてしまったのに、想いが募って心は千々に乱れる。何度も、何度も音を結ばない彼の名を呼ぶ。
過去であり、未来の激情に押し潰されそうになったアスタリテは、やがてゆるゆると夢ごと意識をかき消された。
あのとき取りすがった、黒髪の魔女に。
――いけない子ね。明けの星。
魔女は、にこりと口の端をあげた。
***
「え、と?」
気がつくと朝だった。
寝台の垂れ布の向こうから白い朝日が透けている。既視感が仕事をしすぎる小鳥の声。
何か、途方もなく悲しい夢を見た気がした。アスタリテはぼんやりと瞬き、内容を思い出そうとするが。
「……」
上掛けを握り、かたく目を瞑っても暗闇に朝日の残像がちかちかと踊るだけ。記憶は戻らない。夢の記憶ですら。
(どうしよう。すごく大切なことのような気がするのに。胸がざわざわする)
けれど無情なるかな。
今日、この日だけは寝台で夢うつつを彷徨うわけにいかなかった。
きのう就寝前に告げられた時刻までに、身支度と心の準備を済ませねばならない。
「起きなきゃ。ええと、ベル。どこだっけ」
半身を起こした視界の隅、ナイトテーブルの上できらりと無垢な光が目を射る。
乳母とメイドたちを呼ぶための銀色のベルは、学園の入学祝いのひとつとして両親から贈られたもの。
たしかに十四歳のアスタリテは好んで使っていた。
うるわしい、天使の羽が彫金されたものだった。




