1.鏡の檻のアスタリテ
生ぬるい風が頬を撫でる。アスタリテはごくりと喉を鳴らし、右手に携えた銀の燭台で斜め下を照らした。
ジジッ……
灯芯が鈍い音をたて、炎がいやいやをするように揺れる。アスタリテは己を鼓舞し、きっ、と前を見据えた。
「だめよ。行きなさい、私……!」
膝がカクカクと笑うのはしょうがない。怖じているのは、自分。
おそるおそる覗き込む当家の地下は四角く切り取られた顎のようで、大人ひとりが通れるほどの幅しかない。階段は急勾配だ。隠し扉の取っ手を隠されて封じられていたわりには、ちっとも黴臭くない。
まるで、どこかべつの外に通じているような。
(空気に流れがあるんだわ。言い伝えとは違うのかも。ただの……抜け道とか)
よくよく考えれば、こんなに大それた抜け道が可もなく不可もない程度の伯爵家にあるはずもない。なのに馬鹿げた現実逃避をやめられない。
平常ではあり得ない己の衝動を。歯止めをかけたがる恐怖心をぼんやりと紛らわせたかった。
足を滑らせないように気をつけながら、四角い闇へと身を滑らせる。
階段は灰色の石造りだった。やわらかな室内履きは足音を出す危険から守ってくれる。家人に見つかるわけにはいかない――
秘密裏にことを終えなければならないので。
一歩一歩、着実に降りてゆく。背後の窓からさしていた月明かりがすっかり遠ざかり、心細さが極まったところで床の色と質感が変わった。
ドキリ、とする。
いちばん下に辿り着いたのだ。
でこぼことした質感は岩のそれ。
まさか家の地下が洞窟に繋がっていたとは思いもよらず、アスタリテは息を飲んだ。
灯りを左右にかざして確認すると、横穴は身を屈めなくとも進めそう。足元と同じ色合いの岩壁が側面にもずっと続いている。一本道だ。
「……迷わないのは良いことね。急がないと」
怖い。
本当は怖くてたまらない。
幼いときから延々言い聞かされていた『地下に行ってはなりませんよ』の意味を知ってからというもの、恐ろしさはいや増した。本当は、アスタリテだって封じの地下に来たくはなかったのだ。
(でも、もう、この方法しか)
左手で夜着の胸元を掴む。緊張で肌が汗ばんでいる。蝋燭は最初の長さの三分の一が溶けてしまった。戻りのぶんを考えると、そろそろ目的地に着いて欲しい。
戻り……
“戻り”があるなら。
「あっ」
行き止まりに見えた、唐突な曲がり角。右に折れた先には、なんと光が。
――否、鏡があった。
びっくりするほど立派な造りの姿見だ。光はアスタリテが掲げる燭台の反射だった。
しかし、映る人影は。
(!? 私……じゃないわ。私、こんな髪じゃない。瞳だって。おかしいでしょ。閉じてるなんて)
壁に埋め込まれた楕円の姿見は植物を模した黄金で飾られ、こんな状況下でも魅惑的な輝きを放つ。
そのなかに、造形だけはそっくりな別人がいた。
腰まで波打つ黒い髪。伏せられたまぶた。それだけでふつうの鏡でないのは明らかで、息を止めたアスタリテは左手を伸ばした。
――――儀式を。
言い伝えに従うなら、ここで誓約を結ばねばならない。
永く放置されていたとは信じられない、曇りなく滑らかな鏡面がしっとりと手のひらに吸い付く。
アスタリテは鏡のなかの自分を見つめながら、学園で偶然聞いた、古き災厄の名を呼んだ。自分の真名を捧げて。
「ベーゼリッテ。我が名を与える……“明けの星”」
――――……
痛いほどの静寂。
こわい、こわい、こわい。それでも逃げずにいたのは自分よりも大切なものがあったから。望みがあったからだ。
指先を離さず、けれど居たたまれなくて、アスタリテはそっと爪先に視線を落とした。
すると、どこからか「明けの星」と、歌うような声が聴こえた。
つられて顔を上げると、今度は鏡のなかの自分が微笑みながらこちらを見ている……――!
恐怖に竦むアスタリテと対照的に、その少女はにっこりと笑い、うれしそうに金の瞳をすがめた。
「いい名ね、明けの星。気に入ったわ」
(!!)
声は自分から出ていた。
アスタリテの意識は、ふつりと途切れた。
***
ピチチ……
白い朝日。揺れる木漏れ日と窓越しの梢が窓を擦る音。小鳥の囀りで目が覚める。
「夢……? いつの間に」
寝台の天蓋から垂れる薄布の向こうでは、いつも通り乳母のターニャがカーテンを開けていた。ふっくらと小柄なシルエットがこちらを向き、いそいそと話しかける。
「おはようございます、お嬢様。さあ張り切ってお支度をしましょうね」
「支度?」
ぼんやり問うと、ひとの好さそうな垂れ目に垂れ眉が加わって、いっそう困り顔になった。
「まあ! お忘れですか? 今日から楽しみにしていらした学園生活ではありませんか」
「えっ」
アスタリテはぐるぐると考えた。
乳母は、何を言っているのだろう――?
アスタリテは十七歳。とっくに学園の卒業年次生になった。何事もなければ秋に卒業を迎え、大好きな婚約者と結ばれる。なのに。
「……え? あれ?」
大好き――だった。それは覚えているのにそれ以上を思い出せない。ぽっかりと穴が空いたようだ。
手を引かれ、寝台から降りた素足の大きさと視界の高さに違和感を覚える。垂れ布をひらかれ、朝日のなかで目の当たりにした乳母の顔は幾分若々しかった。
胸元に視線を落とすと…………おかしい。ちいさい。一般的には控えめでも、それなりの膨らみがあったはずなのに。
疑問符だらけの頭は、皮肉なことに鏡台を前に座らせられてすっかり晴れた。
これは。
「うそ。巻き戻したの……?」
「どうかなさいましたか? まさか、具合でも」
「い、いいえ」
鏡のなかで、心配そうな面持ちの乳母は私の黒い巻き毛をもたげ、どのように結いましょうかと尋ねる。私は――夢に見たベーゼリッテと同じ金の瞳で、「好きなように」と、放心状態で答えた。
乳母が何気なく呟く「お嬢様の瞳に合わせて青いリボンにしましょうね」などという台詞から、どうやら自分が見る鏡像のみ彼女に成り代わっているらしいと確信する。そのうち、頭のなかで喜々と話しかけられた。
――ごきげんよう、明けの星。よく眠れて?
(ベーゼリッテ! 過去に戻したの? なぜ)
――心外ね。回避したかったのでしょう? 望まぬ未来を。わたし、ちゃんと汲み取ってあげてよ。
(でも、おかしいわ。彼のことを思い出せないの。名前すら)
――よかったじゃない。要らない記憶なんだから。
(! どういうこと)
驚愕の表情はゆっくり取って代わられ、無表情へ。それから極上の笑みとなる。
心の裡の銀髪のアスタリテは、それを絶望とともに眺めた。背後の乳母は気配の変化にめざとく気づき、微笑んで黒髪のアスタリテの肩に手を添える。
「ようございました。すっかりお目覚めですね。朗らかなお嬢様が一番ですわ」
「ありがとう、ターニャ。ごめんなさいね。昨夜は寝付けなかったの」
「お察しいたします」
にこにこと道具を片付けに乳母が離れる。
アスタリテは、誰にも届かない声を必死に張り上げた。
(やめて、何するつもり!? 返して! 私の体……!)
――だめよ。名を捧げたでしょう? もう、これはわたしの体。大丈夫、たまにしか使わないわ。学園生活とやらを楽しみなさいな。
(そんな)
戻った乳母の手には真新しい学園の制服。
寝巻きから着替えた十四歳のアスタリテ――――ベーゼリッテは、花のように微笑んだ。
――この体なら、じゅうぶんに目的を果たせる。礼を言うわね。明けの星。




