07.【犬】vs【骨】
もし犬が猪を倒したことで
更なる狩猟本能が沸き立ち、
大型獣を狩ることに精をそそぎ出したら、
また不意の瞬間に主人を思い出すまで
出発が遅れただろう。
あるいは完全にこの世界の捕食者と
なってしまったかもしれない。
そうはならなかった。
少年に優しく頭を撫でてもらいたかったのだ。
さすがに猪の全てを食べきることはできなかった。
お腹がいっぱいになるとあらゆる動物が
そうであるように眠くなった。
自分の洞穴に戻ろうか考えたが、
先を急がなければならない。
もうご主人様はギリギリ感知できるかどうかの
距離までいってしまった。
犬は先ほど猪が大暴れして作った倒木の影で
眠りについた。
起きたとき、まだ陽は高かった。
犬は猪の残りを少し食べ、絶壁に沿って走り出した。
肉を残して行くのは癪だったが、まさか持っていく
訳にもいかなかった。
自分より大きい猪を倒すことで
犬はさらに自信がついた。
途中でお腹がすいたら、
また狩ればよいだけの話であった。
猪のような大型の魔獣を食べ、
その豊富な魔素を取り込んだ犬の身体は
大きく変化していた。
犬自身は全く気付いていなかったが
今までと比較にならない程に速く走れ、
そして疲れなかった。
更には主人に早く撫でてもらいたい一心で
走り出したその脚には魔力が宿り瞬発的な
加速を可能にしていた。
それらは獲物を追い詰める捕食者として
最高の武器を手にしたに等しかった。
しかし、同時に重大な問題を犬は抱えることとなった。
すぐにお腹がすくのだ。
どのくらい走っただろうか?
犬は腹ペコだった。
途中で魔獣を見つけては狩って食べていた。
その中には猪や鹿などの今まで手を出してこなかった
大きな獲物もいた。
走り出してからしばらくは獲物に困らなかった。
しかし森を抜けてからは、極端に獲物が
いなくなったのだ。
森を抜けた平原で犬は小型の魔獣を数匹、
腹の中に収めたがもうそれでは何の腹の
足しにもならなかった。
広い平原を抜けたその先で、犬は大きな洞窟の
前を通りがかかった。
いわゆる【ダンジョン】と呼ばれるものの
入り口だった。
この世界では魔素の影響を受けた生物は
【魔獣】となる。
そして魔素そのものから産まれた異形の生物が
【魔物】であり明確に区別されていた。
それは魔素が溜まりやすいダンジョンに
いるものだった。
尤も魔素はそれ以外にも例えば特定の植物にも
含まれており、それに気づいてしまった人々が
引き金となり、この世界の凄惨たる現状を
作り出していくのだが・・・
犬の狩猟者としての嗅覚はそこに
獲物がいることを教えてくれていた。
少年の気配はまだずっと遠いのだけれど、
犬はまずその空腹から獲物を探そうと考えた。
ダンジョンは魔素に満ちていた。
一呼吸するごとに飢えが少し和らぐ様な、
そしてもっと飢えていくような
不思議な感覚に犬は困惑したが一度獲物を
探し始めた狩猟者は立ち止まることなど無かった。
獲物は近かった。
獲物の人影が見えた。
そう、それは人影だったのだ。
だがニオイは犬の知るニンゲンのそれではなく、
今まで散々狩ってきた魔獣のそれだった。
そのためか、この世界で初めて出会った人影に
犬には全く懐かしさを感じさせなかったのだが、
人影であるが故に犬に襲いかかかるのを躊躇わせた。
警戒しながら少しづつ距離をつめた。
犬は靴なんか履いていない。
足音は全く立たず、相手が気づくようなことは
無かったはずなのだが全身が見えた時に、
犬は相対する者に吠えだした。
初めて見た魔獣はリスだった。
そのグロテスクな見た目にもしかしたら犬も
嫌悪感は抱いていたのかもわからないが
それはすぐに犬の初めての獲物となり、
ご馳走となった。
それからも生理的嫌悪を抱くであろういくつもの
魔獣を相手にしたが、それらの肉は
美味しかったためか犬は全く気にしなかった。
でも今、出会ってしまった相手には
その肉が無かったのだ。
未知の存在への恐怖か、骨だけが動くという驚愕か、
それらに対しての威嚇だったのか、あるいは単純に獲物と
思ったものが食べる肉を持って無かったことに対する
クレームだったのかも知れない。
とにかく、犬は自らの存在を相手に知らせてしまった。
骸骨、きっとこの世界の人はスケルトンと
呼ぶのであろう存在は
ただゆっくりと機械的に犬の方に向き直った。
と、そのまま持っていた剣を吠える犬に
振り下ろしてきた。
その動きは酷く緩やかで、大振りではあったものの
犬は完全には躱しきれずに脚を傷つけられた。
優しい主人の元で育てられた犬は武器を持った
相手など経験があるはずがなかった。
攻撃範囲の差とはそれだけで戦いに圧倒的な
アドバンテージをもたらすものだ。
銃、弓、長槍
相手に近づかずに攻撃できるそれらの武器は
戦いにおける持つ者の恐怖心の緩和に
もちろん役には立つのであろうが、
その本質はそれではないだろう。
だがリーチの差に驚きながらも犬は狩れると思った。
こんなにうすのろな奴に負けるはずがなかった。
リーチの差はそれだけで経験のない犬に
ほんの少しだけ戦いを戸惑わせたが、
その次の大振りが地面に突き刺さった時には
その頭骨を咥えてもぎ取っていた。
この世界のスケルトンも誰もが持つイメージの通りに
燃やすか浄化するかして灰にしてしまわない限り
何度でも蘇るやっかいな魔物であった。
しかし犬はこの世界で、その存在の根源たる魔素を
食らっていた。
自らの根源を失ったスケルトンはそのまま灰になっていった。
犬は再度、その場で吠え出した。
その骨は今の耐え難い空腹を少しでも
慰めてくれるおやつぐらいには
なってくれたはずだったのだ。
訳も分からずおやつを取り上げられた犬は
酷く怒っていた。
その獰猛な慟哭は近くにいた全てのスケルトンを
呼び出していた。