06.【犬】vs【猪】
犬はそれこそ犬らしい性格だった。
夢中になると他のことは頭に浮かばなくなった。
少年の元へ急ごうと思っていた考えは
新たに芽生えた狩猟欲求に押し潰されていた。
翌日、正式に自分のものとなった洞穴から出ると
犬は早速、獲物を探し始めた。
食うか食われるかの戦いを経験し、そしてそれに
勝利した犬は大胆になった。
さすがに猪や鹿のような大型な魔獣は避けたが
さほど自らと体躯の変わらない魔獣も狩りの
対象となった。むしろ犬は積極的にそういった
魔獣を獲物として探そうとしていた。
生死をかけた戦いは犬の狩猟本能を強く刺激し、
要するに楽しかったのだ。
そして何より、その肉は味が良いのだ。
優秀な狩猟者としての道を歩き始めた犬は
その日から、そこら中で魔獣を狩り始めた。
犬はある意味幸運だった。
魔獣のいるこの世界では獲物に事欠かなかった。
中には狂暴な肉食獣の魔獣から手痛い反撃を
受けたこともあったが、その度に傷をペロペロと
治しては狩りを再開した。
ただし舐めることのできない傷はどうすることも
できなかった。
イタチに深く傷つけられた耳は
どうすることもできず、そこは痛いままであった。
それは犬にとって教訓となった。
毛繕いできない位置をご主人様がブラッシングして
くれるみたいに自分では治療できな――――
あっ
唐突に少年のことを思い出した犬は
すっかり狼狽えた。
狩猟本能に目覚め、ある意味ではこの世界を
満喫していた犬はその場にひと月以上居座っていた。
ぐっと一生懸命に集中すると少年の気配を
もはや僅かにではあったが感じ取ることができた。
ずっと犬が引きずっていたリードはこの世界に
来た時に首輪ごと消えてしまっていた。
それらは【家】の外に出るときには、少年と犬との
絆を体現しているものだったが、この世界に
来てからは概念となって見えない絆を
繋ぎ続けていた。
しかし、リードの長さにだって限界はあるのだ。
それはもうどれだけ遠いかわからなかった。
犬はふとご主人様に優しく声をかけられながら
頭を撫でて欲しくなった。
少年の気配がする方向へ走り出した。
よっぽど焦っていたのか、犬は大きなミスを
犯してしまった。
猪、それもひと際大きいやつに見つかったのだ。
気づいた時には、猪は後ろから追いかけてきていた。
犬の走り方はご主人に会いに行く軽やかな足取りから
生存のための必死なものに変わっていた。
このひと月で魔獣を食べ続け大量の魔素をその身体に
吸収していた犬の身体はそれと知らず
強化されており、猪から逃げおおせることは
本来は容易なことであった。
ただ、こちらの方向はそれこそ大型の魔獣を
見かけたため犬が近づくことはなかった。
土地勘がなかったのだ。
気づけば絶壁に追い込まれていた。
逃げ場のないことを悟ると犬は猪に向き直り
全身の毛を逆立て、うなり声をあげた。
それは恐怖からくるものではなく、
戦闘の合図だった。
この耳に傷をつけたイタチは自分より
遥かに小さかった。
その痩せ細った身体は簡単に噛み砕けると思った。
でも素早く跳ね回るそいつを捕まえるのは難しく、
手酷い反撃を受けて犬は重傷を負ったのだった。
ペロペロで傷が治せていなかったら犬も
どうなっていたかはわからない。
身体の大きさだけでは勝負が決まらないことを
経験を積んだ狩猟者はもうわかっていたのだ。
初めて猪を茂みの影から見たときは恐怖で
動くことすらできなかったが、このひと月の経験は
犬を肉体的にはもちろんそうだが、精神的にも強くさせていた。
突進してくる猪を躱し、惰性で走る猪と
ほんの少し並走すると犬はその首筋に飛び掛かった。
猪の皮は分厚く、魔素で強化された犬の顎でも
噛み千切ることができなかった。
それでも絶対にはなさないぞと食らいついた。
猪は自分に食らいつく犬を振りほどこうと
狂ったように暴れ出した。
木や岩をその巨大な角でなぎ倒しながら
暴れたため犬の身体は何度もそれらの破片で傷つけられた。
それでも犬は離さなかった。
むしろ食いちぎってやるぞと更に顎に力を込め続けていた。
その巨体が絶壁に衝突した時の衝撃には
犬も耐え切れず弾き飛ばされてしまった。
猪はその巨体を絶壁から引き離すのに難儀していた。
犬はそのまま一目散に逃げれば簡単に
逃げおおせたのだが、もう犬にそんな気が
あるはずもなかった。
犬の狩猟本能からくる闘争心は絶頂に達していた。
狩猟とは獲物の肉を得るための行為であり、
猪の首から流れでる血はその巨体もまた肉である
ことを犬に教えてくれていた。
こいつを狩るのだ。
その強い思いは【女神】の魔力と反応し―――
その牙には魔力が集中した。
自らのものよりはるかに大きい、見えないマズルの
イメージが犬には出来上がった。
犬は絶壁から動けない猪の首筋にもう一度
噛みついた。今度はいとも簡単に、
その肉を深く深く抉り取った。
それが致命傷であることは明らかであった。
興奮冷めやらぬ犬はそのまま、
まだ絶命していない猪の肉を貪り始めた。
自然の掟はどちらの世界でも変わりはなく、
狩られた側がどう捕食されるのかは選べなかった。
ハイエナの様に獲物にとどめを刺すことを知らない
捕食者だっているし、例えば牛に自らの焼き加減を
リクエストされた者などいないはずだ。
猪からは悲痛な叫びが洩れたがそれも長くは
続かなかった。
犬は勝鬨が如く咆哮をあげた。