22.【犬】vs【ボスイヌー】
いつ猫から合図があるかわからないので歌は丘の上から
移動するのを躊躇った。
それでもお腹は空くし、何より魔素の補給は魔物である歌にとっては
死活問題であった。
極端に体内の魔素が消費されてしまう様なことは無くなったとしても
あらゆる生物にとって水がそうであるように、それは生きていくうえで
絶対に必要なものだった。
でも心配はいらない。
犬は狩りに行きたがらない歌のためにせっせと魔獣や魔物を
咥えて持ってきた。
それは犬にとって暇つぶしの意味もあったのだろうが
獲物を丸ごと歌に渡すとすぐに次の獲物を探しにでかけた。
お腹がいっぱいになっても大喜びでしっぽを振って狩りに出かける
犬のお土産は山の様に増え続けた。
もしこの場で、地上で戦闘することになった時のために
歌としても魔素のストックが増えることは安心材料ではあったが
いくら何でもこれは多すぎるだろう。
それに猫の合図は犬が出かけた次の瞬間にもやってくるかもしれないのだ。
その眼下にある都市は想像力をかきたて、その想像に胸に膨らませながら
鼻歌を歌って次に戻ってきたらわんわんを捕まえておこうと歌は思った。
犬は久々の一匹での狩りを楽しんでいた。
それはこの世界に来たばかりの頃以来ではあったが、仲間たちとの狩りが
その群れの絆を強くする様に一匹での狩りは犬の狩猟者としての本能を
強く刺激していた。
はじめは犬は少年との追いかけっこを早く再開したかったのだが
今はもう狩りに夢中になっていた。
獲物を届ける相手がいるおかげで以前の様に狩り以外の全てを
忘れるようなことにならなかったのが幸いであった。
この半年間、3匹の群れは舌がすっかりと肥えてしまい
味の良い肉を求めて魔素を持つ魔獣や魔物ばかりに狙いを定めて
狩りをしていた。
魔獣が誕生する以前よりも、それらの肉ばかりを偏食する生き物など
この世界に存在してはいなかった。
それは先にこの世界に派遣された少年も含めてだ。
人間であれば貴重な魔素を抽出するための材料となる魔物をわざわざ
食べようなんて考えるものはいなかったし、気色の悪い魔獣などは
尚更であろう。
特に魔獣が誕生して以降はそんなことを試みるものなどいるはずが無かった。
それは魔物である歌も例外ではなかった。
魔物である歌とはいえ、以前はそのテリトリーを犯す獲物に
魔獣や魔物は少なかった。勿論、獲物としてそれらがかかれば
その肉を美味しく頂戴してはいたが、それは本当に稀だった。
そもそも本来の住み家であるダンジョンの中でならば魔物にとって
魔素はわざわざ経口で補給しなくても良いものであった。
普通の獲物が存在できないダンジョンの本当に深い階層であれば
獲物として互いを相食らうことで生きるものが存在するのかも知れない。
そんな存在を地上に生きるものや普通の獲物が取れるダンジョンに
産まれた魔物が知ることは無かった。
3匹は日々の獲物たちから、その身に経口から得た魔素の恩恵を受けていた。
毎日一緒に行動している3匹にはその少しづつの変化に互いに
気づきようがなかったが、その身体が内包する魔素の量が増えるのに
比例する様に身体能力や魔力、感知能力は以前よりはるかに強くなっていった。
犬は狩りを始めると酷く簡単に獲物を見つけることができたし
それを捕らえることには何の労もなかった。
そもそもが半年間の狩りは魔素によるその能力の向上を置いておいても
その技術を磨き上げていた。
犬は獲物を捕らえては狩りに行けないほどに弱っているらしい仲間の元に
せっせとそれを届けていた。
きっと姉貴分もそのために自分を置いて出かけたのだろう。
生死を賭けるほどにヒリついた戦いはその勝者に圧倒的な高揚感を齎すものだが
いわばイージーゲームはその勝者に自らの強さを認識させて自尊心を擽った
高揚感を齎すものだ。尤もそれは油断を産み出す甘美な毒にもなり得るのだが。
簡単すぎる狩りを堪能し、小川の水をぴちゃぴちゃと飲んでいると
犬は自分を囲むものたちがその包囲を狭めていることを感じていた。
勿論その存在たちを犬は最初からその優れた狩猟者としての能力で
認識はしていたが特に警戒することすら必要を感じていなかったので
無視していた。
獰猛な唸り声をあげてそれらの群れは現れた。
自らと似ている姿形ではあるが違う種族だということをそのニオイは告げていた。
そのイヌーの群れは犬をすっかりと囲むと警戒と狼狽の色を
隠そうともしていなかった。
自分たちと似た外見を持つそれはニンゲンの言う魔素という名の毒のニオイを
醸し出してはいたがその外観は自分たちが知っている魔獣のそれとは明らかに
違っていた。
群れのボスは皆が嫌うこの毒のニオイがする肉を求めていたがそれはいつも
噛みつきたくもない気色の悪い外観を持っているものだった。
今自分たちが目にしている同族の様な獲物は何なんだろう?
犬はこのよく解らない自分と似た外観を持つ群れからは明らかに敵意を感じた。
犬からすれば美味しくない肉のくせに生意気だった。
美味しそうなニオイがするものほど強いということを犬は認識していたが
この群れからは美味しそうなニオイは全くしなかった。
こいつらはまさか無謀にも自分を狩ろうとでも思っているのであろうか?
イヌーの一匹がせっかちにも飛び掛かかろうとしたその時に
犬は脅す様に面倒くさそうにうなり声をあげた。
たったそれだけでもその迫力は群れに恐怖を伝染させて
恐慌状態を産み出したが、その群れから一匹のイヌーが歩み出した。
それは魔獣と成りかけたイヌーであった。
相対する者全てをそれは群れの仲間だろうが食らいつくしたい衝動が
産まれ始めているその暴君は更なる力を求めて魔素を求めていた。
もはやその個体にとっては同族とは違って魔素のニオイは毒とは感じず、
それは自らを高めるための甘美な獲物のニオイとなった。
暴君は相対する芳醇すぎるニオイを醸し出す犬を至高の獲物と捉えた。
その放つ魔素には比べる必要もないほどの圧倒的すぎる差があったのだが
暴君は今まで相対する全てをその魔素で強化された肉食獣たる狩猟の力で
簡単にねじ伏せ、殺して喰らってきたのだ。
こいつを喰らえば自分は完璧な存在となれるのであろう。
それは遂に魔獣に成り果てることであったのだがその暴君が目指すものは
今やそこにあった。この獲物を狩り、そして率いる群れの全てですらをも
狩り殺して自らが最強となるのだ。この獲物が自らに課せられた
最後の試練であるかのように半ば陶酔しながら2つに割れたそのマズルで
犬に襲い掛かった。
犬は魔力を纏うまでもなく襲い掛かってきた暴君をあっさりと
前足で軽く叩き落とした。その軽いはずだった一撃は暴君の首を
明後日の方向へと向けさせ、暴君をその野望を胸に抱かせたまま息絶えさせた。




