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3.風

 伸び始めたばかりの草が脛をくすぐる。


 エルーカは風光る草原に足を踏み入れた。


 靴底に触れる大地が柔らかい。涼しい風と、草の匂い。細い雲のたなびく蒼天は、どこまでも上に突き抜けエルーカを押さえつけない。


 記憶にない景色から五感をいっぺんに刺激され、エルーカはすぐたまらなくなった。


「ひゃあーっ!」


 縦横無尽に、全力で犬のように草原を駆け回る。

 とにかく落ち着いてはいられなかった。


 エルーカが地下から出てきた場所は、小高い山の頂上にできた広い窪地であった。草原は丸く囲われており、およそ人が歩いてこられそうな道はない。


 では、五年前の幼いエルーカはどうやって地下への入り口があるここまで辿り着けたのかという疑問が当然に湧くが、当人にそんなことを考えている暇はなかった。

 ひたすら奇声を上げ、ケルントラトにもらったばかりの白い外套を草と土で汚し続ける。


「あ!」


 と、エルーカは自分を見つめる動物に気づいた。

 窪地の草を食みにきた小柄な鹿が数頭。エルーカに気づかれたと知るや、後ろ足のバネを存分に使って逃げた。


 勢い、エルーカは追いかける。


 とはいえ二本の足でまともに駆けては追いつけない。走り出してから思いきり、長い杖で地面を突くと、エルーカの身は瞬時に空中へ射出され、一頭の牡鹿の背に落ちた。


「ふはっ!」


 枝分かれした角を手綱がわりに片手で掴み、暴れる鹿の背にエルーカはしばし留まったが、最後には振り落とされた。

 牡鹿は大変な迷惑をこうむったと憤慨しながら岩肌を駆けのぼり去っていく。


 エルーカは魔法の力で綿毛のようにふわりと落ちたため、衝撃はほとんどなかった。

 仰向けに倒れたまま、はあはあと小さな胸が上下する。


「たのしい!」


 単純な感動が口をついて出た。

 エルーカは青空を大きく吸い込み、吐き、を繰り返し、一度自分を落ち着かせることにした。


 やや冷静さを取り戻すと、また気配を感じた。

 地上はどうにもせわしない。

 今度は青銀色の狼の群れがエルーカを取り囲んでいた。


 普通の狼とは違う。長い毛先が風に吹かれると煙のように揺らぎ、瞳が赤く光っている。狼らしきものたちは本来、鹿を狙って潜んでいたのだが、エルーカに邪魔され腹を立てていた。


 起き上がったエルーカが無意識に一歩引くと、つられて一匹が包囲の輪から飛び出した。


 エルーカはその狼の鼻面めがけ思いきり杖を振るう。


「やっ!」


 軽い気合とともに、放たれた大きな衝撃が狼の体を粉々に打ち砕いた。

 血も何も出ない。その身は微細な魔力の欠片に分解され霧散した。

 

 前方を倒せば次は後方。エルーカは振り返りざま狼を二匹砕いた。

 そのまま体を捻り右方。回転して反対側。地面に杖突き衝撃波で四方から飛びかかってくるものをまとめて吹き飛ばした後は、どうもきりがないと見て空を掻き回すように頭上で大きく杖を振った。


 大気がエルーカを中心に渦を巻く。するとあちこちから湧く狼たちが浮き上がり、空中で一塊となった。


 ぎゃあぎゃあと狼たちは焦っている。


「せぇーのっ」


 エルーカが杖を振り下ろすと、狼の塊は窪地の外側へ矢のように飛んでいき、二度と帰ってこなかった。


「あぶなかったー」


 と口では言うが、エルーカは息も切らしていない。

 草原に静けさが戻った。


「ん?」


 風と衝撃により草の向きが変わったことで、エルーカはそれまで目につかなかった小さな植物たちを見つけた。


 まっすぐ伸びた茎の先端に白い花弁がいくつも付いている。よくよく目を凝らせば草の間に点々とそれらが咲いているのである。


「花だ」


 花というものの姿や特徴をエルーカはリグナムによく教わっていたから、見たことがなくともわかった。地面に膝をつき嗅いでみると、青臭い中に甘やかな香りがした。

 花弁の中心には丸い羽虫の姿もある。


「エルーカ知ってる。あなたは虫。花には虫がつくってリグナムが言ってた」


 再び草に寝そべり、エルーカは花の中の虫を観察した。黒光りする背の下で六本の脚がちろちろ動いている様子が見ていて飽きない。


 他にも、白い小さな蛾や、蜂が、じっとしているエルーカの傍を通り過ぎていった。


 ややあって、少し飽きた頃に仰向けになればいつの間にか陽が空の真ん中にある。エルーカは鼻に皺が寄るほどぎゅっと目を閉じた。


「太陽まぶしすぎるー」


 不満を訴えども今すぐ消えてはくれない。窪地の草原に木陰などはないため、エルーカは外套を頭にかぶって日除けとした。


 またしばらく待てば太陽が窪地の空から退場し、エルーカは外套を取った。


 空の模様が最初と変化している。雲の流れが速く、今度はそれらがくっついたりちぎれたりする様子に心奪われた。


 地上のものは絶え間なく、ひとりでに変化してゆく。


 エルーカはいつまでも目を離せない。

 

 だんだんと空の青が昏くなってきた。すると、それまで何もなかったところに、ぽつんと光る点を見つけた。


「あ」


 衝動的にエルーカは立ち上がり、一番星の灯るほうへ歩き出す。

 途中、杖を高く掲げると、蜘蛛の巣に似た先端の飾りが風を捉え、エルーカを空に舞い上げた。


「わ」


 窪地の外側には、西から赤と金に染まりゆく大地があった。


 遠くの山。手前の森。川。平原に引かれた道。家。畑。


 エルーカの記憶にない世界が見渡す限りに広がっている。


「・・・ぜんぶ、はじめからここにあったのかな」


 ついさっき世界ができたわけもないだろうが、こんなにたくさんのものが自分の知らぬ間に存在していたのかと思うと、エルーカは不思議な心地がした。


 一番星を目指して飛び始めたものの、刻々と変化する地上の姿に見惚れ、エルーカは風に流されるまま流されていく。


 太陽が金色からどんどん赤みが増してくる頃、エルーカは前方の障害物に気づいた。


 いつの間にかどこかの山の上空にいる。

 その山頂ににょっきりと、周囲の木々より高い塔が生えていたのである。


「なんだろ?」


 石造りのそれに興味を惹かれ、エルーカは風を降り、塔の一番上の壁のない部屋に入った。


 そこは鐘塔であった。

 部屋の真ん中にエルーカをすっぽり閉じ込められるくらい大きな青銅色の鐘が吊るされており、四方に小ぶりな鐘が一つかまたは二つずつ吊られている。


 エルーカにはこれらがなんなのかわからない。興味津々で鐘を一つずつ覗いて回る。

 

 西側の小さな鐘の下に立つと、麓の町の灯りがわずかに見えた。その町から塔へ繋がる山道が伸びているが、ところどころ腐った倒木が塞いでいたりして、普段からあまり人通りがあるようではない。

 塔は山の上でひとり、寂しく風に晒されている。


「あ、そうだ」


 エルーカはここでリグナムとの約束を思い出した。半ズボンのポケットから袋を取り出し、中の黒い種を一粒、塔の下へ落とす。途中で薄闇にまぎれたため、どの辺りに落ちたかはわからない。リグナムが望むように無事花開けばいいと思った。


 西から差し込む赤が徐々に弱まり、世界は薄群青のぼんやりした暗さに包まれ始める。


 間もなく地平に陽が沈む、黄昏の刻。


「誰だ」


 背後から問う声がした。

 エルーカが振り返った時、階下に通じる石段をのぼってくる頭が見えた。

 

 銀色の髪の男であった。


(人間!)


 驚いたエルーカはこの時、咄嗟に声が出なかった。


 男は足元まで覆う裾の長い服の上にケープを羽織っている。右手に持つランタンの灯りが揺れていた。先ほどよりも風が強まっている。


 男の掲げる灯がエルーカの表情まで映し出した時、その顔色は変わった。


 男はまなじりが切れそうなほどに目を見開き、言葉を失って、エルーカを見つめる。


 尋常な様子ではない。

 一体なんだろうと思うエルーカの脳裏に、旅立ち前のケルントラトの言葉が浮かぶ。

 

「あっ、運命の人間?」


 エルーカが声を発した途端、男は息を呑んだ。


「あなたがエルーカの運命?」


 エルーカの旅の導き手。進むべき先を教えてくれる人間は、見ればわかるとケルントラトが言っていた。エルーカはこの目の前の変わった男にぴんとくるものがあったのだ。


 すると男の顔に戸惑いが滲んだ。


「・・・お前は誰だ?」


「エルーカだよ。ねえ、エルーカはどこにいったらいい?」


「・・・エルーカ?」


 細い眉がかすかに歪む。

 何かを吟味するようにしばし男は沈黙した。


「――君は、エルーカというのか」


「うん。あなたはなんていう人?」


「・・・ジスラン」


「ジスラン、ジスラン、ジスラン。覚えた」


 あまり長い名前でないことは、エルーカにとって多少助かる。だがそれでも忘れる時は忘れてしまう。


 ジスランの問いは続く。


「どうやってここまで来た?」


「どうやって? 風に乗って。びゅーって。これなぁに?」


 エルーカは頭上の鐘を指した。

 

「私の仕事だ。君が――悪意をもってここへ来たのでないのならば、話は後で聞く。こちらに立っていてくれ」


 ジスランは今自分のいる場所の後ろの床を指した。エルーカは示されたとおり階下に繋がる石段の傍へ移動する。


 入れ替わりにジスランは中央の大きな鐘の下へ移る。ランタンは足元に置き、床にまとめてある紐の束を持った。紐の先は四方の小さな鐘の舌に繋がっている。


 大きな鐘の舌から伸びる紐は、部屋の南側の柱に取りつけられている木の棒を組み合わせた簡易な装置に繋がっており、ジスランが装置のペダルを踏み込むと、紐を括りつけられている棒が上下に動き、舌が振られて低い鐘の音が響き渡った。


 骨まで震わせる音に思わず耳を塞いだエルーカだったが、しばらくすると慣れてきた。うるさいが、不快な音ではない。


 ジスランははじめに大きな鐘だけ四度鳴らし、五度目に四方の鐘の紐を引き、小さな鐘を続けて鳴らした。


 低音がゆっくりとリズムを刻み、その上をややテンポの速い高音が跳ねる。


 ジスランは一人でペダルを踏みながら両手で紐を引かねばならないため忙しそうだ。だが厳かな音色の中に奏者のせわしなさは少しも表れない。

 鐘が、麓の夜の帳を静かに下ろしてゆく。


 完全に日が沈む頃、余韻を残し鐘はやんだ。

 ジスランは紐を元通りに片付け、ランタンを持つ。


 灯に映し出される男の表情にもう動揺はなく、よく磨かれた銀器のように澄んでいた。


「では、話そう」

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