24.姉妹
「ねえ、あなたはプエラリスの子?」
エルーカが尋ねると、もがいていた神の動きが止まる。
溶けた顔の半分が、ただの幼い少女のように困惑の表情を浮かべた。
「え・・・?」
「卵から出てきちゃったの? まだちゃんと体ができてないのに、生まれてきちゃだめだよ。体ができてないと魔力も受け止められないんだよ」
「は・・・」
「ケルントラトのところに戻らなきゃ」
「だ、誰だそれっ」
「? ケルントラトを知らないの? プエラリスの子供なのに?」
相手から明確な答えはなくとも、エルーカの中で少女の素性は確信に変わっている。湿原の神と呼ばれる彼女からは土地の魔力の他に、確かにプエラリスから受け継いだ魔力の匂いが感じられるのだ。
プエラリスの子供は漏れなくケルントラトに保護される。
地下で生まれた妖精が父を知らないはずがない。
「ケルントラトだよ? 魔法だってケルントラトに教わらないとうまく使えないよ? ベールもエスタスもアウムもヒェムスもケルントラトに魔法を習ったんだよ」
「うっ、うるさいうるさいうるさいっ!! なにゆってるかわっかんないだよお前ぇっ!!」
さながら子供の癇癪のように、叫んで再び泥を噴出させた。
しかし、やはり泥は飛び散る前に凍りつく。エルーカのかけた魔法から逃れられていないのだ。
「魔力をばーって出すだけじゃ魔法にならないんだよ。上から別の魔法をかけられたら、全部乗っ取られちゃう。魔法の使い方をケルントラトにちゃんと習ったほうがいいよ」
「ゔぅぅゔゔっ!!」
悔しくて地団太を踏みたくとも、足が凍り付いていてそれもできない。
【泉】から魔力はとめどなく吸い上げられるが、その魔力を受け止める器は穴だらけの小さなバケツのようなもの。結局、不完全な体の妖精が使用できるのは、バケツの穴から流れ出す前の、かろうじて底に残っている魔力だけなのだ。
魔法の正しい使い方も知らず、他に何もできない少女はぐずぐずと泣きじゃくる。
エルーカは小さい頃の自分が泣いた時、父や兄姉たちにそうされたように優しく諭そうとした。
「ねえ、ケルントラトのところに帰ろ?」
「だからそんなヤツ知らないっ!! わたしたちは神を殺してお母さんに魔力をもっていかなきゃいけないのっ!!」
「え?」
「こんな小さな【泉】の魔力だけじゃ足りない! もっとたくさん【泉】を奪って、役に立ったら、そしたら、お母さんはわたしたちをほめてくれる! 強い子だって、かしこい子だって、いっぱい頭をなでて二度とわたしたちを捨てたりしない!」
顔を拭うこともできないため、だらだらと涙と泥が少女の瞳から首まで伝っていく。
エルーカは誤解をしていた。
ケルントラトを知らない妖精の子、黒い沼、黒い泥――もっと早く気づけたはずだったが、エルーカはなぜかそのことを思いつかなかった。無意識に避けていた。
だが今、頭の中のケルントラトの声がエルーカによく考えろと警告する。
「・・・あなたは死の沼に捨てられた子なの?」
口にすると、昏い炎のような瞳がエルーカを見上げた。
「だったらなんだ。お前は誰だ!?」
「エルーカ」
「え?」
怒りは再び困惑に変わった。
「お前がエルーカだって? あの、エルーカ?」
まるで信じられないと、少女は取り乱した。
「ウソつくな!!」
「? ウソついてないよ。エルーカはエルーカだよ。それだけは覚えてた」
「ウソだ! だって、だってエルーカはもっと小さかった。足いっぱいで、気持ち悪くて――」
今度はエルーカのほうが驚く番だった。
「あなたはエルーカを知ってるの?」
エルーカが覚えている限り、死の沼に捨てられた妖精の子に会ったことはないはずだ。
あるいは過去のことをまたしても忘れてしまったのかもしれないが、だとしてもここまで強く否定されるほど、エルーカの姿が地下にいた五年の間に大きく変わったわけではない。
しかし少女は頑なに認めなかった。
「お前はエルーカじゃない!! お前は誰だ!?」
「―――」
ただただ、エルーカは目と口をぽかんと開けていた。
名前は唯一、失くさずに持っていたもの。それ以外は何も覚えていなかったがゆえに、この名だけは絶対的に自分のもので、存在の地盤であるはずだった。
だが、いつも深く霧がかかっている頭の奥から、うっすらと似たような記憶の輪郭が浮かんでくる。以前、誰かにも同じことを問いかけられたことがある気がしてきた。
いつのことかはわからない。誰に問われたのかもわからない。
思い出せない。
だからこそ知りたくて、エルーカはおもむろに死の沼の妖精へ近づいていく。
エルーカがエルーカでないならば、一体誰がエルーカなのか。
「――逃げろ!!」
アスラクの警告が聞こえた一瞬後に、光の槍が湿原に突き刺さった。
その前に強大な魔力の気配を察知したエルーカはいち早く飛び退いていた。
彼方から飛んできた槍の狙いの先は、凍り付いて動けずにいた死の沼の妖精である。
槍は巨人のもののように大きかった。ゆえに小さな少女の姿をしていた妖精は、その穂先に叩き潰され、残骸が灰のごとく空間に散った。
彼女が消える直前、驚愕する赤い瞳と目が合った。
それは絶望の色をして、開いた口はエルーカに何かを言おうとしていたが、言えなかった。あれほどエルーカを拒絶していたのに、最後は助けを求めていたようにも見えた。
槍の柄には音楽の神が掴まっていた。
彼は長く輝く髪を足元まで垂らし、気だるそうに、生き残ったエルーカを見やる。もし気づかず逃げていなければ、エルーカもまた巨大な槍にまとめて押し潰されていただろう。
「・・・エルーカは、あの子と話してたのに」
地下の妖精たちにずっと甘やかされてきたこともあり、エルーカは己の激しい感情にあまり慣れていない。
ゆえに語気を荒げたりすることはないが、それでも今のエルーカは確かにイムジスカに対して怒りを感じていた。
「きっと、あの子ともっと話さなきゃいけなかった。あの子を殺さないでほしかった」
「殺せと言っただろう。いつまでもモタモタしているからじれったくなった」
イムジスカは薄ら笑いを浮かべている。
湿原の神の動きが完全に封じられ、エルーカが話に夢中になって相手に近づいた時をわざわざ狙った音楽の神の意図に、気づいているのはこの国の人間ではないアスラクとネロイだけである。
神が現れた途端に跪いた騎士たちや、不満顔のエルーカは思ってもみない。
いずれにせよ、場を支配するのは神である。
死の沼の妖精が占拠していた【泉】に、己の力の印たる【楔】を突き立て、今はこの湿原までもがイムジスカの領域となってしまった。
「エルーカ、約束は果たしてやる。お前は私の土地で生まれたものではない。わかったか? わかったら早く出て行け。辿った道を戻ることは許さん。もし、もう一度私の土地に足を踏み入れることがあれば、お前がなんであれ次は殺そう」
いつの間にか薄ら笑いは消えていた。
エルーカを冷たく見下ろす顔は明確な拒絶と嫌悪を表す。地上に出るまで、エルーカはこんなふうに誰かに見られたことが一度もなかった。
「・・・殺すのって、エルーカのこと言ってる?」
「そうだ」
「どうして?」
「お前は危険だからだ。神でなくともやはり力が強すぎる。つまり、いるだけで不愉快だということだ」
どんなに本人が無害に振舞おうと、自在に魔法を操り、神となったものすら容易く追い詰め、神の不意打ちにも対応してみせたエルーカは、用心深いイムジスカにとって十分な脅威であった。
イムジスカが本気を出せばエルーカを排除することは不可能ではない。しかし、彼が争いを好まないというのは真実であり、よってエルーカが大人しく土地を去るのであれば見逃すという。
「さようなら、エルーカ。お前のダンスだけは良かった。私のいないどこかでこれからも愉快に生きろ」
言いたいことを言うだけ言って、イムジスカは虚空に消えた。
了承など得る必要もなく、神の言葉は必ず果たされるべきものではじめから異論は認められないのだ。
地に刺さった槍はそのまま残されたが、間もなく、強い風が吹くと視界の景色が変わり、エルーカたちの前から槍の姿が消えた。
神の魔法で【泉】が隠されたのだ。ここには結界が張られ、神以外は誰も【泉】に近づけないようになる。この結界を破るには膨大な魔力が必要だった。
「・・・」
湿った冷たい風がエルーカのおさげを揺らす。何かがわかりそうで、何もわからないまま終わってしまった。
人間たちは、湿原の神を見つけてからの一連の妖精たちのやり取りにあまり付いていけておらず、互いに顔を見合わせる。
エルーカは、怒りが通り過ぎて少しだけ悲しい気持ちになっていた。
手を伸ばすと、風に流されてきた灰が指先をかすめ、ぴりりと小さな痛みを残し、消えてしまう。
エルーカが覚えている限り、初めて出会えた姉妹には、こうして二度と会えなくなった。




