23.死の沼
湿原の神の襲撃を凌いだ翌朝、砦の城壁やその周囲には神の操っていた黒い泥が多く残っていた。
それらは石などを除いて、触れたものを溶かす性質を持っており、剣を刺せば錆び、獣の肉を触れさせれば瞬時に腐敗して溶けた。
ネロイが湿原の調査隊に同行した際、兵士たちを全滅させた黒い泥と同じものであるという。
放置しては危険なため、エルーカとネロイがそれぞれに魔法と魔術で泥を凍らせ、それらを地中深くに埋めて処理をした。
黒い泥の跡を眺めていると、エルーカは記憶の片隅から呼びかけられている錯覚をした。
どこかでこの泥を見たことがあると思った。それもさほど昔の話ではない。
地下世界でケルントラトに注意されたことが蘇る。
「近づいちゃいけない・・・」
「どうした? エルーカ」
「待って。今ね、もうちょっとで思い出す気がする」
「何を? なんでもいいけど、そろそろ出発するぞー」
アスラクはうんうん唸るエルーカの手を取り、城門の前まで引っ張っていった。
そこには、これから湿原の神の討伐に赴くエルーカのサポートとして、ネロイと砦の騎士二人が待っている。
「妖精のお嬢さん、こちらです」
黒髪の騎士のほうが、近づいてくるエルーカに気づいて声をかけた。
彼はヘルマン、もう一人の茶髪の騎士のほうはディーターと自己紹介をした。二人とも若く、エルーカに対しては態度の隅々まで好意的であった。
「昨晩はお嬢さんのおかげで一人の死者も出ませんでした。重ねて感謝申し上げます」
「今日は俺たちがお嬢さんの護衛を、と言いたいところですが、神が相手じゃまるで歯が立たないのでね。せめて邪魔にならないように付いていきます」
彼ら自身が苦笑いしながら言うとおり、騎士の二人は護衛ではなく、砦との連絡役であり、またエルーカがきちんと仕事を果たしたか見届ける監視役でもあった。
とはいえ、砦を見事に守りきったエルーカに対して、騎士たちは信頼を寄せている。ただしエルーカのことは人間ではなく、彼らの神が認めた妖精だと思っているようだ。北の地のセレティクスが黒竜を使役していたように、神は妖精の眷属を持つことがあるため、エルーカもその類と認識された。
「準備がよろしければ出発しましょう。湿原の神のもとにはネロイ殿が案内してくれますので」
「え、先生に神の居場所がわかるわけ?」
「あの泥が神の一部だと判明したからな」
ネロイは、中に黒い泥を押し込めた氷の塊を手に持っていた。
よく見ると泥は氷の中でかすかに蠢いて、手のひらに乗せると尖った先がある方向へ自然に傾く。
「今朝、この泥をもとに追跡の魔術を仕掛けた。ほぼ確実に神のもとへ辿り着けるだろう。ただし戦闘は引き続き僕をあてにするなよ」
「と言いつつ、昨日はそれなりに戦えてたよね先生。さすがは上級魔術師だなあ。頼りにしていいよね?」
「できるのは道案内だけだ。魔術でごまかしているだけで、僕はまだ足も完治はしていないんだからな。エルーカ、昨日と同じように我々のことを守りながら戦うんだぞ。わかってるな?」
「うーん・・・」
エルーカはほとんど会話を聞いていない。
そのままアスラクと同じ馬に乗せられ、湿原へ出発した。
昨夜の襲撃など何もなかったかのように、湿原は今日も晴れて穏やかだ。
北の地で神を求めて歩いた道のりとは異なり、その地には試練も困難もほとんどなかった。ただ視界の開けた場所をまっすぐ進むだけで、辿り着いた。
草の他は何もない場所に、ぽっかりと穴が開いたような小さな沼があった。
水の色は黒い。沈んだ泥の色ではなく水自体が黒く濁っている。
そこから強い魔力が溢れているために、わざわざネロイがここだと言わなくとも、エルーカは目的地に着いたことがわかった。
沼から離れた場所で一行は足を止めたが、辺りをよく見回しても神らしき姿はない。
「魔力の反応からして、この辺りにいるはずだが――ふむ。あの沼がもしや【泉】なのか?」
「あれが?」
ネロイもアスラクも神の力の源たる【泉】を目にしたことはなく、また人間は魔力を感知する力が妖精よりずっと鈍いため、確信が持てない。
「普通【泉】は見つけられないように神の力で隠されてるはずだよね?」
「普通ならそうだろうな。そもそも【泉】と呼称されているが本当に水を湛えた場所であるとは限らない。魔力の湧きどころを泉に例えているだけであろうし、いずれにせよ調べてみねば何も言えんが」
「あ」
ネロイたちが沼を調べようと馬を降りた時、エルーカはちょうど思い出して声を上げた。
そして何事かと思う人々の前に出て行く手を遮る。
あの黒い沼がなんであるかわかったのだ。
「【死の沼】に近づいちゃだめ」
「? エルーカ?」
「あれは死の沼だよ。あそこにはたくさんの呪いが溜まってるんだって。触ったら死んじゃうってケルントラトが言ってた」
「はあ、死の沼? 物騒な名前ですね。なぜそんなものがここに・・・?」
砦の騎士たちは困惑している。彼らは自分たちの警備する土地にそういったものがあるとはまったく知らなかった。
一方、アスラクは妙に訳知り顔のエルーカに疑念を抱く。
「エルーカはどうしてその沼のことを知ってるんだ? もしかして前に見たことがある?」
「うん、あるよ。死の沼は妖精の国にあったもん。プエラリスが作ったから」
「プエラリスって、エルーカの妖精の国のお母さんだっけ? そのプエラリスがここに死の沼ってのを作ったの?」
「ううん、ここじゃない。妖精の国」
「えーっと、いまいち話が見えないな」
「ふむ。エルーカ、一つずつ我々に教えろ。まず、プエラリスとはどういう妖精なんだ?」
エルーカの特性を少し理解してきたネロイも、口を出した。
「? プエラリスはプエラリスだよ。すごく大きい、妖精を生む魔法を持ってる、地下の妖精みんなのお母さん」
「妖精を生む魔法?」
「うん。プエラリスは妖精を生む。ちゃんとした妖精は生めないけど」
「ちゃんとした妖精じゃないというのは? どういうことだ?」
「うんとー、プエラリスの生む子は、体がどろどろでちゃんとした妖精になれないの。だからすぐ死んじゃう。だからケルントラトが生まれた子を卵にいれて育ててる。ベールもエスタスもアウムもヒェムスもケルントラトが育てた。ケルントラトが育てればちゃんと妖精になる」
妖精の女王を名乗るプエラリスは、実は魔法があまり得意ではない。だが魔力だけは高いために、時に意図せず魔法を発動させ子を生んでしまう。
ケルントラトはその未熟児を拾い、魔法で作った卵の中に保護し、エルーカが寝起きしていた保育室で育てているのである。ゆえにケルントラトが妖精たちの父なのだ。
「ケルントラトが地下に来るまで、プエラリスはうまく生まれてこれなかった子を水の中に捨てたんだって。そしたら、死の呪いがどんどん溜まって黒い沼になった。死の沼に触ったら呪われて死ぬんだよ。ケルントラトでもどうにできない。だから近づいちゃだめなんだって」
「ん、ちょっと待ったエルーカ。それなら、死の沼がここにあるのはおかしいんじゃないか?」
アスラクたちはおそるおそる、黒い沼のほうを見る。
暢気に会話を続けているうちに、沼の底から、人の頭の形をした泥がせり上がってきた。
小さな子供の頭である。
徐々に泥が形を変え、色づき、白い髪と赤い瞳を持つ少女の顔を作る。ただし顔の半分ほどはうまく形にならず、どろどろと流れ続けていた。
細すぎる体も同じだ。手足の先は泥の塊のままで、黒い沼から這い出てきた。
少女が立ち上がる頃には、黒い沼は消えた。
それはもとより沼ではなく、溶けた少女の体であったのだ。
赤い瞳で真っ先に、強大な魔力の気配を漂わせるエルーカを捉えた。
「来るなっっ!!」
叫びとともに、少女の体から黒い泥が飛び散った。
山が噴火した時のような勢いで、離れたところにいるエルーカたちのもとへ泥が大量に降り注ぐ。エルーカは杖をひと振りし、全員を覆う風の傘を作ってすべての泥の粒を跳ね飛ばした。
傘はその場に残してエルーカは杖で地面を突き、少女の姿をした神の近くへ降り立った。
「っ!? あっちいけ!!」
湿原の神は見るからに慌てて泥団子を発射し、同時に泥の障壁を作った。とにかくエルーカを遠ざけるために闇雲に魔法を放つ。
エルーカは泥団子を宙返りで軽く避けた。するとそこへ、昨夜砦を襲った巨大な泥の手がそそり立ち、エルーカを空中で握りつぶそうとする。
エルーカは宙返りの途中で杖を振り、泥の手を衝撃波で散り散りに砕いた。
「ひっ!?」
湿原の神の悲鳴が聞こえた。
怒りにまみれた赤い瞳の中に、隠れていた怯えが現れる。しかしエルーカと目が合うと、己を奮い立たせるように再び炎を燃やした。
「わたしたちのっ、ジャマをするなぁっ!!」
泥の手が湿原に幾本も生え、エルーカへ次々に襲いかかる。
エルーカは風に乗り、素早く手の間を飛び抜けた。そして通り過ぎざまに泥の手に魔法をかけ、凍らせる。
エルーカの魔法は泥を通して伝染してゆき、湿原の神が新たに手を生やしてもあっという間に凍ってゆく。
ついには泥のもとを出している湿原の神にも魔法が及び、彼女の手足まで凍りついた。
「やっ、なんだこれ!? やだあっ!!」
湿原の神はパニックに陥った。
その身はイムジスカのような義体ではなく、神の本体であり、魔力は明らかに彼女のほうが強いにもかかわらず、エルーカには指一本触れられない。
エルーカは少女の前に降り立ち、ひと息吐いた。




