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22.湧きあがる闇

 城壁の上から、エルーカは黒い種を一粒放り投げた。

 夜になって頭が落ち着いた頃、友との約束を思い出したのだ。


 エルーカは見張りのため城壁に立っている。かわりに楽隊の演奏は休憩に入り、今は火の粉の弾ける大きな松明が夜の闇を牽制していた。


 結論から言えば、エルーカは湿原の神を殺してくれというイムジスカの頼みを聞き入れた。


 昼間、かの神は四弦の楽器を時折鳴らしながら、溜息まじりにこう語った。


「今まで気にしたこともなかったが、この湿原は私の領域から外れていたらしい」


 神は土地の魔力の湧く【泉】に、自らの魔力で作った【楔】を打ち込むことで、土地を掌握する。

 どうやら、ダタル湿原にはイムジスカも把握していなかった小さな泉があったのだという。


 つまるところ湿原に現れたのは本物の神であった。

 

 ただし神の魔力はその土地の広さに比例する。相手はうっかり見逃してしまうほどささやかな泉を一つ占有しただけだ。ならば広大な音楽の国を掌握しているイムジスカが、湿原の神を恐れる理由は本来ないはずである。


 しかし、イムジスカは「私の手は美しい音色を奏でるためにある」などと言い訳していた。


「歌って踊って奏でて眠る。生きるとはそういうことだけで良い。私はな、エルーカ。争いは嫌いだ。本音を言えば湿原の奴も放っておきたいが、奴は人間にも手を出すのだからそうもいかない。人間を殺させるのはだめだ。こいつらには私の楽器と曲を創らせねばならないからな」


 イムジスカは何よりも音楽を愛する。

 ゆえに音楽を創り出す人間を等しく保護する。この神は王族以外の前にも気安く姿を現し、人間たちに新しい楽器や演奏をねだるのだ。


 国民が奏でる音に魔除けなどの効果を付与させるのも、人間たちの音楽への意欲をさらに高めるための餌のようなもの。

 すべては己の楽しみのためであって、特段人間に愛情を持っているわけではないのだが、彼は情け深き神として人々の尊崇を集めてやまなかった。


「というわけで、私のかわりに湿原の神を殺せ。うまくできたら、お前の知りたいことを教えてやろう」


 故郷を探さねばならないエルーカは、イムジスカの依頼を受けるしかなかった。

 そうして今は兵に混じり、夜の砦の見張りをしているのである。


 湿原に出向いて神を探すのは日の出ている間だけとし、夜は闇に紛れて神が攻めてくることを警戒し領域の境界線を守ることとなった。

 

「エルーカ、眠くないか?」


「うん。へーき」


 アスラクが、二つのカップに温かい飲み物を淹れて、傍に戻ってきた。砂糖をたっぷり溶かした茶で、眠気覚ましのかわりである。

 エルーカは城壁に座り、ずずずとカップを啜る。


「エルーカ、この国の神には気をつけろ」


 アスラクはエルーカの座る石壁に肘を乗せて、同じく横でカップを啜った。


「伝承では、イムジスカは別の神どうしが争っているところを騙し討ちして、両方の土地を手に入れ神になったんだ。奴は平和主義者なんかじゃない。自分がほんの少しも損することなく、すべてを手に入れようっていう、卑怯で強欲な神だ。エルーカが湿原の神と戦ってる間も、後ろから攻撃されるかもしれないって、思っておいたほうがいい」


「・・・うーん?」


「俺の言ってることわかる? わかんない?」


「わかんないかも」


「それならエルーカは俺が倒せって言った相手を倒してくれ。で、俺が逃げようって言ったら一緒に逃げる。わかった?」


「アスラクが倒せって言ったら倒して、逃げるって言ったら逃げる? うん、わかった」


「約束な。ちゃんと覚えといてくれよ?」


 アスラクが頭をなでてくれたので、エルーカは嬉しくなった。だがそこへ「エルーカ!!」と突然叫ぶ男が現れ、ぎゅっと肩が上がる。


「びっ、くりしたあ。どしたの先生」


「眠気を覚ましてやろうと思ってな。どうだ?」


 エルーカはカップを固く握りしめ、大きな目でネロイを凝視していた。どうやら効果があったようだとネロイは得意げだが、三日徹夜できるエルーカにはそもそも不要な気遣いである。


「先生、悪いけどやめてくれる? 俺もエルーカも大声出されるの苦手だからさ」


 前にもネロイが興奮して大声を出した時、少女が目を丸くし杖を握り締めていたのをアスラクは見逃していなかった。

 エルーカ自身は意識していないことだったが、体が自然に反応したのだろう。落ち着かせるようにアスラクの手が添えられると、強張った背筋が弛んだ。


「男の怒鳴り声って、特に女の子にはけっこうな恐怖だよ」


「もとより脅かす目的だったのだが。つまりは余計な世話だったわけか。なら悪かった。今後は控えよう」


「で、先生は何しに来たの?」


「当然、研究だ。もっとよく湿原の神を観察したい。ちなみに魔力はまだ溜まらんので僕の護衛はまかせたぞ」


「普通に足手まといなんだけど。いつになったら戦えるくらい魔力が溜まるわけ?」


「あと二日はほしいところだ。消耗がそれだけ大きかった。だがもし僕を戦わせたいのならエルーカ、貴様の魔力を少しよこせ」


「え?」


 話を半分聞いていなかったエルーカは、アスラクを経由してもう一度聞き直した。

 魔力の譲渡自体は簡単なことだ。魔法を分けてやる時のようにキスをする必要すらない。


 エルーカは特に深く考えず、カップを杖に持ち替え、ネロイの鼻先に向けて魔力を放った。


「ふぐっ、っ」


 途端にネロイはその場に跪いた。苦悶しながら急いで腰のランタンを外し、灯心を素手で握って譲渡されたばかりの魔力をそちらに移す。

 魔力が宿ることでランタンに紫色の不思議な火が灯った。


 それでも余った魔力は大気に放出され、エルーカの中に戻った。


「おいこら加減を考えろ! 殺す気か!?」


 つい先ほどの約束を忘れてネロイは怒鳴りつけた。

 ただ今度は背後から突然ではなかったため、エルーカは暢気に首を傾げる。


「どうしたの? エルーカの魔力わけてあげたよ?」


「多すぎる! 貴様と違って僕は生粋の人間なんだぞ! これほどの魔力を受けられる体は持ってない!」


 どうやらネロイは相当に苦しい思いをしたらしい。まだ心臓を押さえ、息を上げていた。


「よく聞けよ小娘。人間にとって魔力は生きるのに必要なものじゃない。過ぎれば毒にもなる。魔術師とはたまたまその不要な魔力の貯蔵器官を多めに持って生まれたので、魔術を使うようになった人間に過ぎない。それも妖精に比べたら扱える魔力は微々たるものだ。僕の言いたいことがわかるか?」


「わかんない」


「魔力を人に直接注ぐな。このランタンに入れろ」


「わかったー」


「これ以上はもういい」


 やっと息を整え、ネロイは立ち上がった。

 城壁の上で足をぷらぷらさせるエルーカは、もうネロイにあまり興味がなく、暗闇の湿原を眺めている。


 普段は教師でもある男は複雑そうな面持ちで、まるで彼の教え子に対するように少女の後頭部へ語りかけた。

 

「エルーカ。貴様にとってはほんの少しの力が、大勢の命を容易く奪える。自分が人間だとあくまでも言い張るのならば、己の異常さを自覚すべきだ。わからないことはわかるまで聞け。もっと多くのことを知れ。さもなくば貴様は一生、化け物と呼ばれ続けるだろう」


 するとエルーカは半身だけ振り返った。


「バケモノってなに?」


「人間ではない、人間の命を脅かす存在だ」


 エルーカは首を傾げた。

 そして杖を握り直し、その場に立つ。

 

「エルーカ、バケモノじゃないよ。ケルントラトは、エルーカにできるだけ助けてあげろって言った。エルーカはみんな助けてあげる」


 その時風が吹き、黒い泥が城壁の前に突如としてそそり立った。

 いつの間にか湿原の向こうから泥が波のように静かに、大量に押し寄せていた。気づいていたのはエルーカだけだ。


 エルーカは杖を下から上へ思いきりスイングし、城壁に打ち寄せる泥の波を衝撃で打ち返した。

 小気味よく弾ける音が響き、泥はぼとぼとと散る。


 騒ぎを聞いて、あくびをしていた音楽の国の兵士も慌てて角笛を吹き、砦中に戦闘開始の合図を告げた。


 エルーカは杖を横に構えて素早く城壁を走った。

 泥は広範囲に及び、城壁にいる兵士たちを上から押し潰そうとしている。彼らが潰される直前でエルーカはその間を走り抜け、泥を破裂させ散り散りにした。


 しかし、泥は裂いても砕いてもまた融合して再び城壁の上までそそり立つ。泥そのものが生き物のように蠢くのだ。


「凍らせろエルーカ!」


 戦いの最中に聞こえた指示はアスラクではなく、ネロイの声だった。

 魔術師は手本を見せるようにランタンを光らせ、目の前に迫る泥の一部を氷の塊に変えてみせた。


 それを横目に見つつ、エルーカは杖を振る。

 すると城壁にぶつかり高く跳ね上がった泥が、そのままの形で凍り付いた。そうして頭上で静止した形を改めて見れば、それは巨大な手のようであった。


 エルーカは湿原の奥へ目を凝らす。

 この泥の手を操っている者が向こう側にいる。それを倒さねば襲撃はやまない。


「早く太鼓を鳴らせ!!」


 兵らに指示したのは砦の隊長であろう。

 しかし、氷の向こうから再び押し寄せた泥が松明を倒し、辺りは瞬時に真の暗闇に包まれた。


 黒い泥と闇を見分ける術は人にはない。

 光を失った恐怖に訓練を受けた兵士でさえも混乱に陥り、あちこちで悲鳴や怒号が上がり誰の声も意味のある言葉として響かない。指揮系統は完全に瓦解した。


(まずい)


 と思ったのは無論アスラクのみではない。

 しかし、どうにもできなかった。闇の中で人はいつも以上に無力になる。

 

 アスラク自身は、彼だけの魔法を使い、いつでも影に潜って逃げることができる。一人ならば真っ先に逃げていたが、今のアスラクは絶対にエルーカと離れるわけにいかなかった。少女の安否の問題が逃げ足を止めてしまう。


「エルーカ!! エルーカっっ!!」


 喉が破れそうなほど必死に叫ぶ声も周囲にかき消される。

 だが彼の呼び声に応えたかのように、その時、夜空に眩い光が現れた。


 誰もが白い光に目をすがめ、泥すらも光に慄いて引き下がる。

 まるで小さな太陽のごとき光の下で、杖を高々と掲げているのは他でもない、黒いおさげのエルーカである。


「音を鳴らして」


 一瞬で静まった場に少女の明るい声がよく通る。

 さらに、カンカンと杖の先で足元の石壁を叩く。はじめに砦に来た時に楽隊が叩いていたリズムをなぞって、ステップを踏み、軽やかに舞い始めた。


「みんなも鳴らして! ほら!」


 兵士たちは転げるようにバチを取り、魔除けのリズムを叩き出した。


 音楽の神の魔法を付与された音は、襲来する泥をひるませる。それだけで消滅させることはできないが、人間たちが少しの間でも自身を守ることができるのであれば、エルーカに元凶を叩きに行く余裕が生まれる。


 エルーカは城壁から勢いよく跳び、幾重にもなる泥の防壁を突き破って、隠されていた神の本体の前へ躍り出た。


 それは湿原の泥の上に立っていた。

 エルーカは上空から、その生まれたばかりの神を見下ろした。


 まるで小さな少女であった。


 エルーカよりもずっと幼く、小さく、細く、顔の半分が泥のように溶けている、神らしからぬ弱々しい姿。

 しかし砦を襲う泥は確かに彼女の両腕に繋がっていた。


 エルーカは振りかぶった杖を打ち下ろせずに着地した。

 哀れな少女のような神は、赤い瞳に驚愕と狼狽、怒りと怯えを滲ませている。

 

「ねえ」


 エルーカが一歩近づくと、湿原の神は大げさに震え、次には恐ろしい顔で睨み、突然体にまとわりつく泥を水風船のように大きく膨らませた。


 ぱあん、と弾けた泥が目前を覆う。

 エルーカには泥の一粒も当たらなかったが、視界が塞がれている間に、神の姿はどこにもなくなっていた。


 同時に砦を襲っていた泥も消えている。

 どうやら今夜も引き下がったらしい。


 それは良いのだが、エルーカは神のいた場所に残った魔力の痕跡をすんすん嗅いで、大いに首を捻った。

 神の魔力の匂いはおそらくこの土地のもの。だがそれに包まれてもう一つ、よく知っている匂いを感じたのだ。


(なんか、プエラリスみたいな)


 地下深くに棲みつく妖精の母。無論、湿原の神が彼女だったというわけではない。

 かすかな匂いであったので、あるいは気のせいかもしれなかったが、エルーカはどうにも胸騒ぎがした。


 いつもはほとんどの出来事が通り過ぎるとばらばらの記憶の破片となって何も心に残らないのに。

 その時は少女の凍った炎のような瞳が、なぜか忘れられなくなった。

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