20.魔術師
翌朝も湿原はよく晴れた。
ぐっすり眠れたエルーカは地面を鹿のように跳ねる。相変わらずここがどこで、一体どこに向かっているのかは、本人もアスラクもよくわかっていないが、だからこそエルーカの勘という名の魔法に頼るしかない。
エルーカは水たまりをスキップで飛び越え、着地したところでくるりと回る。杖でリズム良く地面をつつき、踊りながら歩いていくと、足元から呻き声が聞こえてきた。
「ん?」
立ち止まって耳を澄ます。この辺りは草丈がエルーカの腰ほどもあり、例えば獣などが伏せていれば、その姿を見つけるのは容易ではないだろう。
しかし、聞こえる呻き声はどうも獣の類ではないように思える。
「エルーカ、この声の主を見つけられるか?」
「んー」
エルーカは前方の地面を覆う草を杖の先で退けた。
すると、そこにぽっかりと落とし穴が口を開けていた。故意に仕掛けられたものではなく、地下水の影響で自然に崩れてできた地面の穴が、伸びた草に隠されていたのだ。
「だれかいるー?」
杖に魔法の光を灯し、覗き込むと湿った穴の底に男が一人落ちていた。
見上げてくる顔立ちはまだ若そうだ。とはいえ、エルーカやアスラクよりは年上であろう。魔法の明かりに眩しそうにしつつ、上へ手を伸ばす。
「助けてくれ。足を挫いて動けん」
穴はちょうど壺のような形になっており、壁面がぬかるんでいたため、よじ登ることもできない。男は底に座り込んで現れるかもわからない助けをずっと待っていたらしい。やや憔悴しているものの、まだ元気はありそうだった。
「? エルーカはどうすればいいの?」
「どうするもこうするもない。なんでもいいから今すぐ僕を引っ張り上げてくれ」
「わかった」
エルーカが勢いよく杖を引くと、まるで釣られた魚のように男の体が穴から飛び出した。
「うぉわ!?」
男は宙で一回転したが、幸いと地面に叩きつけられることはなく、ふわふわ宙を漂い、静かに降ろされた。
「あー、誰かもわかんないうちに助けちゃった」
どちらかといえば慎重派のアスラクはぼやいたが、エルーカの助けた男は武器らしい武器も持っておらず、細身で、見た目からは特に警戒すべき部分は見当たらない。足の怪我も嘘ではないようで、右足首を布で固定する応急処置がしてあった。
泥がへばりついている髪は砂色。そしてまた以前にもあったように、両目を大きく見開きエルーカを凝視している。
「・・・今、何をした?」
まるで意味がわからないといった様子だ。
一方で男はどこか興奮している。
「風の魔術を使ったのではないよな? どうやって人体を浮かせた? どんな構成で術を組んだ?」
足を怪我していなければ、男はエルーカに額が付くほど詰め寄っていただろう。そのくらい鬼気迫った顔をしている。
「? なに言ってるの?」
「なあお兄さん、とりあえずお互い自己紹介から始めないか?」
会話が混乱する前に、すかさずアスラクが間に入った。
まずは自分たちから名乗り、旅の途中で道に迷ってしまったことを話すと、男も少しは冷静になって己のことを話した。
「僕の名はネロイ。普段はコルヌ島の魔術学校で教鞭を執っている者だ。今は休暇中で魔術研究のための旅をしている」
男、ネロイは自己紹介とともに、腰のベルトに提げていた金属のエンブレムも二人に示した。その形は複雑に分岐した枝、あるいは牡鹿の角のようであった。
このエンブレムは彼の魔術師としての身分を表している。
「お~、これは上級魔術師の紋。エルーカ見てみ? この人は南の海にある魔術師がたくさん住んでいる島から来た人らしい」
「マジュツシってなに?」
「魔術を使う人だよ。魔術ってのはエルーカの魔法と似たようなもんだ」
「魔術は魔法ではないがちょっと待て。娘、貴様まさか魔法を使うのか?」
目をぎょろりとさせてネロイはエルーカを再び睨みつける。
「うん、エルーカは魔法使うよ」
「やはりさっきのは魔術ではなかったわけだな! 貴様は妖精か!」
ネロイが突然大きな声を出すので、エルーカは少し驚き、杖をぎゅっと握り締めた。
「ううん。エルーカは人間」
「なぜ嘘をつく? 人間に魔法は使えない」
「エルーカ使えるもん」
「だから貴様は妖精なのだろう?」
「エルーカは妖精じゃない」
「あー、ちょっといいですか?」
正面から衝突し合うだけの会話はアスラクが止めた。
「ネロイ先生、まずはここがどこなのか教えてくれない? ついでに人がいるところまで案内もお願いしたいな。そうしたら俺たちも先生の疑問に全部答えてあげるよ」
「ここはムジカ国のダタル湿原だ」
アスラクの言葉尻にかぶせる勢いでネロイは即答した。その時も視線はエルーカからそらさない。
「ここから南西に砦がある。僕はそこの兵士たちに協力してこの湿原の調査を行っている。僕を連れて行けば貴様らも中に入れるだろう」
「了解。ひとまずはそこに向かいますか。エルーカ、この人を魔法で運べるか?」
「うん、できるよ」
エルーカは杖の飾りが付いているほうの先を使って、下からネロイの体を掬い取った。そうして、ぽんぽんと軽く男を杖先で跳ね上げながら、アスラクが手持ちのコンパスをもとに示した南西の方角へ歩き出す。
「うおおおなんだこれは!?」
ボールのように杖先でバウンドさせられつつも、ネロイは大興奮している。エルーカは男の声が少しうるさいと感じた。
「おい、約束だ娘! 貴様の正体を教えろ! 妖精でないならどうして魔法を使うのだ!?」
「はいはい。えーっと」
本人のかわりに、アスラクがエルーカの事情を説明した。地下世界で妖精に育てられたこと、魔法は妖精に教わったこと、各地の神を訪ねて生まれ故郷を探していることまで話す頃には、ネロイは空中であぐらをかき腕を組み、深く深く眉間に皴を寄せていた。
「・・・いや、いやいや、納得いかん。たとえ妖精に魔法を教わったとしても、人間が妖精のように魔法を使えるはずがない」
「え~、先生ったら頭堅いなあ」
アスラクはいつもの調子で茶化すが、ネロイの真剣な表情は崩れない。
「貴様らは魔法と魔術の違いを知っているか?」
エルーカは首を傾げた。
「魔法と魔術は、ちがうもの?」
「そうだ。まず、魔術とは人間でも魔力を扱えるように開発されたもの。その原型は【知恵の神】から授けられたと言われており、今日まであらゆる魔術が生み出され続けている。魔術とは、魔力を使って自然を操る力であり、素人には妖精の使う魔法と見分けがつきにくいため、よく混同されるがその原理原則は根本から違う。例えば、火だ」
突然始まった講釈にエルーカもアスラクもぽかんとしているなか、ネロイは自身の指先に小さな炎を出現させてみせた。
「この魔術の火は通常の火と同様、熱を発し物を燃やす。発火と燃焼に魔力を使っているだけであくまでも火は火である。火打石でおこした火と性質は何も変わらない。魔術は火を出現させることができても、これが何を燃やし、どのように燃え広がっていくかを制御することはできない。ところが、魔法は違う」
「へー、どう違うんすか?」
「すべてが違う。娘、エルーカ。あの辺りを火で凍らせてみせろ」
「え?」
アスラクが怪訝そうに眉をひそめる。
エルーカは両目を一度瞬いた後、
「うん、いいよ」
右手を軽く横に薙ぐと、青い炎が現れ、なびく草を凍らせ湿原の一角に氷柱の壁を生えさせた。
青い炎はネロイが「もういい」と止めるまで、めらめらと燃えながら草を凍らせていった。
「わかったか? 魔術が世界の定められた法則の一部を操るだけで、そこから逸脱できないものであるのに対して、魔法は法則そのものを使い手の意のままに変えることができてしまう。ゆえにこそ、魔法を操る妖精は神になれる。人間と妖精とでは扱える魔力の量も、存在する法則も次元も異なるのだ」
ネロイはまっすぐ、エルーカを見つめる。
「魔法を使う者は人間ではありえない。つまり貴様は妖精だ」
断言されてもエルーカは困ってしまう。ずっと妖精の父にお前は人間だとことあるごとに言われ続けてきたのだ。そもそも人間でなければエルーカは地上に出てきた意味がない。
「エルーカは、エルーカは、人間だよ?」
困惑が大きく、声が少しばかり不安げに揺れてしまった。
だが、あくまでもエルーカはケルントラトの言葉を信じる。
「——例外的に、過去に知恵の神によって肉体に魔法陣を刻み込まれた一族の者が、その刻まれた魔法陣に由来する魔法を使えるという噂はある。だがこれだけ自由に魔法を操る貴様はそれとは違うだろう。僕の立場からは貴様を人間と判断できる根拠が見えない。とはいえ、妖精が貴様を人間だと言うのは興味深い。貴様が失っている記憶の中に魔法と妖精に関わる重大な秘密があるのやもしれん。ああまったく、ようやく運が向いてきたのか? 今回の研究旅行はかつてない大当たりだっ」
「そういえば、先生はこの湿原でなんの調査をしてるんです?」
アスラクがネロイの講釈あるいは独り言を遮っても、そのことにネロイは特に不満げな様子もなく、けろりと答えた。
「実はこの湿原に新たな神が現れたと聞いてな。その調査中に魔物に襲われ、僕以外が全滅したところだ」