19.出航
ぐわん、と一度大きく揺れて、マストを二つ立てた商船は、北の港から出発した。
エルーカは舳先に器用に立ち海原を見回す。
「きらきらだー!」
春先のこの頃には珍しく雲が晴れ、空の青を映した海を大船が白波を立て進んでゆく。
少し風はあるが、おおむね海上は穏やかだ。
冒険を終え、一度ロヴェーレ商会の本拠地に戻るというダンテの好意で、エルーカはアスラクとともに帰りの船に乗せてもらった。
海も船も見慣れないエルーカは、浮かれてマストの先端まで駆け上ったり、船尾から船首まで船べりを走り、見ている者たちの肝を冷やしていた。
「エルーカ、落ちるなよ?」
「うん!」
声をかけたアスラクを振り返りもせず、エルーカは海のずっと向こうで煌めくものを見つめていた。
そこに何があり、その先で何が待っているのか、エルーカは想像もできずわくわくしている。
アスラクは船べりに座って足をぶらつかせている少女が危うく思え、彼女の外套を念のため掴んでおくことにした。ただでさえ体重のないエルーカは、海風で簡単に飛ばされてしまいそうだ。
その頃に、船倉から甲板へダンテが顔を出した。今回の航海で得た、北の希少な動物の毛皮やらの商品を確認してきたようだ。忙しなく生きる商人は、常に複数の実利に繋がる目的とともに航海をしている。
「よ。船酔いはしてないか?」
まだ顔に包帯は巻かれたままであるが、ダンテはすっかり元の調子だ。
アスラクも相変わらず、へらりと軽薄な態度を取る。
「俺もエルーカもこのとおり、大船の乗り心地を堪能させてもらってますよ」
「そりゃ、なにより。ところで、お前たちは結局どこまで乗っていくんだ? 次の停泊港はワイヤだが、【戦神】には会っていくのか?」
「いやいや! さすがにそれは!」
アスラクは両手を大げさに振った。
「戦神に会おうと思ったらベルム王国の宮殿に行かにゃならんじゃないですか。無理ですよ。こんな流れ者が考えなしに行ったって、入れてもらえませんって」
「お前は知らんが、エルーカなら可能性あるぞ。あの国は神の影響で、年中戦争を起こしたがって軍備強化をしてるんだ。実力のある魔法使いは歓迎される」
「いやあ、この子は士官先を探してるわけじゃないんで。あの凶暴な神様を怒らせて殺されちゃ元も子もないでしょ? もっと平和に会えそうな神から回っていくことにしますよ」
「ふうん。じゃあ、うちの国の神あたりがいいんじゃないか? 慈悲と慈愛の【海の神】だぞ」
「普段どこにいるんです?」
「近海のどっか。たまに王宮に上がってくるらしい」
「難易度高~」
「神というものは大抵、王族の前にしか姿を見せないものらしいからな。幸運は祈っといてやるよ」
神に選ばれる、あるいは神と交流があるからこそ、王は人の間で権威を保てる。
それがこの世の常識であった。
しかし、そんな話はもちろんエルーカには関係がない上に興味もない。
「ねえねえアスラク、エルーカ海の中に行きたい!」
もう我慢はしていられなかった。
妖精の国の地底湖しか知らないエルーカにとって、見渡す限りに広がる海原は、駆け回らずにいられないほど魅力的だ。
「海の中って、エルーカ泳げるのか?」
「うん泳げるよ! 溺れずの魔法もあるよ! アスラクも行こ!」
「待った」
船べりから飛び降りるエルーカを、アスラクは外套を引っ張り持ち上げた。やはり掴んでおいて正解であった。
「えっとな、エルーカ。海には湖や沼とは違って、流れがあってな? うっかりすると、すごい勢いで遠くに流されて、船を見失うかもしれない。あと俺は普通に溺れる」
「? アスラク泳げないの?」
「たぶんエルーカほどは泳げないかな。だから」
「じゃあエルーカの魔法わけてあげる!」
「え?」
エルーカはアスラクの前髪を上げて、額にキスをした。
そうして驚いているアスラクの手を取って、魔法で体を浮かせた彼とそのまま海へ飛び込んだ。
ダンテも誰も止める暇もなかった。
飛沫を上げて、エルーカたちは大船から落ちたアスラクの重さの分、海に沈む。
突然飛び込んできたエルーカたちに面食らって、銀色の魚影が入り乱れながら逃げ散った。
地底湖には生物の姿などなかったが、日差しの蒼く透ける海中には、多くの見たことのない生き物たちがいて、エルーカはすぐに目を奪われる。
「あっち! あっち行こアスラク!」
相棒の手を引っ張って、エルーカは魔法で水流を操り魚を追う。
すると、背後から水伝いに「エルーカ!」とアスラクの切羽詰まった声が届いた。
アスラクは慌てている様子で上を指す。見上げれば陽がきらきらと照っていて、エルーカは気分が良くなった。水中だと太陽もさほど眩しくない。
「溺れる!」
自力で海流から抜けられないアスラクは必死に訴えた。
「え? 溺れないよ? エルーカはアスラクに溺れずの魔法わけてあげたよ?」
そう言ってやるとアスラクは怪訝な顔をした。はじめは意味がわからなかったが、間もなくして一向に苦しくならないことに気がついた。
たとえ息を吐き出しても、まるで海の外から伸びる管が喉に繋がっているかのように、自動的に新たな空気が肺を満たす感覚がある。
ただし補給される空気は十分でなく、浅い呼吸をしている時に近かった。少しばかり息苦しいが、耐えがたいほどではない。
エルーカはもう少しアスラクの声を聞き取りやすくなるように、魔法で少しばかり海水に変化を与えた。
「魔法をわけるって、どういうことだ?」
「? 魔法をわけるってことだよ? エルーカの溺れずの魔法をアスラクに半分わけてあげたんだよ」
「・・・俺に魔法をかけたんじゃなく、エルーカにかかってる魔法を俺に少し移したってこと?」
「うん。半分こにしたら、ちょっとだけいつもより苦しいけど、でもアスラクと一緒に海の中見たいから、エルーカ我慢することにした」
「わけた魔法はずっとこのまま? 俺の中に残る?」
「ううん。少しするとエルーカに戻ってくる。あ、だからアスラクはずっとは海の中いられないんだ。忘れてたー」
「思い出してくれてよかったよ」
「苦しくなったら教えてね。またエルーカが魔法わけてあげるね」
無邪気な笑顔にアスラクもまた笑み返した。
潮に流され、もはや船影はどこにも見当たらず、少女と繋いだ手だけが彼の命綱となっている。
状況を正しく把握し、アスラクはエルーカの手をしっかりと掴み直した。
エルーカは再び前を向き、ぐん、と海中を進む。
深く潜ってゆけば、銀色の船のような巨大な魚が傍を悠々と行き過ぎた。少しばかりエルーカがヒレに取りついても意にも解さない。
それに手を振って別れた後には、巨大な海藻の森が見えてきた。
海の奥底から海面に向かって伸びており、地上の木々よりも長い。それらがあたかも海域を隔てるバリケードのごとく連なっていた。
海の上から見れば道にも思える。
エルーカが海面で揺れる藻の先端に立つと、遠くかすかに大陸の影が見えた。
「アスラク、あっち行こ!」
「エルーカの行きたいところなら喜んで」
海藻の道を走る少女に身をまかせ、アスラクは海面に浮いたまま引っ張られていく。彼としては早くどこかの陸地に着いてくれさえすれば良い。
太陽が煌めく光の道だった。
ぱしゃぱしゃとエルーカの靴が跳ね上げる飛沫まで眩しく、ぼうっと引きずられているアスラクの目にいちいちそれらが入る。
陸に近づくにつれ、雲が多くなっていく。
それに応じて光の道も消えた。海藻の森もその辺りで途切れたので、エルーカは今度は海面を杖で突き、空へ飛び上がった。
重りはアスラク一人だけのため、一足で雲に触れそうなほど高く舞い上がる。
「ふはっ!」
手を伸ばしても雲は掴めなかった。しかしこれだけ高く飛び上がっても頭が何にもぶつからないのは、やはり楽しい。
通りすがりの風に乗り、そのままエルーカは新しい大地に降り立った。
そこは緑の中にいくつもの小さな沼の点在する湿原であった。
薄曇りの空からぽつりぽつりと雨が降る。
草に覆われていても地面はぬかるんでおり、踏み出すたびにわずかに足が沈んだ。
「アスラク、神はどこにいるかな?」
「さぁてねえ。とりあえず、休める場所をまず探そうか」
アスラクにも辿り着いたここがどこなのかよくわからない。またエルーカはすでに海水で濡れた体が乾いてしまっているが、アスラクはそうもいかず、ずぶ濡れのままだ。装備品の状態など諸々を確認するため、一度落ちつきたいところであった。
「この空模様じゃ雨もやみそうにないし、エルーカもまた濡れるのは嫌だろ? 雨よけになりそうな木陰とか、そんなところを探そう」
そう言われて、エルーカは空を見上げた。
「あめ? 雨は、空から水が降ってくること。これがそう?」
「そうだよ。雨に濡れて、体が冷えたら病気になるかもしれない。だから早く移動しよう」
「んー」
返事をしたものの、エルーカは動かない。大きな両目を開けて、次々と落ちてくる雫に見入っている。
アスラクはエルーカをもう一度急かそうとして、おかしなことに気づいた。
こうしている間も徐々に雨脚は強くなっているというのに、エルーカの顔にも服にも雫がまったく付いていないのだ。
まるで雨の一粒一粒がエルーカを避けている。
「・・・エルーカは、雨に当たらない魔法を持ってるのか?」
「ううん、それは持ってない。エルーカは落ちてくるものに当たらない魔法を持ってる」
「なるほどねえ」
エルーカはようやく空を見上げるをやめた。隣のアスラクの外套は海水を吸ってずっしりと重く、さらに雨にも当たるので、髪が頬にへばりついており、体が冷えたのか唇の色に血の気がなかった。
「アスラク濡れてるね」
「まあね。便利な魔法をいっぱい持ってるエルーカがうらやましいよ」
「アスラクは濡れるのイヤなの?」
「気持ち良くはないかな。早く服を乾かせる、雨が当たらない場所に行きたいね」
「雨に当たるのイヤなの? じゃあエルーカの魔法をアスラクにあげる。こっち向いて」
エルーカはアスラクの顔を両手で引き寄せ、背伸びをして頬にキスをした。
一瞬でアスラクの服は乾き、雨は彼を避けて地面に落ちるようになった。そうして、かわりにエルーカの頭や服に冷たい雫が染みて伝うようになる。
エルーカはアスラクを放し、嬉しそうに駆けだした。
「あははっ!」
アスラクのほうは、やや面食らっている。
「エルーカ、ありがたいけど、濡れたら風邪ひくぞ」
「だいじょぶ! エルーカは風邪ひかないの魔法ある!」
笑いながらエルーカは走り回ることをやめなかった。
「エルーカは濡れるのイヤじゃないよ! 楽しい!」
むしろ雨に当たってみたかったのだ。無数の小さな雫が体を打つのは心地よい。
妖精たちの魔法はエルーカの身を案じてくれたものであるが、地上を楽しむには時に邪魔になることもある。
本心から楽しんでいる顔を見せられ、アスラクはそれ以上何も言えなかった。
服が乾き、雨に当たらなくなったことで、体の震えも止まった。不思議であり不気味でもあったが、常に暖かな空気が周囲を包んでいる感覚は心地よいものであり、アスラクは少しばかり戸惑った。
雨は夜になる頃には止み、雲もいつの間にやら消えて昼間の天気が嘘のように星空が広がった。
結局、雨宿りできそうな場所は見つからず、水辺から離れたやや小高い場所にアスラクは野営の準備をした。
といっても、ほとんど荷物も持たずに船から落ちたため、食事はアスラクが携帯食としていくらか持っていた干し肉を齧る程度で、寝床もエルーカが魔法で乾かした地面に二人で寝転がるだけだ。
丘の上は星空の特等席だった。眼前に星の天蓋が広がり、どこまでも尽きない。月がなくとも空が明るく、エルーカはなかなか眠る気になれなかった。
「あ! なんか、ひゅって動いた! 今のなに!?」
「星が落ちたんだよ」
「落ちた? どうして? 誰かが空を叩いたの?」
「んー、叩いて落ちる木の実みたいなイメージでいる? まあ俺も理屈は知らないけどさ、星はずっと空に張り付いてるわけじゃなくて、時々落ちることがあるんだって」
「アスラクは落ちた星を見つけたことある?」
「俺が見つけたわけじゃないけど、見たことはあるよ。ただの黒い石だった。今エルーカが見てるみたいにきらきらしてはなかったな」
「そーなの? なんでかな? エルーカも落ちた星、見てみたいなー」
そういうと、エルーカは起き上がって杖を振りかぶり、夜空に思いきり衝撃波を放った。
強風が巻き起こるほど強い衝撃であったが、空はまったく静かなままで、アスラクも寝転がったままでいた。
「・・・なんか、あんまり、がんばっても届かない気がする」
エルーカはあっさり諦め、再び仰向けになる。
すると隣のアスラクが笑った。
「――エルーカは自由でいいな」
「え?」
「海に潜って、海面を走って、空を飛んで、どこにでも好きなように行ける。怖いものなんか何もないだろ? それはものすごく、うらやましいよ」
雨が止んだ時にはエルーカはもうすでに服が乾いていた。海を渡り、空を飛び、寒さにも飢えにも怯える必要がない人生とはどれほど幸福なものだろう。
口にした言葉に他意はなく、純粋にアスラクはそう思ったのだ。
エルーカは星空からアスラクに視線を移した。
「エルーカはどこにでも行ける?」
「うん」
「じゃあアスラクも、エルーカと一緒ならどこにでも行けるね」
エルーカは起き上がってアスラクに馬乗りになった。
そして驚く青年にとびきりの笑顔を向ける。
「怖いものは全部エルーカがやっつけてあげる。だから、エルーカといっぱい色んなところに行こうね。絶対にすっごく楽しいよ」
エルーカは確信している。
なぜなら地上に出てきてからのことは、すべて輝かしい記憶ばかりで、多少の嫌なことはもうほとんど忘れていた。
「・・・ああ、心から頼むよ」
そう返して、アスラクはエルーカを自分の上から降ろし、今度こそ寝かしつけた。




