2.人間のエルーカ
ケルントラトからエルーカに話があったのは誕生日の翌朝のこと。
父妖精は昨日も卵の世話をしており、プエラリスが催した宴には少ししか参加していない。
春夏秋冬の妖精たちは普段過ごしている地上へ戻り、エルーカはいつもより遅く起き出してきた。
それをケルントラトは傍に呼び、座らせて腰まで届く長い黒髪を三つ編みにしてやる。その合間に「何度も言ってきたことだが」と切り出した。
「エルーカ。お前は妖精ではなく、人間だ」
エルーカは最初はきょとんとし、それから、ああ、という顔をした。
「うん。知ってる」
「五年前にお前は一人でここにやってきた。その時からここにくる前のことをまったく覚えていなかった。今も思い出せないか?」
「うーん」
エルーカは腕組みなどして頭の中に記憶を探ってみたが、そもそもケルントラトのいう五年前のことすら覚えていない。記憶は水晶樹のうろの中でふわふわの布団の感触に頬ずりしているところから始まっている。
だがケルントラトが嘘をついているとは思わない。この父妖精は常に正しいとエルーカは信じきっている。
「なんにもわかんない」
予想通りの娘の答えに父妖精は頷いた。
だからこそ彼は提案する。
「エルーカ。地上へ自分を探しに行ってみないか?」
「え?」
エルーカは振り返ろうとしたが、おさげを編んでもらっている途中なのですぐに前を向かされた。
「お前は十五歳になった。一人で旅するだけの知恵も力もついた。地上の人間たちの国を旅してみないか」
「・・・どうして?」
「地上にいた頃のお前を知っている人間を探すためだ。お前は自分がどこで生まれたのかを知ったほうがいい。そして、そこからどうして一人でここにくることになったのかを調べるんだ。私も知りたい」
「ケルントラトにもわからないの?」
「わからない。お前は自分の本当の家族に会ってみたくないか?」
「ほんとーのかぞく・・・」
どうだろうとエルーカは考える。
考えることはあまり得意なほうではなかったが、苦手でも頭は使わなくてはならないとケルントラトによく言い聞かせられていた。
話し方、食べ方、文字、暦、その他あらゆる生活習慣をエルーカはケルントラトに教わった。どれも人間には必要なことだと言われ、五年かけて少しずつ覚え込まされてきたのだ。
だから自分が妖精ばかりのこの地下世界唯一の人間であるということは、すでに受け入れている。
しかしケルントラトの教え以外、エルーカの記憶はほとんどからっぽだ。地上のことを何一つ覚えていないため、そこに郷愁を感じることはない。
本当の家族に会いたいかと訊かれても、どうだろうかと悩む。
父がケルントラトで、母がプエラリスで、兄姉が春夏秋冬の妖精たちで、弟妹は卵の中。それで十分なのではないかとも思う。
――と、そこまで考え、エルーカは地下世界にもうひとりいる家族以外の存在を思い出した。
「リグナムに誕生日のこと教えてなかったっ」
言うや否やエルーカは立ち上がった。ちょうどおさげの三つ編みが完成した頃だ。
まだ話が途中であるとか、そんなことは関係なく思いついたら走り出してしまう。それに慣れている父妖精は特に止めもしなかった。
地下世界の中は大地の起伏が大きい。エルーカが底の底のさらに底へ、落ちるように駆けてゆくと、その辺りは黒い水晶樹が多く、光がとても弱い。
かろうじて影が見える地下の狭い空間にエルーカの友達がいた。
「リグナムっ、エルーカは誕生日だったんだよ、きのう! 十五歳になった!」
エルーカの高い声が幾重にも反響する。
すると地に伏せていた影がのそりと起きた。
それは人の形をした枯れ木のような妖精だった。目鼻はなく口だけがあり、枯れ草が髪の代わりに生えている。
低い天井に背中を擦りながらエルーカを見下ろした。
リグナムという妖精に足はないが、枯れた色の根が伸びて自由に移動できる。
異様に指の長い両手を広げ、元気よくやってきた友を迎え入れた。
「・・・知らせにこなくても知っていたよ。昨日の騒ぎはここまで聞こえてきた。おめでとう、エルーカ」
喉まで枯れており、声は老人のようだった。
この妖精はプエラリスが生んだ子ではない。この地下世界に唯一存在する、エルーカの家族ではない、よその妖精であった。
「今年も魔法をもらった?」
相手の姿は何もかも不気味であったが、エルーカは少しも恐れずリグナムの指先を握る。
「うん。でも、花を咲かせる魔法はもらえなかった」
「また頼んだのか。無理なことはわかっていただろう」
「忘れてたの。リグナムの花を咲かせたかった」
エルーカは足元に視線を落とす。
地下世界はどこも石と岩ばかりであるが、この場所だけは細かく岩が砕かれ、砂が積もっている。
ここには昔、リグナムが大事にしていた花園があったという。エルーカの知らないずっと昔、陽の届かないこの地下にたくさんの花が咲いていたらしい。
それがある日になくなってしまい、リグナムはもう一度花園を再生しようと長い間、ひとりで試行錯誤を続けているのである。
「今日も種まく?」
「・・・まく。何度でも。たとえ無駄に終わるとしても」
エルーカが両手を椀の形にすると、そこへ一握りの花の種をリグナムが置いた。
種には光がなくとも育つように魔力が込められている。
だが、足りない。
リグナムの魔力は少なく、こうして何度まいても芽が出ずに終わるか、花が咲く前に腐って死んでしまう。
もう少し明るい上の階層で試そうと思っても、それはプエラリスが許さないのだ。美しい女王はこの醜い妖精をひどく嫌悪していた。
そもそもこうしてエルーカがリグナムと会っていることもあまり良く思っていない。
だがエルーカは地下世界の花園を見たいためリグナムに協力している。
初めて出会ってから一緒に何度も種をまき、水をやり、うまくいかずがっかりしてきた。それでもエルーカは色々なことをすぐに忘れてしまい、また懲りずにここへやってくる。
「今度は芽が出るといいな。エルーカも花を見てみたい」
辺りに種をばらまいた後、教わったとおり種に足で軽く砂をかけながらエルーカは独りごとのように言った。
「何色の花かなー」
「この種は白い花が咲く。長く伸びた茎の先に細かい花がいくつもできる。草原の合間にぽつぽつ生え、風に揺れている姿が美しかった」
リグナムは懐かしむようである。
顔の本来目のある辺りを指でなぞっていた。
「ソーゲン?」
「草がたくさん生えている場所。地上にある」
「リグナム地上にいったことあるの?」
「私は地上の生まれだよ」
エルーカは大仰に驚いた。
「リグナムも地上で生まれたの? エルーカもそうだってケルントラトが言う」
「それはそうだ。お前は突然ここに現れたのだから」
「ケルントラトはエルーカに地上に行って、自分を探したほうがいいって言う。そうなのかな。リグナムもそう思う?」
すると枯れ木の妖精は少し考えた。
「・・・行ってみたらいい。地上には、お前の見たがっている花がたくさん咲いている。今、上は春だ」
そう言われるとエルーカは少し心が動いた。
故郷や家族を知るためなどと言われるよりも、地下世界にはない珍しい景色を見にゆこうというほうが素直に興味を惹かれる。
「ついでに自分探しもすればいい。ケルントラトは己が知りたいからお前にそれを勧めるのだ。あれは知らずにいることを我慢できない性分だ。エルーカはただ地上の旅を楽しめばいい。そしてもし、自分がどこからきたのかわかったのなら、ケルントラトに教えてやれば喜ぶ。つまりはそういう話だ」
「ケルントラトが喜ぶの?」
それもエルーカにとっては大事なことだ。親を喜ばせたいと思うのは子の本能に近い。
悩みはあっさり解決した。
「エルーカ地上に行く! 花を見てエルーカを探す!」
「それがいい。ああ待ってエルーカ。一つ頼まれておくれ」
再び思いつきとともにケルントラトのもとへ駆け出したエルーカを、リグナムが引き止めた。
「地上に行ったら、この種をまいてくれないか」
リグナムは自身の腹の辺りにあるうろの中から、蔓を編んで作られた小袋を取り出した。エルーカが袋の口を開けてみると、黒いピカピカした種がたくさん入っている。先ほどまいた種とはまた違う。
「なに? 花の種?」
「そう。ここにあっても仕方がない。エルーカが地上を旅する間、新しい土地に入るたびに一粒ずつまいておくれ。地面に種を落とすだけでいい。それだけで地上では育つ」
もう一度、とリグナムはエルーカの額に指を当て繰り返した。
「地上で、新しい土地に入るたびに、種を一粒、地面に落とす。――覚えたかい? エルーカ」
「地上で、新しい土地に入ったら、種を一粒落とす。地上で、新しい土地に入ったら、種を一粒落とす。地上で、新しい土地に入ったら、種を一粒落とす。うん覚えた」
エルーカは三回反復すれば、しばらく忘れずにいられる。
枯れ木の妖精は久方ぶりに笑みを見せた。
「さよなら、エルーカ」
「うん!」
エルーカは種の袋を半ズボンのポケットに突っ込み、ケルントラトのもとへ戻った。
「ケルントラト! エルーカは地上に行く!」
わずかな時間で決意してきた娘に、父妖精は特に何も聞かずただ「そうか」と頷いた。
そして一本の水晶樹の後ろから外套と長い杖を取り出し、エルーカに手渡した。
「これを持っていきなさい」
白い外套は肩に羽織るとエルーカの上半身をすっぽり覆ってくれる。杖はエルーカの身長よりも長く、先に蜘蛛の巣に似た形の大きな木の飾りが付いており、ケルントラトの角に絡んでいるのと同じ黄金の鎖が丁寧に蜘蛛の巣の隙間に巻き付けられていた。
「新しい杖!」
杖はエルーカが魔法をコントロールする時に必要なものである。素手でもできないことはないが、杖があると魔力の流れを掴みやすく、魔法を使いやすい。これまでも練習用の杖を使ってきたが、それはもうぼろぼろになっていた。
「外套は私の服から作ったものだ。どちらも旅に役立つだろう」
「ありがとう! じゃ、エルーカは行くよ。どこから地上に出られるの?」
「その前に話を聞きなさい」
ケルントラトは逸るエルーカをいったん水晶樹の切り株に座らせた。
「良いか、エルーカ。私はこの五年の間に、お前に人間の国で生きるために必要なことを教えてきた。だがお前はもうほとんど忘れてしまっているだろう。よって、いざという時に過去の助言を思い出せる魔法をかけておく」
「はーい」
ケルントラトがエルーカの頭の上で手を振ると、黄金の粉が降った。これで魔法がかかったということだ。
「そして今からはお前が自分を見つけるために必要なことを教える」
「うん」
エルーカは相手の目を見つめ、いつもの教えを受ける態勢を整えた。
それを待ってケルントラトは話し出す。
「地上には人間や妖精の他、各地に神と呼ばれる存在がいる。新しい土地に入ったら、まずは神に会いなさい」
「会ったらなにするの?」
「エルーカはその神のいる土地で生まれたのかを聞く。神は自分の土地で生まれた者を見分けることができる」
「神に聞いたらエルーカの生まれた場所がわかる?」
「そうだ。だが、神には簡単に会えないだろう。はじめはどこに向かえばいいのかもわからないはずだ。そういう時、お前の旅には人間の助けが必要になる。お前はこれから、行くべき道を教えてくれる人間に出会う。そういう者は見ればわかる」
「だれ? なんて人?」
「運命の導き手だ」
「ウンメー」
その言葉の響きはいつもよりすんなりエルーカの頭に沁み込んだ。
「えっと、運命に助けてもらって、神に会って、エルーカのことを聞けばいいんだね。わかった」
「生まれた場所がわかったら、その土地でお前のことを知っている人間を探しなさい。とても大変だろうが、焦らず、いくらでも時をかけていい。何よりもまずは地上の景色を楽しむことだ」
付いてきなさい、とケルントラトが歩き出した。
普段エルーカが遊びにいく地底湖などがあるほうとは反対側の、密に生えた水晶樹林の間を苦労しながら抜けて、隆起した大地を上ってゆくと、辺りが徐々に明るくなるかわりに、視界が霧に覆われ始めた。
エルーカは無意識に前のケルントラトの服を掴む。
地底の丘の頂上まで辿りつくと鹿角の妖精は足を止めた。
丘の向こうにも霧が立ち込め、何も見えない。
「お前はあちらのほうから歩いてきた」
ケルントラトは丘の下を指す。
「この霧を抜けた先が地上だ」
はじめは威勢の良かったエルーカだが、掴んだ父妖精の服を放せずにいる。何かを思い出したというわけではなく、単純に見えない先が不安なのだ。
「・・・ちょっぴり怖いかもしれない」
やはりやめようかという考えもよぎった。
ケルントラトはそんな娘を急かさずに、黙って覚悟が固まるのを待っていた。
「地上って怖い?」
やがてエルーカがぼそりと問うた。
「そう感じるところもあるだろう。その逆に、楽しいと思える場所もあるだろう」
「・・・人間は怖い? 優しい?」
「どちらでもある。色々な者が現れるだろう。おそらくお前の旅路には」
霧の向こうに視線を定めるケルントラトは、エルーカの見えないずっと先まで見通しているようだった。
「地上のほとんどの出来事と人々はお前に関係がない。だが、なりゆきで巻き込まれることもあるだろう。そういう時、もしお前の力で解決してやれることがあるのなら、できるだけ助けてやるといい。それを何度かしていくうちに、いつか地上にもお前の居場所が作られる」
ケルントラトは視線を傍の娘に戻した。
「私の目はどこにいてもお前の姿を映している。安心しなさい」
いつも見守っていると父妖精が励ます。
エルーカはしばらく霧の向こうを見つめ、それから、ケルントラトの服を離した。
「行ってみる」
右手の杖を挨拶がわりに掲げると、ケルントラトも片手を挙げた。
五年前に十歳の自分がのぼってきたらしい丘を下ってゆくと、最後にまた少し上り坂があり、その先に光が見えた。
エルーカは咄嗟に外套で顔を覆う。
地下では感じたことのない眩しさだ。
足元を見ながら少しずつ残りの坂を上ってゆくと、肌にまとわりつく地底の生暖かい空気が、清風に吹き消された。
外套をゆっくり下げる。
霧を抜け、山の洞窟から出てきたエルーカの目の前には、柔らかな緑が揺れる草原が広がっていた。




