15.竜退治
結局、ロヴェーレ商会の探検隊は、森の比較的浅いところを右に左に誘導されうろついていただけで、大して奥まで進んではいなかった。
案内人は後で荷物を回収する必要があったのだから、当然である。
ここから神のいる森の奥まで、まともに歩けば何日かかるかわからない。だが、エルーカがこの四人ばかりの探検隊のリーダーとなったからにはもう、我慢する理由がなかった。
「行こ」
エルーカは杖を放し、左手にマイニ、右手にアスラクの手を取った。
魔法の杖は倒れず独りエルーカの傍に立つ。
「なんだ?」
馬に乗ろうとしていたダンテも、つられて一番近くにあったマイニの手を掴み、娘に嫌な顔をされた。
タン、とエルーカは両足で地を蹴った。
途端に、綿のようにふわりと体が浮き上がる。
「うわ!?」
手を繋いでいる三人も、一拍遅れ馬の背丈ほどの高さまで浮き上がり、驚いている間にゆっくり落ちていく。
エルーカはもう一度地を蹴った。
今度は先程よりも倍は高く飛んだ。
「せぇーの!」
三度目に力いっぱい蹴ると、木よりも高く浮き上がり、そのまま風に乗って森の上を滑るように飛んでいく。
杖も自力でエルーカを追う。
妖精の父が授けてくれた賢い杖は、三人分の人の重さのせいで高度が下がってくると、さりげなく主人の足の下に滑り込み、己を蹴らせて高度を戻すなどの補佐をしてくれた。
地道に歩いていた数日間が馬鹿らしくなるほど、探検隊はあっという間に深い森の半ばまで進んでいく。
「はは! 神への冒涜もいいところだな!」
そんなダンテの感想も風に流れて誰にも聞こえない。
神の試練などそもそも存在しなかった。はじめから人の侵入を拒む神の頭上を飛んだとて、無礼など今更のことである。
「ん-、と」
エルーカは上空から森をきょろきょろ見回した。
当たり前だが木々ばかりで、神と思われる姿はどこにも見当たらない。しかしエルーカの魔法の目は隠れているものを見通す。
まだ夜明けの遠い、凍える空のもと、あらゆるものが黒く塗りつぶされている地上から、巨大な魔力の塊が、長い首をもたげる姿を捉えた。
―――ギャアアアアアアアア!
竜もまた、エルーカを見つけた。
神の御使いは、警告を無視して森にいる少女らに激怒しているようだ。
「エルーカ下に降りろ!」
アスラクが鋭く叫んだ。
言われたとおりにエルーカは素早く下降すると両手を開き、滑り込んできた杖を握った。
エルーカ一人なら、ひと蹴りで空の高くまで飛べる。
同時に黒耀竜も、鈍い風音が聞こえるほど広い翼を扇ぎ、大木の間から巨体を浮かび上がらせた。
「すっごい怒ってる。なんで?」
エルーカが何もわかっていなくとも竜はお構いなしだ。
腹の底に溜めた魔力を、青い炎に変えて吐く。
エルーカも大きく杖を振り抜いた。
「やっ!」
衝撃が、夜空をまっすぐ割いて届く炎の先端を砕き、飛び散らせた。
彗星のかけらのような青い火が木々の先に灯り、辺りは一気に明るくなる。
「きれー」
蝋燭の灯のようだ。
つい敵を忘れて見入ってしまったエルーカを、強風が更なる空の高みへ攫った。
「うわあ!」
黒耀竜が風を巻き込みながら傍を通り過ぎたそのあおりを受けて、重さのない体が空中をきりもみし、落ちてくる小さな体を竜が大口開けて待ち構える。
上下の鋭い牙が噛み合う寸前、間一髪でエルーカは身を翻した。長いおさげの先と、外套の端が牙をわずかにかすめ、エルーカはさらに高度を落として竜の影に入った。
冴え渡る星空をその双翼で覆う竜は、的として十分すぎるほどに大きい。
エルーカが放った魔法は、その膨れた腹の真ん中に直撃した。
しかし、黒耀竜は口から火の粉と唾液を吐き散らしたものの、これまでの魔物たちのようにあっさり消滅はしなかった。
再び双翼を扇いで体勢を立て直すと、青く光る瞳でエルーカを睨みつける。
「硬い」
やはり、はじめに感じた通り、この竜はとんでもなく大きな魔力を持っている。体を構築している魔力の密度が高いのだ。よって一撃では倒せない。
「よぉし、がんばるぞ」
エルーカは杖を握り直した。
竜が翼で空を漕ぐたび、周囲の風が乱れてエルーカも木の葉のように振り回されてしまう。そこでエルーカは気流に立ち、あたかも板の上で波に乗るように、夜空を滑り出した。
風と風がぶつかるところでは別の気流に乗り移り、絶対に姿勢を崩さない。標的から視線を外さない。そうすれば、竜の爪が襲ってくるタイミングも、魔法を叩き込む隙もわかった。
「ふはっ!」
竜の巻き起こす風はとても激しく、速く、不規則に乱れて油断するとあっという間に予期せぬところへ攫われてしまう。エルーカはどんどん楽しくなってきた。
せっかちな姉のベールに手を引かれ、水晶樹の乱立する地下世界を高速で飛び回ったことを思い出す。今はそこにさらなるスリルを足した、とても刺激的な遊びになった。
対する竜にとっては、的が小さすぎた。
虫のように夜空を縦横無尽に飛び続け、隙あらば危うい衝撃波を放ってくるのだから、たまったものではなく、標的を仕留められない苛立ちがどんどん腹の底に炎となって募ってゆき、やがては口から溢れるほどとなる。
―――ギャアアアアアアアア!
再び叫んだ竜は、無差別に炎を辺りにまき散らした。
それが竜を中心として渦となり、さらに広がっていく。エルーカの乗る気流もすぐ後ろから火が追いかけてきた。
「ほっ」
エルーカは宙返りし、気流から外れて落ちていく。
するとそれを狙っていたかのように、ぱんぱんに喉を膨らませた竜が、小さな侵略者に灼熱の息を吐きかけた。
避けられる規模ではなかった。
先に吐いていた炎までもかき集めて、それはもはや天から押し寄せる洪水のように地上を襲った。かつて人の築いた国を、丸ごと焼き払った御使いの炎だ。
それが今はエルーカただ一人を焼き尽くすためだけに降り注がれた。
熱に曝される者には永久の地獄である。
汝の存在そのものが罪なのだと、この地の神が審判を下し、命を苛み続けるのだ。
やがて竜は吐ききった。
神の森は焼けていない。御使いの炎は罪人のみを焼く。
だが一部消え残った炎の欠片が木々の先に灯ったままであり、そのため、宙に浮かんでいる白い影を、空からも地上からも見つけることができた。
「えーっと」
おさげの毛先さえ、ほんの少しも焦げていないエルーカは、自分の身に今起きたことの結果を考えて、これまでの竜の攻撃方法を思い起こし、「うん」と一つ頷いた。
「エルーカ勝っちゃうかも」
何もないはずの宙を杖で思いきり突いた。
一瞬で、少女は天空の竜より高く射出され、やっと中天に辿り着いた今宵の月を背に、杖を振りかぶる。
吹けば飛ぶ小さな小さなその影に、黒耀竜の鱗は残らずさざ波立った。
急速に膨れ上がる魔力は竜の総身を凌駕する。
体は竜の尻尾の先ほどしかないくせに、まるでその背後に無限に供給される巨大な魔力の貯蔵庫を負っているかのように、少女の魔力ははじめより明らかに増しており、今なおも増幅されていく。
そして膨大な魔力は杖の先に凝縮され、その影響で辺りの空間さえ黒く歪み出した。
「せぇーの!」
避けられるはずがない。防ぎきれるはずがない。
圧倒的な破壊の力が御使いを地に押し潰した。
それでも竜の体は一度は耐えた。
魔力を原料としている首の骨が折れ、翼がひしゃげ、手足が平たくなって、その痛ましい姿を修復できなくとも咆哮を上げた。
だからエルーカはもう一度、竜が立ち上がれないでいるうちに、先ほどと同じ量の魔力を込めて杖を振りかぶる。
やはりこの竜は硬いが、実際エルーカとそこまでの力の差はない。エルーカは火に燃えないし、たとえこれから百年でも竜の牙と爪をかわし続けることは造作もない。この竜は炎を吐くばかりで、他に特別な魔法は使えないようなのだ。
よって負けようがない。
あとは遊びの終わりにとどめを刺すだけ。これまで襲ってきた魔物たちにしたこととまったく同じように。
「やっ!」
躊躇なく魔法を放った。
これまで長く人々を畏怖させてきた、黒耀竜が砕け散る刹那。
「あれ?」
エルーカの魔法は竜の体に届く前に、何かにすっぱりと断ち切られたように消えてなくなった。
空振りしたエルーカはくるくる回りながら手近な木の上に着地する。
いつの間にか、竜の傍に強い魔力の気配が現れていた。
エルーカは地上に降りてみた。
竜が落ちた衝撃で辺りの木々はなぎ倒されており、折り重なっている幹の上に立つと、黒耀竜の傍に月光をまとう女の姿が見えた。
引きずるほどの長い髪や、肌や、体に巻き付けている布も、すべてが白く、淡く光り、まるで水底に咲いていた花のごとき美しさを持つ。
あどけない少女の輪郭をしているが、背は高く、大人びた表情がともすると冷酷な女王のようにも見える。
身を起こそうとする竜の鼻先に手を置き、女の姿をしたものは、氷の刃を思わせる青い瞳をエルーカに向けた。
「・・・あなたは、だれ?」
尋ねたそこへ、マイニたちが走ってやって来た。
隠れていたおかげで、彼女らは木とともに竜の炎にも焼かれずにいた。真っ先に月光のもとに飛び出したのはマイニで、ダンテはアスラクの肩を借り遅れてやってくる。
マイニはいつも細めている緑の瞳を見開き、うわごとのように呟く。
発光する肌。白き髪。凍てつく眼差し。
竜を従える、伝承にあるその姿は。
「神、さま・・・」
彼女らの求めてやまない存在が目の前にいた。