13.影の下から
「ほら。零すなよ」
名前も知らない誰かが、エルーカの椀にスープをよそってくれた。
野営の夕飯は、せめてもの恩返しだと言ってフラッグ商会の者たちが引き受け、今はロヴェーレ商会の面々に配膳をしている。
その頃にはエルーカも半分は起きており、隣のアスラクに寄りかかりながら、スープの湯気をぼうっと眺めていた。
「まだ眠いなら、後で食べてもいいんだぞ?」
「ぅん・・・」
食べるという言葉にだけ反応し、エルーカはのろのろとスプーンを持ち上げるが、途中でスープは零れ、湿ったスプーンを舐めるだけとなる。
周囲は、今日を乗り切れた安堵が少しあったのか、ダンテをはじめロヴェーレ商会の者もフラッグ商会の者も気さくに言葉を交わし、和やかな雰囲気だ。
今日一日の出来事を何も知らないエルーカも、そんな空気をなんとなく感じ、そのせいで眠気がまた増してくる。
それでもまたスープを飲もうとすると、周囲を見ていたアスラクがその手をいったん押さえた。
「なあ、エルーカ。ちょっと変なこと聞くけどさ、エルーカは毒を飲んでも平気な魔法を持ってたりする?」
「・・・ぅ?」
「もしそうなら飲んでもいい」
「・・・ん」
アスラクの手が離れると、エルーカは器の縁に口を付け、スープを飲んだ。
特に空腹だったわけではないが、温かいものが胸に沁み渡ってゆく感覚が心地よい。
半分ほど飲むとエルーカはやはり眠気が勝ってきて、控えめに談笑する人々の声を子守歌にまた眠った。
夢の中で、エルーカは水面に浮かんでいた。
真っ暗な空に開いた穴のような、丸い月の光が注ぎ、水底にはあの沼で見た白い花が咲いている。
夢の自分も目を瞑っているのだが、不思議と景色は鮮明に見える。
耳元で水の音が絶えない。
だがやがて、体が深く沈み込み、辺りはしんと静まり返った。
現実でエルーカは目を開けた。
視界は真っ暗。闇の中。下を見ても左右を見ても何もなく、触れられるのはエルーカを支えてくれているアスラクだけ。
「まだ寝てていいよ」
優しげなアスラクの声はいつもと変わりない。穏やかな闇に漂う彼に、エルーカは小さな子のように抱きかかえられている。
「ここはどこ?」
「影の中。上、見てみ?」
エルーカが見上げると、そこには地上の景色が広がっていた。
無造作に寝転がる人々や、その間を忙しなく歩き回って誰も意識のないことを確認しているフラッグ商会の人々の靴の裏が見える。まるで薄い氷が張っているその下から見ているような光景だ。
「どうしてみんな上にいるの?」
「俺たちがみんなの下にいるんだよ。これが俺の持ってる魔法。人や物の影、夜の闇の中に潜れる」
「? アスラクは影の中に潜れるの? 水に潜るみたいに? へー!」
「みんなには内緒な。俺が魔法を使えることは誰にも言っちゃだめ。わかった?」
「うん、わかった」
エルーカはまた上を見る。初めて体験する魔法はなかなか楽しい。
影の中には、地上の人間たちの話し声も聞こえてくる。
「持ちきれない食料は燃やしておけよ。万が一、ロヴェーレが無事に目覚めてもここで野垂れ死ぬしかないようにな」
薄ら笑いを浮かべて指示しているのは、フラッグ商会のラニエロである。彼の傍にはマイニが無表情で佇んでいた。
フラッグ商会が夕食に仕込んだ薬の影響で、だらしなく口を開けて眠りこけるロヴェーレ商会の面々を足蹴にし、上機嫌になっているラニエロだったが、不愛想な案内人にはやや不愉快そうに顔をしかめる。
「結果的にはなんとかなったが、合流場所にあんな魔物が出るとは聞いていないぞ。ふざけるなよお前」
「・・・サンザシの魔物のことはお話ししていたはずですが」
「違う! 木の魔物のほうだ!」
「あれは私も知りません。森の様子がおかしいことは初日にお伝えしました。私どもも神の森のすべてを把握しているわけではございませんので」
少女は怯むことすらない。このふてぶてしさのために、先の夜にはこの堪え性のない男に突き転ばされ、その場面をエルーカらに見られていた。
「あの案内人の子は、最初から裏切ってたみたいだな」
アスラクが独りごとのように言った。
「裏切る? 何を?」
「エルーカはもう忘れたかもしれないけど、俺たちはもともと、あそこで寝てるロヴェーレ商会の連中と一緒に、神に会うために森をここまで歩いてきただろ? でも、あの子ははじめから、俺たちが神に会えないように邪魔するつもりだったわけだ」
「エルーカたちが神に会えないように? どうして? どうしてそんなことするの?」
「さあ。わかるまで、もう少し見てよう」
「? うん」
エルーカはアスラクの胸に頭を寄りかけ、すっかり寛いだ体勢で引き続き、地上の出来事を観賞する。
ちょうど、エルーカのことが話題にのぼっているようだった。
「ロヴェーレが雇った魔法使いはどこに行った?」
その少女が確かにスープを飲んでいたことを、覚えている者はいた。ならばその辺りに眠りこけているはずであるのに、姿の見えないことが気になるらしい。
「逃げたのでしょう」
マイニがそっけなく言った。姿が見えなかろうが気にせずとも良いという態度だ。
しかしラニエロにはまた別の考えがあった。
「傭兵なら金さえ積めば、お前と同じようにこちら側につくだろう。あれだけ力のある魔法使いに後で恨まれても厄介だ。おい、もう少しよく探せ。その辺に転がっているかもしれない」
彼らは暗い中で草むらを探し、しばし無駄な時間を過ごした。同じく姿のないアスラクのことは、どうやら誰の印象にも残っていなかったらしい。
ラニエロの気がある程度済んだ頃に、マイニから「魔物が集まって来ますよ」と脅され、一行は魔法使いを諦めて移動することにした。
「今度こそ安全な拠点なんだろうな?」
「もちろんです」
マイニに先導され、フラッグ商会の一行はエルーカたちの頭上からいなくなる。
「ちょっと付いて行ってみるか」
アスラクはそう言って、片手で闇を漕ぎ、一行の後を影の中から追った。
彼の魔法は影に潜り影の中で自由に動ける。今は夜で日向がないために、途切れのない影の中は海のように広く、どこまでも追跡することができた。
エルーカはすべてアスラクに委ね、頭上の流れる景色を楽しんでいる。もう少しも眠くはなかった。
「そういえば、結局エルーカに毒は効かなかったんだな」
「え?」
「エルーカが寝ぼけながら飲んでたスープの中には、眠くなる毒が入ってたんだよ」
「毒? エルーカ毒食べた?」
「たくさん食べてた」
「そうなんだ。わかんなかった。エルーカは何を食べてもお腹壊さないの魔法持ってるからなー」
「睡眠薬で腹は壊さないとは思うけど。なんでも解毒できる魔法ってことかな」
アスラクは一人で納得した。
一方地上の探検隊は、そう長く移動していたわけではない。松明の届く範囲でしか視界の効かない夜の中、案内人が示すより安全な拠点に向けて、少しばかり移動するだけのはずであった。
クワフ人の安全な拠点。それがあると思っていたために、彼らは油断していた。
突如声もなく、フラッグ商会の仲間の一人が吹き飛んだ。
胴体が二つに千切れ、別々の場所に落ちる。何が起きたのか誰もわからぬ間に、次々と同じように人が飛ばされた。
「なんだ!?」
明かりが消える。人々は混乱し、騒ぎながらあちこちに逃げ回った。それを木々の向こうから伸びる太い蔓が精確に、執拗に打ち砕く。
そして、でたらめに逃げた結果、たまたま森の奥のほうへ向かってしまった者は目にした。
木々が避けた空間で、月光を浴びる巨大な蕾を。
まだ硬い蕾の下から、太い蔓が幾本も生えており、さらにその下の根は地面に埋もれておらず、移動することができるようだ。
そこは、試練の初日にいくつもの探検隊を葬った魔物の縄張りであった。
寝床に近づかれよほど腹に据えかねたのか、暴れのたうつ蔓が次々と人間たちを肉片へと変えていく。
「誰か、誰か助けっ――!」
ラニエロの叫ぶ口は途中でなくなった。
エルーカは、ぽかんとして人々の断末魔を聞いている。
蕾の魔物は影の中にいるエルーカらには気づかないようだ。
「ねえ、アスラク。エルーカが助けてあげなくていいの?」
マイニ以外は、助けなくてはいけない人物リストには入っていない。それでも、なんだかエルーカはそわそわした。
「助けなくていいよ。あの案内人の子も、結局俺たちを神に会わせる気がなかったんだから、助ける必要がない。あいつらが全員死んでもエルーカには関係ないよ」
頭上でどんなに肉片が飛ぼうと、アスラクは平然としてる。
妖精の国で育ったエルーカとて、特別人間に思い入れがあるわけでもなく、ましてその死を懼れたり、胸が痛むというのでもない。
ただ、父妖精の教えが頭の中に蘇ったのだ。
「ねえアスラク。やっぱりエルーカは助けてあげるよ」
「そ?」
「うん。エルーカに関係ない人も、エルーカはできるだけ助けてあげなさいって、ケルントラトが言ってた」
「妖精の国のお父さんだっけ? 妖精のほうが人間より、よっぽど人道的なんだなぁ」
アスラクは笑って、それならと背中に差して預かっていた杖をエルーカに渡した。
「行ってらっしゃい」
手を放されると、エルーカの体は自然に浮いた。
水面から上がるように、エルーカは影から勢いよく飛び出すや、空中で杖を思い切り振りかぶる。
「せぇーの!!」
不意打ちからの渾身の一撃であった。
魔物の本体にまともに衝撃波が当たり、その影響で硬い蕾が最期に開いた。中の鮮やかな紅色の花弁をわずかに覗かせ、しかし満開を迎えることなく、消え去った。
「ふー」
大地に降り立ち、エルーカはきょろきょろと周囲を見る。辺りには人間の残骸ばかりで、助けに入ったもののフラッグ商会の一行で生きている者はもういない。
エルーカは左手の茂みに声をかけた。
「もう出て来ていいよ」
間もなくして、マイニが顔を出した。
彼女には一向に好かれないエルーカだが、今は憎悪すら感じさせる眼差しで睨まれている。
ただしエルーカ本人はいまだに人の心の機微がよくわかっていない。
「そろそろ正直に喋ってもらおうか」
「っ!?」
背後の影から現れたアスラクに驚き、マイニはそれ以上エルーカを睨んでいられなくなった。男に素早く両腕を後ろに拘束され、抵抗する術もない。
容赦なく少女を締め上げながら、アスラクはいつもの軽薄な口調で問いかけた。
「君の目的は神を目指す連中を全滅させることだった、だろ? その理由も気になるが、何よりまず確認させてくれ。君、本当に神の居場所を知ってるのか?」
「―――はっ」
苦悶を浮かべながら、マイニは嗤った。
心底愚かな者を見るように。また、すべてを諦めたかのように。
「知るわけない! 馬鹿どもめ!」
物静かな少女の口から、甲高い嗤い声が溢れた。
神の森の中、どこまでも遠く、それは響く。
エルーカは後ろを振り返った。
「――どういうことだ」
鞘に入った剣を杖代わりに、もう片方の手で幹を支えにしながら、今にも吐きそうな顔のダンテがやって来た。




