1.フェアリーランド
それは長い長い冬の終わり。
夢のような霧の中、灰色の丘を素足で歩んでいく。丘を上るごとに温まる空気が幸せで、やっと春を迎えられたと思い嬉しかった。
丘の上には一つ、背の高い影が見える。
はじめは細い若木と思ったが、近づいてみるとそれは見事な鹿角を頭に生やした男であった。
当然ながら人間ではない。輝く絹の衣に黄金の飾りを身に着けた、神々しい何か。よろけながら丘を上ってくる小さな者を見下ろしていた。
やがて、やっとのことで辿り着いた者に神々しいものは問いかけた。
「名は?」
小さな者はこれまでの道のりで疲弊しきっていた。声が出てこない。
「自分の名を、言いなさい」
ゆっくりと神々しいものが問い直した。
小さな者は最後の力を振り絞って顎を上げる。ひび割れた唇を震わせ、ただ一つ覚えている名を口にした。
「えるぅ、か」
それきり、四肢の糸を断たれた人形のように倒れるところを、神々しいものが受け止めた。いくらも重さのない薄い身が片腕にだらりと垂れる。
神々しいものは眉一つ動かさず、しかし内心で困惑していた。
「・・・どうしたことだ」
なぜ小さな者は丘を上ってきたのか、なぜ「エルーカ」と名乗ったのか、彼には何もわからなかった。そしてわからないまま放り捨てることだけは決してできなかった。
逡巡したのは一瞬だけ。
神々しいものは立派な頭を回し、ひとまずこの謎を丘の向こうへ持ち帰ることにした。
*
そこには年中眠気を誘う生温い空気が籠もっている。
ふかふかの布団の上で、エルーカは心地よく寝返りを打った。彼女の寝床は太い水晶樹のうろの中。寝ている間も、樹がぱきぱきと少しずつ伸びてゆく音がかすかに聞こえるが、エルーカには特段うるさくはない。
くあ、と一度あくびして、またしばらくまどろんだ後で、ゆっくり起き上がった。
辺りは薄明るい。
その明かりは水晶の内に籠る魔法の青い光。昼も夜も薄ぼんやりと地下世界を照らす。
ここに地上の太陽と月の光は届かず、ゆえに野花も草木もまともな生き物は何もなく、かわりに無機質で美しいばかりの水晶が樹林のように生え、地と地の間を貫いていた。
エルーカがのそのそとうろを出ると、水晶樹に囲まれた広場に鹿の角を生やした青年姿の妖精がいる。
首筋にかかる美しい黒髪。白く輝く布を巻き付けた細身の体。エルーカのほうへ振り返ると角に絡んでいる黄金の鎖飾りがさやかに鳴った。
鹿角の妖精は、この広間の水晶樹にある無数のうろの中を一つ一つ確認している最中であった。
「おはよう」
落ち着いた、穏やかな声で鹿角の妖精がエルーカに朝の挨拶を促す。
「おはよー」
まだ寝ぼけた声でエルーカは返した。
鹿角の妖精が覗いているうろの中のほとんどすべてに、表面に蔦のような紋様が浮かぶ透明な卵が安置されている。片手で持てる鳥の卵と同じ大きさだ。
卵内を満たす薄黄緑色の柔らかい液体に、子が漂っている。
かろうじて目鼻口があるようにも見えるが、まだどろどろした状態のものがほとんどだ。これらは生まれて間もない妖精であり、仮にここで卵が割れれば不完全な体のまま死んでしまう。
この広場は鹿角の妖精が子らを守り育てるために作った保育室であった。つまりここにいるものは庇護の必要な未熟な妖精なのである。
ゆえにエルーカもこの卵の部屋で寝起きするよう鹿角の妖精に言い付けられていた。
「エルーカ、今日は何日だ?」
いつまでも寝ぼけている娘を鹿角の妖精が促した。
エルーカは目を擦り、水晶の欠片を拾う。寝床にしている水晶樹の幹に、毎日欠かさず教わったとおりに日付を記録している。一年経ったら表面を全部削り取って、もう一度刻み直す。そうしてエルーカは数字と暦というものを覚えた。
前日の日付を読み、そこに一日足して今日の日付を刻む頃にはエルーカも目が覚め、今日で日付を刻み直しから一年が経つことを知った。
「ケルントラト」
エルーカは鹿角の妖精の名を呼んだ。その黒い瞳にはすでに期待が満ちている。
「もしかして、今日はエルーカの誕生日?」
「そうだ」
少女が歓声を上げる直前、
「誕生日おめでとうエルーカ!」
水晶樹の後ろからいっぺんに出てきた四つの影がエルーカに群がった。
瑞々しい若葉のような緑の髪の少女姿の妖精、濃い青空のような髪色の少年姿の妖精、燃える紅葉のような赤い髪の女の妖精、凍える空気をまとう真っ白な髪の男の妖精。
彼らはいずれも特に大きな力を持つ妖精たちで、それぞれの生まれた季節の名前、春、夏、秋、冬と呼ばれている。彼らに付随する蛍の光のような小妖精たちも大勢現れた。
妖精たちに頭をなで回されエルーカはきゃらきゃら笑う。
幸せな一日が始まった。
「みんなエルーカの誕生日覚えてたの? エルーカはさっきまで忘れてたのにっ」
「エルーカ以外は誰も忘れないよ。春生まれのエルーカ! 自分がいくつになったか覚えてる?」
緑の髪の、春のベールが試してきた。
ええと、うんと、とエルーカは思い出そうとする。
「ヒント。エルーカの誕生日はこれで五度目だよ」
「もう一つ。ここにきた時のエルーカは十歳だったぜ。ケルントラトの見立てが正しけりゃな」
少年姿の夏のエスタスが、ベールのヒントに付け足した。
「指を一本ずつ曲げて数えてごらんなさいな。いーち、にー、さーん」
真っ赤な秋のアウムと一緒に数えて、エルーカは答えがわかった。
「十五歳! エルーカは十五歳になったんだ。そうでしょ?」
最後に白い冬のヒェムスが頷いた。
「正解。十五歳のエルーカは数を数えられるようになった。とてもめでたいことだ。我々の可愛い妹に今年はどんな祝福を授ければ良いだろう」
次の話題に今度は春夏秋冬の妖精たちが頭を悩ませた。
「ベールは転ばずの魔法を去年あげた。溺れずの魔法はどうエルーカ?」
「それはエスタスが一昨年やった。燃えずの魔法は去年にやったよなあ」
「アウムは悪夢払いの魔法をあげたわ。あと何が残ってたかしら?」
「一度整理しようか」
ヒェムスが指を振り、空中に氷で文字を書いた。これまで四度の誕生日で、四匹の妖精たちからもらった十六の特別な魔法が列挙される。
プレゼントがわりに毎年渡される魔法の加護のおかげで、エルーカはこの地下世界でろくに怪我も病気もしたことがなかった。
「エルーカはどんな魔法がほしい?」
悩んだ末に良い案が浮かばなかった妖精たちは本人に聞いてしまう。
エルーカの答えは決まっている。
「花を咲かせる魔法!」
ところが、これに妖精たちは良い顔をしなかった。
「去年も同じこと言ったぞエルーカ」
「え? そう?」
エスタスが指摘するもエルーカは覚えていない。少女は非常に忘れっぽかった。
よってアウムが今年も同じ言葉で諭す。
「命をつくったり、いじったりする魔法はとてもとても難しいのよエルーカ。魔力もうんと必要になる。アウムたちは自分が使えない魔法をあなたに分けてあげることはできないの」
「そっかー。そうだったかも」
言われてみれば去年もその前の年も、同じことを聞いた記憶がぼんやり蘇ってきた。
場をヒェムスが仕切り直す。
「なにか良い知恵はないかい? ケルントラト」
「では――」
どんな時も頼りになるのが鹿角の妖精だ。彼は春夏秋冬の妖精を含む、この地下世界で生まれた妖精たちすべての父であり、魔法の師なのである。
エルーカも魔法の使い方をケルントラトに一昨年から教わっている。
父から有用な助言をもらった妖精たちは、それぞれに魔法を籠めてエルーカの額に口づけた。温かな魔力がエルーカの中に滲みてゆく。
エルーカは妖精たちに大切にされていることがわかるこの瞬間が好きだ。どんな魔法をもらえるかはさして重要ではない。
「また来年まで無事に生きておくれ」
春から順番に冬が最後に口づけ、祈りを囁いた。
毎年のことである。
そして次には決まって春の妖精がエルーカを抱き上げる。
「さ、母プエラリスに新しいエルーカを見せてやろ!」
ツバメのような速さで水晶樹の間を飛び抜け、他の妖精も後を追う。鹿角の妖精だけが卵とともに広場に残った。
春の妖精が言う母プエラリスは最も大きな地底湖で沐浴をしていた。
珊瑚色の肌の、巨大な女の姿の妖精だ。波打つ金色の髪が薄暗い地下世界ですら光り輝き、水を弾く豊満な肢体が艶めかしい。
彼女はこの地下世界を事実上統べている女王であり、ここにいる妖精たちを生んだ母である。
地底湖に風呂のように浸かる母妖精は、羽虫の大きさのエルーカたちがとまれるように手のひらを上へ向けた。
「どうしたの? 珍しくみんなそろって」
「今日はエルーカの誕生日よプエラリス!」
「あらそう」
春夏秋冬の妖精たちと違って、母妖精の反応は素朴なものだ。
「今度はいくつになったのエルーカ?」
「十五歳!」
自信満々に答えたエルーカの黒い頭を指先でなでる母は、あまり嬉しそうではない。
「また大きくなってしまったのね。小さいほうが可愛いのに。エルーカはもう小さくならないの?」
「んー、どうなのかな? なるのかも?」
言われたエルーカが考え始めると、その背が少しずつ縮んできた。なおケルントラトに誕生日を確認した時にはわずかに背が伸びたのだが、伸びた分より小さくなっていく。
だが低くなっていく頭を、途中で夏の妖精が上から掴んで止めた。
「エルーカ。成長したものは小さくならないんだぞ」
「そうなの?」
「そうよ」
秋の妖精がエルーカの両脇を持ち軽く上に引っ張ると、背が元に戻る。
「母プエラリス。子は成長するものです」
冬の妖精がそっと諭し、母は渋々引き下がった。
「いいわ。エルーカはまだまだ小さいものね。誕生日おめでとう、私の可愛い子。今日は一日中お祝いね」
妖精たちが歓声を上げる。
プエラリスが立ち上がると滝のように水が降った。
「楽しい宴にしましょう。ベールとエスタスは何か適当に地上から集めてきて。アウムとヒェムスは飾りつけよ」
「まっかせて!」
春と夏の妖精が我先にと出口に向かって飛んでいった。
今日は皆が飽きるまで宴が続く。
普段は滅多に口にできない地上のものを食べ、妖精たちと歌って踊り、こうしてエルーカの新たな一年が始まったのである。