妄念絡みに絡む事
不意にかたりと音がした。飛び上がった源教が剃刀をかざしながら振り向けば、七兵衛が隠れどころより出てくるところであった。
「御坊」
総身に氷水をかぶったような七兵衛に、奇妙に顔を歪めたままの源教は、ゆっくりともう片方の手を広げてみせた。
そこには、幾筋かの髪の毛が、ただじっとりと巻きついていた。
瀕死の蛇のように、ゆるゆると動きながらも。
「それは。その、髪は」
「証だ」
勝利宣言というにはあまりにも力のない声に、しかし七兵衛は首を振った。
「とっておくのはおやめなさい。せめて、供養なされるべきでしょう」
「このように幽霊が遺していったということは、わたしに与えて良いと思ったからであろうに」
「御坊は横からご覧であったからご存じないのでしょう。剃った髪がいずこへ消えたかを」
不審そうに見やる源教に、七兵衛は声を震わせた。
仏壇下に隠れ、正面から見ていたものの禍々しさに。
「あの髪は、懐へと這い込んでいったのですぞ!」
「それは見ていたが」
「ああ、ならば」
七兵衛は唇をふるわせた。
「ならばなぜ気がつかれぬのですか。――懐が膨らんだ様子もなかったことに」
虚を突かれた源教に七兵衛はさらに問うた。
「そもそも、何が髪を動かしていたというのです?」
古話の一つに、姑と嫁と評判の仲睦まじさに幸せに暮らしていた男が、ふと二人の影を見たところ、互いの髪がいくすじもの蛇と化して相争っていたのを見て、世の無常に僧となったというものがある。
髪を蛇と成したのは、嫁と姑、表に出すまいとした互いの憎悪であり、瞋恚であり、妬心であろう。
が、剃り取られた、つまり身から分かたれ、別物になった髪が。
その身に絡みつくというは。
念というならそれは髪の重さに沈んでいた女のものではない。女は成仏したいから髪を剃り落としてほしいと、手を合わせて頼み込んできたのだ。
だが――髪に執着していた男がいたというではないか。
伯楽の長者、髪琵琶の男が。
「では、その髪が懐に這い込んだということは――つまり」
源教は慄然とした。
いったいおのれは何をしてしまったのだ?
髪を剃ったことで、女性は髪の妄念から解放されて成仏した。はずだった。
だがその頭に根付いていてさえ身を絡めて水底より浮かび上がらせることもなかった執念だ。
嬉々として懐より這い込み、黒々とヌメヌメと、幽霊とはいえ女体の肉を、柔肌を封じるいくすじもの蛇――
源教は奇声を上げて指にまとわりついた髪を振り払った。新しい薦に落ちた髪の毛はまだゆるやかに動いていた。
わずかに仏前の灯明と、庫裏とも呼べぬ竈土間と囲炉裏のとろ火ばかりをかすかな灯と受け、青貝の螺鈿のような色合いに光りながら。
葛橋のかたわらに築かれた一基の石塔がある。
俗に言う髪塚とは、その橋を渡りきれずに溺れ死にした女性がため、念仏者が四隣の者をかたらいて懇ろに供養せし名残として、今もあるという。