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念仏者幽霊の乞いを容れるの事

本日も拙作をお読みいただきまして、ありがとうございます。

うずくまりただ欷歔(きょき)する幽霊に目をあてたまま、源教は動けなかった。


 授戒とは、剃髪し仏弟子になるということだ。

 源教も僧形の身である。臨終、もしくは葬式の場で、在家の死者の頭に剃刀を当て、曲がりなりにも仏弟子としての体裁をつけ、引導を渡してやることもままある。

 僧として慣れたはずのおこないに、しかしためらいを覚えたのは、美を惜しんだせいだ。


 ざんばらにはなっていたが、たしかに女の髪は美しかった。

 はじめろくろ首かと見紛ったのは、あまりにその髪がたっぷりと豊かであったためである。黒髪に身体のほとんどが覆われていては、漆黒の闇に白い顔だけが浮かび上がっているようにしか見えなかったのだ。


 豊かな漆黒の髪を保つため、世の女人は苦心惨憺するという。(まげ)を結うには髪に長さと量が必要だ。しかし年を取れば髪は痩せ、髷も細る。体裁もつかなくなるものだ。

 むろん(かもじ)を足せば、もとの髪が薄く少なくなろうとも、たっぷりとした髷が十分に結えるというが、髢を購うほど身なりに気を使えるのは、よほどに富裕な家の婦でなければなるまい。

 真柝(まさき)と名乗った幽霊の装束は粗布と見えた。なれどその髪は貴人でも妬みうらやむほどに美しかった。

 膝を隠すほどにくろぐろと伸びた、黒玻璃のような艶は夜闇よりもさらに濃い。


 その髪を一本も余さず剃りこぼつ。

 死者はともかく幽霊の髪を剃るなど、考えたこともなかった。これほど美しいものを己がむざと損なうこともだ。

 しかし、美の破壊は当人の願いであるのだ。

 女の誇りともあろう豊かな髪ゆえに、かえって迷い黄泉路を辿れぬというのであれば、導いてやるのもまた乞われた縁というものか。

 そのように理性では得心しつつも、念仏者の裡には、それすら眩むほどの昂奮が沸き立っていた。


 潺々(せんせん)と続く流れの音と重なり合い、混じり合うあえかな歔欷は哀れに源教の胸を刺す。だがそれはひどく愉悦をもたらす憐れみをもたらした。

 眼前の女の魂を歓喜に舞わせるも悲嘆の淵に沈めるも、閻浮(えんぶ)に迷ったまま捨て置くも成仏に導くも、すべては自分の思惑一つで定まるのだ。

 取り返しの付かぬほど美しいものを破壊しうるおのれの力を。力を振るうための慈悲をと、これほどまでにこいねがう者がいただろうか。

 源教はおのが力に陶然と酔った。

 一方、念仏者としておのれをかえりみれば、怯えに似た感情を認めざるをえなんだもまた事実であった。

 

 たしかにおのがなせる寒念仏は、寒中に三七日などと日を限り、寺に参籠するをもって寒行と呼ぶに比ぶれば、多少は骨も折れよう。

 されど、山中の寒村でいう寒行とは、日々のなりわいの合間にも水垢離を取り、濡れた肌を拭うことなく行うものだ。女人を断つというならおのれの母にすら触れることを許さず、無言の行がうかと破られたならば、また最初からやりなおさねばならぬ。夜半には氷と選ぶところのない川水に浸かって垢離を取り、人の死を聞けば、山をいくつ越えても回向に向かわねばならぬ。

 それに比せば、おのれの寒念仏など、苦行とも荒行とも言えぬ。

 さしたる功徳も積まず、人徳もないおのれごときが、果たして何事もなく引導を渡すことができるものか。


和上様(わじょうさま)。これも仏縁が合ったというものでございましょう。どうか御慈悲を……!」


 しかしためらう気配を感じてか、必死に訴える女の姿にようよう源教の腹も決まった。

 というより、おのが一挙手一投足にすら目を離さず、片言半句すら聞き漏らすまいとするその姿に惑わされたともいえる。

 水晶のような滴をしたたらせて続けている女の姿は、亡霊と知ってはいてもあまりに蠱惑的にすぎた。

 髪を琵琶に張りたいと、妄言を吐くほど迷ったという長者の気持ちすらわかるようにさえ思われる。

 長者ができなんだことを、この女をものにしてやりたいという煩悩が胸中に噴出したのも押し隠し、源教は重々しく亡霊に頷いた。


「よかろう。だが今は念仏行のつもりで出てまいったのでな。その髪剃ってやろうにも、剃刀を持っておらぬ」

「では」

「よいよい。明日の夜、私が住んでいる庵においでなさい。戒を授ける用意をしておこう」


 その言葉に、女の顔は闇夜に灯を得たように輝いた。


「まことにございますか!ああ、ありがとうございます、和上様にはなんとお礼を申し上げてよいものやら」

「ならば」


 僧形の男は、唾を飲み込んだ。


「その言葉が心の内より出たものならば、一つ頼みがある」

「和上様が、わたくしに頼みごととは?」

「拙僧に喜捨を願えぬだろうか」

「と申されましても」


 亡霊は困惑した。


「わたくしは六文銭すら持たず、このように迷っている身にございますが」

「金ではない。その笛を所望いたそう。一曲吹いてはくれまいか」


 亡霊の得度をするのも得難い体験、喜捨に亡霊の笛を求めるもまた風流。聴くことなど他の者には到底思いも及ばぬことであろう。

 酔狂な思いつきに、源教は新雪を踏み荒らすにも似た快感に酔った。


「ですが、わたくしのような者の笛の音など。御仏に悪いのではございますまいか」

「なに。歌舞音曲に邁進するのは菩薩行と言うそうな。御仏の御心にもかなうであろうよ」

「――では。和上様のお言葉に甘えまして、そのようにいたしましょう」


 言葉を重ねて勧めれば、幽霊は青くかすかな笑みを残し、煙のように消えた。

 あとは輝く月が雪と川の流れを照らしているばかりであった。

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