雪中幽霊に遭うの事
本日も拙作をお読み頂きましてありがとうございます。
都の人は、雪を風情あるものとのみ見るようだ。香りなき飛花に喩え玉にもなぞらえ、宴を設けては詩歌の材に玩び、描きては銀世界の美を歎ずる。
あるいは丸げて一時の形をなして楽しみ、もしくは雪中にわざわざふみこみ足跡を喜ぶような戯れもするという。
だが、雪は恐ろしい物である。
とりわけ北国の雪は、霏々と降り続く白魔である。
綿々と降り積もる雪がのしかかれば、昼の陽だまりも夜の氷柱と化し、家はそのじわじわ押し潰さんとする重みに耐えかね呻きを上げる。
ようよう掘って外へ出たとしても、安んじることはかなわない。
深い雲の下降り続く粉雪は、人の目から物のかげかたちを奪い、ただ薄暗い白闇の中に茫茫と谷も川も崖も隠す。
雪溜まりとなっては人の足を捕らえて離さず、かと思えば遠い尾根から山津波のように駆け下り、村の一つや二つは、ぺろりと飲み込む。
たまらず細い山道に足を踏み外した者、雪崩に呑まれた者の亡骸は、遅い遅い春になって、ようやく玩具をしぶしぶと手放すように溶ける雪から現れる。
雪から解き放たれる春とは、無惨な季節でもあるのだ。
そんな雪深い国の、とある山間の村近くに、一本の橋があった。
名もなき谷川に挟まれたような、狭隘でしかも急峻な土地である。河の流れが急であるから、わずかな出水にも橋は流れた。粗末な小さな吊り橋は、冬ともなれば葛で編まれたたよりない欄干ごと雪に埋まり、うずくまった巨大な獣の背のように丸みを帯びたひとつの白い塊となる。
そのため、雪が降るたびに、村人たちは雪を掘った。橋桁からも雪を払い、わずかなりとも安んじて通れるようにと骨を折るのだった。
だが、真冬の雪は、人が掘るより早く降り積もる。一夜の裡に、三尺も五尺も積もることすら稀ではない。毎日休みなく雪を掘っても、橋の幅が狭い上に雪の積もったところを渡らねばならぬ。
それゆえ、冬の橋は危難に満ちた天険ともなった。
覚悟を決めて行く者も、恐る恐る足を進める者も、一歩足元を謬れば、そこは氷と選ぶところのない冬の川である。
落ちれば瞬時に五体は凍え、泳ぐことすらままならぬ。分厚く着込んだ道行の衣がどっぷり水を含めば、水底に沈む溺死体となるばかり。
そのように厳しくむごい川野辺を修業の場と選ぶ僧があった。
その名は源教。
無言行には縁もなく、念仏三昧に明け暮れる修行者は、葛橋のたもとで夜もすがら溺死者を回向するとて念仏を誦すこともままあったという。
奇特の人と民人は皆有り難がった。
寒念仏が満願となるその夜も、源教は雪の積もった河原で読経に余念がなかった。
風にはためく袖をものともせず、数珠を押しもめば修験者の苛高にはかなわねども、珠同士が音立てて軋みあう。それ以外は流れの音もかそけき雪山の向こうである。
人の背丈をたやすく超える雪の壁は、音も吸うのだ。
つめたく重い水気を含んだ白魔に覆われては、成仏を願い誦す念仏もまたあっさりと吸いこまれ、しんしんと足元から這い上る寒さへと変わるばかり。
だが源教は、それすらよしとした。
夜闇に響かぬ読経は我身の裡に響き渡り、声高に経文を唱え嗄れる喉、鳴らす鉦に手の皮が張りつく痛みは、無言の行にはありえぬ爽快さとでもいうべきものを与えてくれると。
何より無言行では、間近く見てもらわねばその意味がないではないか。
白い息のたなびく昏い空は瑠璃紺の一枚氷となり、冥く雲が竜の群れのように走るたび、冴え返る月とあるとも見えぬ星明かりを蒼白くはねかえす雪が翳り、また明るみを増した。
遠くの山は雪に丸みを帯び、けだものの頭のように、または盛り上がる波にも見えた。
足元の雪を掴んで喉を潤すたび、しらじらとした息は薄くなり、風に煽られ飛ぶ雪に紛れるばかり。
そのたびに源教はさらに声を張り上げた。
源教が何度目かに雪を掴もうと、姿勢を崩したときのことだった。
一天にわかにかき曇り、天心の月が曖昧朦朧としたと思うと、生臭い匂いが冷たくも清冽な冬の大気に広がったのだ。
凍えた口から漏れていた読経の声が止まる。
さすがに念仏の三昧行に耽っていた僧も不審を覚えたのだ。
その目がかっと見開かれたのは、川の中から青火が立ち昇ったためだった。
これは亡者の陰火に違いないと、源教は目を閉じて鉦を鳴らし、ひとしきり念仏を唱えた。
迷い晴れなばこれで万事は落ち着くと、気を落ち着けて再び目を開いた時だった。
ほぼ無音に戻った闇にぼうと浮かび上がったのは、ずぶ濡れの女の白い顔であった。
まるで暗闇に現れたろくろ首のようなそれは、しずしずと川の流れを過ぎ、岸へ、源教のもとへと近づいてきた。
逃げることも思い浮かばぬまま僧侶が見つめていると、それはどうやら若い女のものであるようだった。
あまりにたっぷりと豊かなその髪は身体のほとんどを覆い隠し、それが、青火からも遠いあたりは河原の岩陰とも同化し、漆黒の闇そのものであるかのように見えていたのであった。
青ざめた顔だけでなく、白い着物の上にはざんばら髪がべったりと貼りつき、その身体が透き通っているかのように、女の後ろにある河面のかすかな光や対岸の木々の雪帽子が、源教にはかすかに見えていた。
暗闇にそのかきあわせた袖や、帯に挟んだ一茎の笛までありありと形が見えるのも、それでいて腰から下はあるかなきかもわからぬほど曖昧模糊としているのも、この世の者ではない証であろう。
歩くとも見えぬうちに、いつしか幽霊は源教の間近に迫っていた。その黒眸は瞬きもせず源教から離れようともしなかった。
修業の身とはいえ、この世の者ならぬ悽愴の気に打たれ、気圧されるままに源教が見つめ返していると、水晶のような氷水を滴らせ、青ざめた頬が不意に、さらにはらはらと濡れた。
涙は、凍えきった肌には熱湯のように沁みるだろうと、僧侶は我身のことでもあるかのように、その熱さに震えた。
「和上様」
心の臓が跳ね上がるかと思われたのは、血の気のない唇がひそやかに開いたためか、それとも細くかすかなその声音に耳朶をもてあそばれたためか。
「和上様の念仏のおかげで、川底より一時呪縛を逃れ浮かび上がることができました。御礼申し上げます」
一礼をされて、ようよう源教の耳に川のせせらぎが聞こえた。
息をする心地になれば、たとえ髪の毛が椀ほどに太ろうにも、剃髪をした出家の身である。
死者を弔い、戻る事なき死出の道を辿るべく、引導を渡すが仏門に入った者のつとめであろう。
「拙僧に何用か。定めし流れに墜ちたのであろうが、身体を見つけて欲しいのならば、そのように申すがよい。それとも、なんぞ他に思い残したことでもあるのか。なくば去れ、迷わず黄泉路を辿るがよい。あらば拙僧が聞こう。語るがよかろう。語り尽さば妄念の、晴るるや晴れぬか胸の内。そなたの名は。またなにゆえにかように迷うか、わけを申せ」
「はい。かくなる上は隠さず余さず申し上げましょう。この世の名残も惜しみなく」
腹を据えて尋ねれば、幽霊は手をすりあわせた。
濡れそぼった白鷺のような身体に絡みついた黒髪が、そのかすかな動きで生あるもののようにぬらりと艶を放った。