雨と雪の女王
叩き台的な……
──十月。
制服の衣替えも済んだ今日この頃。
カッカッカッ、と小気味良い音を鳴らしながら、先生が黒板に向かって複雑な数式を書き連ねていく。
私はそれを「まるで魔法の呪文みたいね」と、自分でも何だかよくわからない感想(そもそもが『わからないもの』に対する感想なのだからこうなるのも致し方ない)を抱きながらぼんやりと眺めている。
まあ。
もし。
あれが本当に魔法の呪文だとしたら──そんな素敵ものなら私も覚えようと思えるのかもしれないわね。
……カッカッカッ。
……カッカッカッ。
はぁ……。
これ。
この音。
あの後ろ姿。
いつ聞いても、いくら見ていても──飽きないのよねえ……。
「────」
あら、間違えたみたい。
──サッサッサッ。
先生は無言のまま黒板消しで呪文の一部を消し去った。
それから難しい顔で教科書を一瞥した彼は───
コッ、カッ、カッ、カカカカッ。
と、猛然とスピードアップした。
あれはどう見ても照れ隠しだ。
まったく、もう──可愛いんだから。
で、
「…………」
ある程度呪文が復元されたところで先生は黒板をじっと見つめ──小さく一つ頷いた。
うんうん、ちゃんと直せたのね? おめでとう(残念ながら私にはどこがどう変わったのかもわからないけれど)。
カッカッカッ。
カッカッカッ。
その後はややスピードを落としつつ、先生は黒板にチョークを走らせていく。
そうそう。
──数式も。
──黒板も。
──生徒も。
──何も。
──誰も。
どうせ逃げやしないのだから、落ち着いてゆるりとお書きなさいな。
何なら──授業が終わるまでずっと板書を続けてくれてもいいのよ?
カッカッカッ。
カッカッカッ……コトリ。
「──よし」
呪文──否、数式を無事最後まで書き上げた先生は、使っていたチョークを粉受けに置くとパンパンと手のひらを打ち合わせて付着した粉を払い落とし。
それから、しかつめらしい顔で黒板のほうから私達のほうへと振り返った。
いや、そんな顔したって……達成感、ぜんぜん隠せてないから。
よしって言っちゃってるし。
子供みたい。
かわゆいなあ。
あー……紺色のジャケットの袖がチョークの粉で真っ白じゃない。
脱ぐか捲るかすればいいのに。
ふふっ……たぶん気づいてないんだろうなあ。
そういうところ、ホント可愛い。
「──それじゃあ、この数式が解ける人」
先生が挙手を募る。
………………。
教室を沈黙が支配した。
うん。
案の定。
何せこのクラスは文系コースだ。進学校故、皆真面目で、授業をサボるという選択肢が思い浮かばないから「とりあえず形だけでも」という気持ちで出席しているわけであって……数学の授業に本腰を入れている子なんてここには一人もいないだろう。
先生には申し訳ないとは思うけど(ちなみに私は出たいからでいるのよ? 先生)。
「…………。おーい、誰かいないかあ……?」
だから。
先生──そんな捨てられた子犬みたいな顔しないで。
なんてかわゆいの。
やめて。
反則よ?
おま……じゃなくて、お腹の奥がきゅんきゅんして──授業中なのにいけない気持ちになってしまうじゃない!
「お」
「!」
あ──目、合っちゃった。
「はい、じゃあ五月」
「……はい」
ファック。
まさか今日も目が合っただけで指名されてしまうとは……。
さては先生──私のことがお気に入りですね?
ねえ、どうしても私がいいの?
「……」
「……」
一瞬のアイコンタクト──目と目で通じ合う二人。
彼は小さく頷いた。
そう──そんなに。
そうなのね……。
よろしい。
ならばご期待に応えましょう。
耳の穴をかっぽじって、よーく聞きなさい。
椅子を引き──静かに立ち上がる(この、学校の椅子って、何でこういう作りなの? 脚が床に突っかかる感じとか……もう少しどうにかならないものかしら。『静かに』なんて形容動詞を付けてみたけど──実際は『ギギギー』とか鳴っちゃってぜんぜん静かにできていないじゃない! ああ、恥ずかしい!)。
私は背筋をぴんと伸ばし、すっと息を吸い込んで、きりりと表情を引き締めた。
それからたっぷりとしなを──否、タメを作り、
「────────分かりません」
◆
うん。
うん、知ってた。
先生は知ってたぞ。
俺は表情一つ崩さず堂々クールに言ってのけた女子生徒──五月を、何とも言えない気持ちで眺めた。
これは最早毎度々々のことであり、あまりにも毎度のことすぎて、今更これといって驚きもしない。
五月の数学の成績は入学以来ずっと地を這っている。担任や他の教科を担当する教員から話を聞く限り地頭は相当にいいはずなんだが。しかし、どうも彼女はとことん割り切るタイプのようで、進学に不要な強化にまで力を割くつもりはないらしい。
数学の担当としては正直ちょっと悲しいが……しかし文理選択制ってのはそもそもそういうもんだし、ましてやこのクラスは文系コースなわけだから、まあ……まあ、別にいいのだが。
それにしたって──だ。
五月は花の女子高生。
──などというには、その態度はあまりにもふてぶてしい。
ちょっとどころか……いや、かなり。
アレすぎる──あんまりだと思う。
豆腐メンタル系な女教師(心当たりはあるがこんなことを口に出せば今時は即ハラスメントだ)とかなら泣くんじゃないだろうか。
当然、出会って当初は俺も反感を抱いた。
──何だ、こいつ?
と。
何しろ授業中は。
どんな質問を投げても。
どんな設問を当てても。
いつだって五月の答えは「分かりません」の一点張りなのだ。
それでいてその人形のように整った顔からは一切、教師からの問いに答えられないことで『普通なら』多少なりとも生じるであろう罪悪感も、羞恥のようなものも、まるで窺えないのだからそりゃあ──苦々しくも思うだろう。
俺だって教師である以前に人間なのだから。
〈以下回想〉
──四月。
新年度。
新学期の始まり。
辞令を受けた俺は新たなクラスを受け持つことになった。
二年二組。
俺の勤める県立天象高等学校は文理選択制を採用しており、偶数クラスは文系コースだ。そこで数学を教えることになった。
俺は正直「嫌だなあ」と思った。
何せ相手は自らの意思で文系を選択した連中だ。
彼らは数学──もっと言えば理系になど端から興味はない。
その意欲は皆無に等しい、らしい。
『らしい』
としか言えないのは、俺は四年前に教員採用試験に受かり、天象高校に配属されてから以降、理系コースのクラスしか受け持ったことがなかった。だから、文系コースの生徒らに数学に対する興味や意欲がない──というのはあくまでも人伝で得た情報。同僚であり、既に文系コースを受け持った経験のある他の数学教師からの受け売りではあるのだが、そこに多少の誇張や脚色は含まれるにしても、とはいえ実情と大きな乖離があるとは思わなかった。
その理由として──天象高校で文理選択制が始まるのは二年生からで、生徒達は一年生時には全員が共通の科目を習い、それを踏まえて一年生の終盤に文理を選択することになるのだが、その選択の際、彼らの判断基準となる心理は大きく分けて四つ。
一、文系が好き。
一、理系が好き。
一、文系が嫌い。
一、理系が嫌い。
基本的に好きなほうを選べばいいのだが、中には両方が好き、あるいは両方が嫌い、という生徒も当然ながら出てくる。
両方が好きな場合は多少悩むことにはなるだろうが最終的に大きな問題が起こることは少ない。何せ両方好きなのだ。そういう生徒は学ぶことに貪欲で仮に選ばなかったほうでも独自に学習してそれなりのレベルで修めてしまったりする。
問題は両方が嫌いだった場合だ。そういった生徒にとって文理選択は、口に入れることすら遠慮願いたい食べ物と、無理すれば食べられないこともないが敢えては食べなくてもいい食べ物とから、後者を選ぶようなものだろう。
個人的には「だったら、わざわざ高校になんか通うなよ」と思わなくもないが、日本は未だ学歴社会──いや、学歴偏重社会。本人の意思か親御さんの圧力かは知らないが、学習意欲は低くとも進学意欲だけは旺盛な生徒というのは一定数、存在する。文理どちらも嫌いな生徒の大半はそういうタイプだ。……何だか進学校の闇を見たような気分にさせられる。
閑話休題。
とにもかくにも俺は二年二組の数学を受け持つことになった。
何だかんだ負の要素をあげつらい、うじうじと嫌がってはみたものの、仕事であり辞令を受け取ってしまった以上は避けられない。それに先に上げたような例はごく一部のごく極端な例である。幸いにして俺が受け持つ文系コースは二年二組の一クラスのみであり、これは一応部外秘になる(実情は公然の秘密だろう)が二、三年生のクラス分けは数字が若いクラスほど優秀な生徒で固められているのだ。
──つまり、二年二組とは二学年で最も優秀な文系コースのクラスなのである。文系コースとはいえそのトップともなれば学習自体への意欲も相当に高いはず。なら、余程酷い生徒は最初から在籍していないだろう。そう考えれば憂鬱な気分もいくらかはましになるというものだ。
恐らくだが、この割り当ては初めて文系コースで教鞭を執る俺への配慮などもあってのことだと思われる。
そうだ──肩の力を抜いていこう。
これまで教えてきた理系コースの生徒達は、数学に対して意欲が高いのは嬉しくやりがいもあったが、彼らは理系に関してはまさに大人顔負けであるため、その分こちらも絶対にヘマなどしないよう常に気を張っていなければならず、正直、気疲れする場面も少なくなかった。
文系コースの生徒達なら、きっと年相応の子供達に教える気分を味わえるだろう。決して片手間のように考えているわけではなかったが、俺はそんな少々お気楽な気持ちで二年二組の教壇に立った。
──そこで『あいつ』と出会うことになるとも知らずに……。
〈一時間目〉
「──これから一年間、このクラスの数学を受け持つことになった東です。よろしく。今日は初日ということで各自自己紹介でもしてもらおうかな」
初日は自己紹介も兼ねたオリエンテーションとした。
黒板に『東晴天』と自分の名前を書いてから生徒達にも簡単な自己紹介とともに順番に名乗ってもらう。その後は一年間の学習計画などをざっと説明し、俺は二年二組での最初の授業を終えた。
文系コースを選択した者にとっては数学の時間など謂わば余暇に過ぎないのだろう。生徒達の意欲は露骨に低く、俺自身に対する興味も非常に淡白なものであった。
しかし、だからといってそれは別段俺が軽んじられたということでもなく、ましてや無闇に反抗的な態度を取るような者もいなかった。
何というか、さすがは優等生の集められたクラスと言うべきか……二年二組の生徒達はよく言えば肩の力が抜けており、これならば自分も程よく『息抜き』がさせてもらえそうだ──と、この時点でも俺は未だのんびりと構えていたのである。
しかし翌々日──
〈二時間目〉
……見られてる。
……めちゃくちゃ見られてるんですけど。
その日、二年二組にて実質上最初の授業を行った俺は、一人の女子生徒から終始見られていた。
いや教壇に立っている以上、生徒から見られるのは当たり前だし、寧ろまったく見てもらえないようでは、それはそれで授業の進行に支障が出るのだが。しかし現状、凝視というレベルで見られている状況は少々常軌を逸しているというか……授業以前に俺の精神が支障を来しそうな状況である。
一応、最初は自分の自意識過剰を疑った。
女子生徒から見られている、そう思ったら実はただの勘違いでした──では、あまりにも恥ずかしいし痛すぎる。
しかし。
教壇に立とうが、教室の中を歩き回ろうが、その視線はどこまでも俺を追いかけてくるのだ。終いには板書中の背中にまで視線を感じる始末。どうやら俺はシックスセンスに目覚めてしまったようだ。
閑話休題。
問題の女子生徒は名前を五月雨という。
こいつがまた恐ろしく美形なのだ。
何というか、大人の女性と少女との狭間で危うげな魅力を放っている。
真っ直ぐな黒髪を腰まで伸ばし、大きく切れ長な目はいつもどこか物憂げ。
無理矢理例えるなら、観音像と日本人形から必要な要素を抽出して精巧なビスクドールを作れば彼女に近いものができ上がるかもしれない。
そのくらい人間味が薄い。
乏しい表情と相まって『冷たい美貌』という言葉がぴったりだ。
俺は生徒に欲情するような下衆ではないが、五月ほどの美少女から熱視線(五月は見た目クールな少女だがその視線には謎の熱量を感じる)を向けられて尚、何も感じずにいられるほど達観してもいない。
……何なんだよ。
まさか本人に問い質すこともできない。一言、「何でもありません」と言われればそれまでで、『自意識過剰な教師』として俺が一方的に恥をかくだけだ。いや、実際──間違いなく五月は俺のことをずっと見ているのだが、それを証明することは難しく、俺が何を言おうと、いざとなれば世論(この場合は二年二組一同のことだが)は五月に味方するだろう。そこは俺が生徒達から見ればオッサンで、あいつが美少女である点も大きい。
……ぐぬぬ。
もやもやとした思いを抱えつつ、二度目の授業は終わった。
そして──
〈三時間目〉
………………。
〈四時間目〉
………………。
〈五時間目〉
………………。
〈六時間目〉
………………。
〈七時間目〉
………………。
〈八時間目〉
………………。
〈九時間目〉
………………。
〈十時間目〉
………………。
〈?時間目〉
………………。
もう駄目だ。
五月の末にきて、俺の精神状態は既にぼろぼろだった。
原因は言わずもがなである。
この二ヶ月弱は散々だった。
──もういっそ寝てろよ!
心の中で何度そう叫んだか。
──どうか寝ていてはくれませんか?
心の中で何度そう願ったことか。
……でも、ぜんぜん寝ないんだわ……あいつ。
五月という生徒は変に真面目というか……授業中は絶対に寝たりしない。ノートもほとんど取らないくせに(これを真面目というべきかは疑問だが)、何を考えているのかさっぱり分からない顔でいつもこちらをじっと見ているのだ。
授業中、ほとんどフルタイムで見られている都合上、五月とはふとした拍子にやたらと目が合った。そして一度目が合うと彼女は自分からは絶対に目を逸らさない(本当に逸らしてくれない。しかも切れ長の大きな目は異様に瞬きが少なくて正直ちょっと怖い。……まさかサイコパスじゃないよな)。
俺の心労をどうか察してほしい。
重なり合った目線をいつまでも逸らさないでいれば、それは最早見つめ合っているのと同義だ(にらみ合いという可能性もあるが)。
授業中に生徒と見つめ合う教師──おいおい危ないな。そこはかとなく犯罪の気配がする字面だ。早々に目を逸らすべきだろう。
早々に。
しかし。
しかしここにまた新たな問題が浮上する。
──果たして目はどちらから先に逸らすのか。
これは簡単なようでいて──その実、難問だ。
なぜなら。
なぜなら既に述べているように五月は自分からは絶対に目を逸らさないからだ(もしや五月は猫か熊の仲間なのか?)。
そう、『どちらから』という本来なら存在するはずの二択は、俺と五月の間においては最初から破綻しているのである。
──なら、俺から逸らすのか?
逸らせばいい。
他人はきっとそう言うだろう。
ああ、そうだね──逸らすだけなら簡単だ。
実に簡単で──一番お手軽だろう。
何せそこに五月の意思など関係ない。すべては俺の胸三寸だ。好きなタイミングでさっさと逸らせばいい。
──が。
できなかった。
悔しかったから。
まあ……最終的にはいつも『授業の進行上仕方ないんですよ』という体で俺のほうから先に目を逸らす羽目になっていたのだが(実際、授業は進行しなければならないのだ)、ちっぽけなプライドで俺はそれをノーカンとしていた。
──俺には仕事があるんだよ!
と。
俺はつい「女子高生何するものぞ」という非常につまらない意地を張ってしまったのだ。年甲斐もなくムキになった、ともいう。
まったく、子供相手に何やってんだか。
我ながら実にしょうもない。
チンピラかよ。
そんな日々が続き、ここへきてとうとう進退は窮まった(そりゃ、そうだ)。
……果たしてどうしたものか。
うーむ。
………………。
──ん?
今何か……?
………………!
──そうか!
──これだ!
ふはははははは。
キタキタキタキタ!
にっちもさっちもいかなくなった俺に──ついに天啓が舞い降りたぜ!
一体全体俺は何を悩んでいたのか。
ここはどこだ?
──ここは学校だ。
俺は何者だ?
──俺は教師だ。
ならば五月は何だ?
──あいつは生徒だ。
……ふっ。
──ここは学校で。
──俺は教師で。
──五月は生徒。
……勝ったな。
学校という特殊な自治体において、生徒に対し発揮される教師の権力は絶大。
余程の理不尽でもなければ大抵のことは罷り通る。
俺は遠慮なく──躊躇なくその権力の行使を決めた。
五月雨──目的は何だか知らないが教師を不躾に見続けたお前が悪い!
俺は背筋をぴんと伸ばし、すっと息を吸い込んで、きりりと表情を引き締めた。
それから五月の大きな目を半ば睨むかの如く見返し、黒板に書いたばかりの数式を指し示した。
「──よし、五月。この問題を解いてみろ」
〈以上回想終わり〉
もちろん、あの時も五月の答えは「分かりません」だった。
それも、考える素振りも見せず、ほぼノータイムで。
いつもどおり涼しい顔で。
それは端から「答える気はありません」と宣言されたようなものだ。当然、俺はイラッとした。
──このガキ!
と、口汚く罵りもした(もちろん声には出してない)。最早五月が美しい少女であろうと何であろうと、俺にとっては単なるストレス原でしかなかった。
それは俺と彼女の第二ラウンド──新たなる戦いの幕開けであった。
〈以下回想(抜粋)〉
目が合う。
「じゃあ、この問題を五月」
「分かりません」
目が合う。
「はい、五月」
「分かりません」
目が合う。
「よーし、じゃあ次のページの例題を……五月っ」
「分かりません」
目が合う。
「はい、黒板に注目。お? 五月、やる気だな」
「分かりません」
目が合う。
「今日は中学校の復習をやるぞー」
「分かりません」
目が合う。
「1×1は?」
「分かりません」
目が合う。
「お前の名前って、何だっけ?」
「分かりません」
嘘つけええええええっ!!
〈以上回想終わり〉
とまあ、第二ラウンドは激闘の連続であった。
最後のほうは最早何が何やら自分でもわけが分からなくなっていた。とにかく五月の口からどうにか「分かりません」以外の答えを引き出そうと躍起になっていたように思う。
……まあ、結局はできなかったのだが。
しかし何も変わらなかったわけでもない。
数々の戦いを経て、気がつけば俺は五月の「分かりません」にまったく腹が立たなくなっていた。
……慣れとは恐ろしい。
見られているのは相変わらずで、それは今でもやめてほしいのだが、それでも最早俺が五月の「分かりません」に目くじらを立てることはない。寧ろ彼女の「分かりません」を聞かないと二年二組で授業をした気がしないくらいだ。その上、最近では彼女に畏怖や憧憬の念すらも抱きつつある。
意味が分からないだろう。
俺もそう思う。
だが俺なりに理由はある。
ある時、ふと思ってしまったのだ。
俺は学生の時分、五月のように堂々と振る舞えていただろうか──と。
答えは否。
少なくとも。
少なくとも俺は。
少々の不満を抱いても五月のように教師や大人に対し強硬な姿勢を示すことなどできなかった。
……まあ、そういうのは日本のお国柄的にはあまり誉められたことではないのも確かだし、実際できたから何だ、という話ではある。時には意に沿わずとも「なあなあ」で済ますことが求められるのが日本人という人種の在り方だ。
ただ。
ただ、それでも俺は五月を見ていて「こいつ、すげえなあ」と思ってしまったのだ。
思わされてしまったのだ。
『戦い』などと言ってはみたものの、俺がこれまで五月にしたことは一部だけを抜粋されれば教師による『いじめ』と言われてもまともな反論はできないし(いや、一部でなく全体を見てもらえれば五月にも非があることは必ず分かってもらえるはずだが)、結構しつこかったとも思う(五月の視線はもっとしつこいけどな!)。
だが、それでも五月は最後まで折れなかった。
絶対に「ごめんなさい」と言わせてやる! などと邪なことを考え、沸々と嗜虐心を滾らせていた俺を見事完全にすかしきってみせたのだ。
お見事。
お手上げ。
完敗である。
こうなってしまっては、最早「天晴れ」としか言いようがない。
二年二組に在籍する他の生徒達もその辺りは感じ取っているようで、最近では彼らの大半が五月に対し俺と同じような想いを抱いているように思う。
つまり──畏怖と憧憬である(男子の場合は明らかに恋慕も混じっている感じだが)。
小耳に挟んだところによると、どうも五月は周囲から密かに『雪の女王』というあだ名を付けられているようだ。
まあ、その響きがクールビューティーを地で行くような五月にお似合いなのは俺も同感だが。
──でも……それ、何かちょっと中二臭くないか?
いつか連載にしてみたいです。