地固め
朝倉の栄華を誇った一乗谷は一揆衆によって蹂躙され、見る影もない廃墟となり果てた。
城館そのものは何とか持ちこたえたこともあって残っているが、この地を立て直すことは容易ではない。
また防衛に配慮されたこともあって山がちな地にあって、経済活動という点からはやや難しい土地柄であった。
「街道と河川が交わるこの地は物流の要衝である」
足羽川と吉野川が交わる北庄の地は広大な平野のただなかにあり、町の規模は井ノ口をしのぐことが予想される。
足羽川を天然の堀とするように城地を定め、普請を始めた。
北西にある織田荘は織田家発祥の地とされており、儂の名で劔神社に所領宛がい及び安堵の禁制を出すことになるとは思いもよらなかった。
はじめは殿に報告した。
「権六は織田の縁者である故、貴様が安堵せよ」
一言で終わった。
「うむ、親父殿はまさしく殿の股肱ゆえであらあず」
利家はのんきなことを言うが、朝倉には大野郡と一乗谷の城地は安堵された。また府中には、利家、成政と共に、美濃衆より不破光治殿が目付として派遣され、この三名に十万石が宛がわれた。
残り、約五十万石が儂の所領となったわけである。
無論、朝倉旧臣らの所領も含み、さらには与力の諸将の所領もここから出さねばならぬ。過去の記憶はありはするが、その情勢と違い過ぎていてめまいがするようじゃ。
秀吉は江北守護代として二十万石、佐和山城主にして、若狭守護代の五郎左は十三万石である。
大和、河内、和泉には塙直政が指揮権を与えられ、本願寺と紀伊門徒の間を遮るという大任が与えられた。
摂津より西の播磨の門徒宗と戦いつつ、本願寺を抑え込むという大任は佐久間半介が担っている。
伊勢北部はほぼ滝川一益が制した。志摩で騒ぎがあり、九鬼水軍の当主の叔父である嘉隆が追放され、佐治水軍に身を寄せたと聞く。
現在は伊勢湾の制海権は佐治水軍によって制圧されており、その後ろ盾で志摩一国を攻めとるようであった。
北畠とは神戸経由で交渉が続いており、将軍家への服属と言う形で決着がつきそうであった。
現当主の具教卿が上洛し、御所様のお側に仕えることはほぼ決まりとなっているそうである。
そして、嫡子の具房殿には男子がおらぬ事情もあって、殿の次男に当たる茶筅様が北畠の養子となって跡を継がれる。
美濃は道三殿後見のもと、竜興殿が稲葉山の城主に着任した。尾張一国は三十郎信包様が清須城主に任じられている。
丹波に不穏の向きありと報告があり、明智十兵衛が攻め込んでいたが、この度赤井、波多野との和睦が成立した。山城国境に近い亀山の地に城を築いて、波多野らの国衆を十兵衛殿が率いることとなる。
山城守護は細川藤孝殿が務め、丹波、丹後より但馬までを明智十兵衛が指揮することとなった。
但馬の生野から算出される銀は、畿内の経済になくてはならぬものとなっていた。
また播磨の豪商、小西隆佐が織田に誼を通じてきた。播磨も一向宗が広まる土地で、土豪や国人で帰依するものが多い土地であった。彼らとつながりがありつつも織田に通じた理由は、丹波が落ちたことと、生野銀山に関わる利権を狙ってのことであった。
播磨国人の動向は小西家経由で流れてくることとなったが、赤松、小寺、別所らの諸氏が離合集散を繰り広げる姿は戦国の縮図とも呼ぶべき情勢であった。
小寺が織田に誼を通じようとしており、別所は本願寺と通じて勢力を保つ。
赤松は応仁の乱で大きく勢力を落とし、今や播磨の片隅に割拠するのがせいぜいと落ちぶれていた。
栄枯盛衰は世の常にて、哀れと思えば足元をすくわれる。西に派遣される任を得ようと水面下では駆け引きが繰り広げられていた。
播磨を平定すれば本願寺の枝葉の一つを切り落とし、太い根を断つことができる。海上から船で漕ぎ入って、寺に物資を補給しているのはあきらかで陸上からの包囲を続けても効果が薄いのはこれが原因であった。
越前、加賀の一向一揆に大きな打撃を与えたが、一揆衆の出どころはすなわち百姓や土豪、地侍である。
敵を討って終わりとはならず、いくさに荒れた土地を復興して行かねばならない。
安土、今浜と近江で進む城普請や街道整備で流民となった者を雇い入れる。計画通り、越前で食い詰めた者を送り込んだ。
食い詰め者が多く出ると彼らは野盗と化して村や商人を襲う。一銭斬りの掟に従って、そのような者どもはすぐに討たれる。それでも今日、明日の命をつなぐために奪おうとするものは後を絶たない。
故に仕事を与えて銭を与える。その銭は普請場の飯屋などで消費させる。働きの良い者には報奨を与えれば、先行きに希望を見出すこともできよう。
結局、一揆に身を投じ、野盗に身をやつすのは先行きが見えないからである。故郷は失われ、身一つで命からがら逃げ伸びた者に来年のことを考えて暮らせと言うのは無理な話であろう。
取りあえず飯が食えるという理由で一揆に身を寄せている者もいたのだ。そうなれば教義に縛られ、互いに監視し合う中で、坊主どもの説法を聞かされてがんじがらめに縛られる。
生活を保障し、食わせることで一揆に新たな人間が流入しない様にしていく。日々頑張って働けば銭を稼ぐことができ、贅沢をしなければ腹いっぱいの飯を食える。まずはそれでよい。
越前の復興も徐々にではあるが進めていた。城普請の合間に、秀吉と復興計画について相談する。
「権六殿、このあたりの土地で蕎麦を作しましょうず。手間がかからず荒地でも育つでなん」
「うむ、米は大事だが、ほかにも食い物を多く作ることは良きことでや」
「喜六様より教わったそば切りと言うものがありましてのん。これがうまいのだわ」
「ああ、越前は海の産物も多いからなん。尾張と同じようなそばを食えるならば人々の楽しみにもなろうず」
「うまい飯がありゃあ頑張る気力も沸いてくるものであらあず」
「まことにそうだわ。暮らし向きが落ち着けば人心も安定する。さすれば自棄になって一揆に身を投ずることもなかろうでや」
仮普請の屋敷の庭では、家臣たちの子らが歓声を上げながら走り回る。
「おい、日吉! 若様に粗相があってはならんでや!」
秀吉の嫡子は自身の幼名をそのままつけていた。儂の息子と相撲と称して取っ組み合っている。
「子供にそこまで言うてもわかるまいでや。よいよい」
「いや、こういうことはしっかりとしつけねば!」
「願わくば、この子らが大きくなる前に、このような血生臭き世を終わらせたいものでなん」
「まこと左様にございまするなん」
秀吉は我が子を抱きかかえ頬ずりをしている。ひげが当たってくすぐったいのか、日吉はきゃあきゃあと笑っていた。
同じく儂も嫡子の権六を抱き上げる。ニパッと笑みを浮かべる顔は、母に似たのかとても整った顔立ちをしていた。
「うむ、すこやかに育ってくれればよいでや。お前は儂の宝だでなん」
子供を抱き上げて笑みを浮かべる姿を周囲の家臣らがにこやかに見守ってくれている。
「親父殿!」
そこに息を切らしつつ利家が駆けこんできた。
「なにごとでや?」
「生まれた。生まれたでや!」
「おお!」
利家の嫁のまつ殿は、そろそろ臨月を迎えていた。無事子が生まれたということであろう。
「今日生まれた子は、是非に若の嫁にしてほしいでや」
「気が早かろうが!」
儂がたしなめると周囲の家臣たちも大笑いを始める。大人たちが笑っている姿に子供達も合わせてけらけらと笑い始めた。
つかの間の平穏が終わる日も近い、春先のことであった。




