虎は天に還る
敵の攻勢は落ち着いている。手傷を負った者は後ろに下がり、戦死者の亡骸は敵味方問わず河原に寝かされる。
その様子を見て、手を合わせるものも多くいた。特に三河の侍は今川に付いたものも多くいる。手柄を立てようと先陣に加わった者とて多いであろう。
そして先ほどまでのいくさで目覚ましい働きをしたものを呼び寄せ声をかける。
「村井又兵衛。そなたは主の危地に奮い立ち、その危急を救ったところ、まことに素晴らしき働きでや。よってこれを賞する。先ほどのいくさの褒美として利家に渡す故に後程受け取るがよからあず」
「ははっ!」
先ほどの戦闘、武田の武者は筋金が入っておった。胴を突かれた兵が利家の槍を抱え込み、得物を失った利家は窮地に陥った。
そこを側で戦っていた村井又兵衛が槍を振るい利家を突こうとしていた敵兵を討ち取った。
「利家よ。よき家来をもったなん」
「又兵衛は家来なれど、いくさ場ではまたとなき相棒にござるで」
「うむ、このような武者を召し抱えるは武門の面目と言うものである」
称賛を受け、又兵衛ははにかんでおった。周囲の同胞たちも笑みを浮かべる。
「さあ、手柄はまだまだ立てられるでや。おのしらの働きを楽しみにしておるぞ!」
儂の檄に兵たちはわっと喊声を上げる。
松平衆の武者にも当座の褒美として銭や脇差などを与える。一の段を落とされたことで、戦況はやや劣勢である。故にこうして士気を盛り上げ、引き締めねば勝ちはおぼつかぬ。
「ひるむな! かかれい!」
利家の突撃は相手をひるませることができていたが、それでも信虎の檄によって立て直されてしまった。
再び喊声を上げて駆けあがってくる敵勢に容赦なく矢玉が降り注ぐ。
「信虎ここにあり! そちらと共に地獄へ参ろうぞ!」
降り注ぐ矢玉にわが身を晒し、懸命に兵を鼓舞する姿は名門たる甲斐武田家の誇りと意地が見える姿であった。
主の命がけの檄にこたえ、将士らは狂ったように押し寄せる。急所に矢を受けなければ、引き抜くこともせずにひたすら前に進む。
「叩け!」
槍衆の頭が短く叫び、頭上から振り下ろされる穂先に叩かれた敵の足軽の手足がちぎれ跳び、頭蓋が割られる。
仲間の無残な死にざまにもひるむことなく、次は自分だと言わんばかりに空いた隙間を埋め、槍を突き出す。
胴を貫かれた足軽が悶絶し、おびただしい血を流して絶命する。その叫喚の叫びは聞いたものすべての胆を震わせるものであった。
叩き合いが続くが、高所を占めるこちらの方の優位は変わらない。それでも一歩も引かず渡り合う姿に、こちらの方が押され気味になる。
「おのしら、励め! さもなくば親父殿に尻たたきにされるでや!」
利家が前に出て、先ほど受けた打擲を冗句に換えて笑いを巻き起こす。
「おう、殿の平手はさぞかし骨身にこたえようず」
「うむ、地獄の鬼の責め苦にも劣らんでなん」
「だがのん、良き働きを見せなばお褒めをいただけるでや」
「又兵衛のようにのん」
彼らの目の前では村井又兵衛が古強者の武者と渡り合っていた。
「うりゃあ!」
「ぐぬっ!」
互いの攻撃は伯仲しており、腕は互角に見えた。
「しまった!」
又兵衛が下段に繰り出した槍を避けられ、柄を踏まれる。
「ぬん!」
武者が突き出した槍は又兵衛の胴を貫かんとするその刹那、横から伸びた槍先がその穂先を切り落とし、返す横薙ぎで武者の首を斬り落とした。
「これで貸し借りはなしだでや」
ニヤリと笑みを浮かべる利家の槍の技のすさまじさに敵味方が唖然とする。
「殿、また新たな御恩ができてもうたがや」
「うむ、そなたがおらんと困る故な。ほれ、次の首じゃ。いくぞ!」
名のある武者を多く討ち取られ、さしもの武田勢も息が上がってくる。
「馬廻りども、行けい!」
「おう!」
久六が馬廻りの兵を押し出し、敵が攻めあぐねる虎口から一気に出撃させた。
攻め疲れ、息も絶え絶えとなっている兵は、新手の攻撃を受け止めきれなかった。
へたり込んでいた足腰に気合を入れて立ち上がるも、すでに手足が言うことを聞かない。半ば棒立ちの状態で次々と討たれていく姿はいっそ哀れであった。
「容赦するでない! ここで討たねば、次に討たれるはおのれと心得るでや!」
激しく反撃してくれば、心置きなく討つことができようが、槍を握る手もおぼつかぬ相手を見ると、哀れと思うはわからぬでもない。
それでも、ここで手を緩めてしまえば、疲れの癒えた敵に討たれるのはこちらである。
武田勢はすでに組織だった抵抗はできず、めいめい凌ぎの有様である。このまま追い落とせば一の段の奪還はなろう。
そんな中で、信虎率いる馬廻りは、一塊になって気勢を上げている。
「ふん、もはやこれまでか。ならば最後に死に花を咲かせてやろうず」
覚悟を決めた言葉を漏らすと、周囲の武者どもが沸き立つ。武勇を示して討ち死にするのは武士の晴れ舞台とも呼べる場である。
「続け!」
信虎は刀を抜き放つと、武者どもの先頭に立って走りだす。
「殿より後に死ぬは恥でや!」
馬廻りたちは信虎を守るように円陣を組む。
「行くぞ!」
信虎の前には松平衆の精兵が立ちふさがる。だが、死兵と化したその勢いはすさまじく、槍に貫かれながら相討ちを狙う者、両腕を切られながら、首にかみつくもの、矢が突き立って死んだふりをして、油断を誘う者。
常識の通じない相手に、松平衆も戸惑う。
「敵は小勢でや。取り囲め! 遠巻きにするならば矢を射込め!」
二郎三郎広忠殿が声を涸らして兵を叱咤する。
すでに信虎の馬廻り以外は退いていて、最後の死に花を見守ると言えば聞こえはよいが、事実上見捨てられたのであろう。
後詰が上がってくる気配も感じられない。
その様子を見て動いたものがいた。
「あちらの虎口より出て敵の背後に回れ!」
蔵人家康である。
「正面だけを見て突き進む兵は、後ろを突かれればもろいでや。儂に続け!」
倒れ伏す兵にも槍を突き込むほどの徹底した攻めを見せ、ついに信虎に槍を付けた。
「こわっぱ! 推参なり!」
「松平蔵人でや!」
介添えの鳥居元忠が槍を突き込み、信虎の右肩を貫いた。
「お覚悟を」
「良き武者に討たれるは本懐なり」
死を目の前にして揺るがぬ誇りを見せつけ、武田信虎は討たれた。
勝どきが上がるこちらの陣へ今川からの使者が現れたのはその直後のことであった。
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