四つ割菱の旗印
今川の先陣は四つ割菱の紋であった。
「ふむ、武田の先代かや」
いくさで明け暮れると、血に酔ってしまうものが出る。
武田の先代、信虎はその典型的な例であった。そのいくさぶりはすさまじく、今川とのいくさでは、甲斐の狭隘な地形に誘い込み、伏兵をもって倍する敵勢を蹴散らしたと聞く。
その結果、武田と今川の間に和議が結ばれた。のちに信虎追放の受け皿となるとはその時点では思いもよらなかったであろうが。
「かかれ! かかれええええ!!」
戦陣で陣太刀を抜き放ち、切っ先をこちらの陣に向けて兵を叱咤する姿は、老いたるも虎の武威を思わせる。
最前線の牛久保衆が籠る砦からは盛んに鉄砲が発射され、敵の先陣をなぎ倒した。
「ふん、織田と松平の武者は臆病者でや! 儂が首を取りに来る武辺者はおらぬかや!」
鉄砲の届かぬぎりぎりの間合いで仁王立ちして叫ぶ。すでに老境に入っておるはずだが、矍鑠として衰えは見えない。
挑発に乗って牛久保衆の陣立てより十騎ほどの武者が出撃していく。
「使い番を。出撃は許可せぬと伝えよ」
退き鐘を鳴らすが、出て行った武者どもは戻らず、そのまま敵中に突入して斬り死にする。
再びの挑発に、こちらが一切の動きを見せないことを見て取ると、いったん下がった。
「矢玉の補充を急がせよ!」
荒し子や小者らが本陣より背負子で物資を運ぶ。汗を絞りつつ駆けまわる彼らの姿を見つつ、次なる手を予想した。
「ふむ、まあ、そう来るかのん」
矢盾を前面に押し出し、重装備をまとった足軽衆の裏に、軽装の荒し子を配置する。
こちらの柵木を打ち破らんと鉞を持たせている。
再び信虎の刀が打ち振られた。迎え矢が一斉に放たれ、矢盾に突き立つ。隙間をすり抜けた矢が兵に突き立ち、悲鳴を上げつつ倒れ伏す。
距離が詰まってくると鉄砲の弾が矢盾を叩き割って、ぽっかり空いた穴に矢が降り注ぐ。
「あれなるは敵の大将でや! 撃て、撃て!」
鉄砲の射撃が信虎周辺に集中しておる。
「敵の先陣に攻撃を集めよ!」
確かに先手大将を討てば戦況はこちらに傾くが、自身に攻撃を集中させることで先手への攻撃を分散させるが狙いであろう。
「二の段より後詰をさせよ!」
使い番が走り、攻め太鼓を打ち鳴らす。
二の段の武者が虎口より駆け出で、押されている場所を押し返す。
「放て!」
弓衆物頭の号令に従って、一斉に放たれた矢はアリの群れのように斜面に群がる敵勢に降り注ぎ、悲鳴と喊声が巻き起こる。
号令のなまりから、こやつらは甲斐の武者であろう。信虎を頼って駿河に逃れてきた者どもであろうか。
今川としてもすりつぶしても惜しくない者どもであろう。
逆にこやつらには後がない。ここで武辺を示さねばただの厄介者である。
それゆえに死を恐れずに立ち働く。
「わが名は本多平八郎でや! 我が槍の錆になりたきものは出会え!」
虎口を破られ、敵勢が殺到しはじめる。松平衆の本多忠高が大身の槍を振るって奮戦する。
「長坂血鑓九郎でや!」
松平の武辺者が荒れ狂い、敵を坂の下に叩き落とす。
そうして食い止めている間に牛久保衆をはじめとした兵を二の段に収容する。そうしたところで、今川本陣より二の手の兵が前進し、先陣の背後を固める。
「やりおる」
ここで伏勢を用いて武田勢の背後を衝けば先陣は総崩れになるであろう。その暇を与えずに二の手を出すことで、こちらの反撃を封じた。
二の段の備が籠る曲輪に向けて、凄まじい勢いで矢が降り注ぐ。
矢盾に向けて火矢が放たれ、柵にも燃え移って焼け落ちていった。
そんなさなか、儂の側に控えていた武者が大弓を携えて前に出る。
「大島殿、なにをするでや?」
「なに、ちと敵を驚かせようと思いましてなん」
矢の先端に油をしみこませた襤褸を巻き付け、火をつける。
火矢を番えると、風の止んだ刹那を逃さず、斜め上に向けて打ち放した。
弧を描いて矢が落ちた先は、火矢のもととなる油の樽であった。
一気に燃え上がった樽は周囲に炎をまき散らし、弓衆を混乱させる。
その有様を見てこちらの弓衆が一斉に矢を撃ちこみ、敵の弓衆に損害を与えた。
「……言葉を失うとなこのことだのん。見事なり」
「このようなる技はいうには及ばず。ただの曲芸にござりますれば」
「くっくっく、今川の奴ばらも肝を冷やしたであろうが。見よ、信虎も馬を降りて周囲を馬廻りで囲んでおる。貴殿の弓を恐れたに相違なし」
「ふむ、なればちょいと煽ってまいる」
すでに四十の坂を越え、間もなく五十路にかかろうとする大島殿の足取りは危うさがなく、美濃の山中で鍛えられた体は揺らぐことがなかった。
「わが名は大島雲八なり! 我が弓を馳走してくれるで、前に出よ!」
左手に大弓を携え、背負った矢筒から矢を引き抜く。
「まぐれ当たりで頭にのるでな、グガッ」
罵りつつ弓を引き絞ろうとした武者の顔面に大島殿が放った矢が突き立つ。
「遅いでや。そのような腕でよくもいくさ場に出てきおったのん」
矢筒に入った矢は十五本。すべての矢は敵兵の顔面を射抜き、ただの一本も外さなかった。
信虎は一の段の曲輪に入って陣取った。
敵の勢いは今のやり取りで落ち込んでいる。
「殿、逆落としに攻撃をかけまするか?」
「久六、それは悪手でや。敵はいったんこちらを突き抜けさせ、退路を断つであろうが。そうなれば袋のネズミでや」
「なるほど」
などと言葉を交わしておると、利家が一手を率いて敵中に突貫する。
「槍の又左でや! 者ども出会え!」
利家が槍を振り回し敵の武者、雑兵をなぎ倒す。
「殿、あれは良いので?」
「……あとで説教はするが、利家ならば敵に囲まれても食い破って出てくるであろうが。煮ても焼いても食えぬあ奴を飲み込んだならば腹痛でのたうち回ることになるでなん」
「ああ……」
久六が目を閉じて天を仰ぐ。
果たして、利家率いる馬廻りの精兵どもは、傷を負った者はいたが、一人も欠けることなく敵の包囲より帰還して見せた。
「又左、儂は守りを固めよと申したでや」
「うむ、しかし攻撃は最大の防御というでなん」
地面に膝をつきつつも傲岸な態度を崩さぬ。
「そうか、儂の言うことを聞けぬかや……ぬん!」
利家の首根っこをつかむとそのまま引っこ抜くようにして立たせ、その身体を脇に抱え込む。
草摺りをめくると、全力でその尻をはたいた。
パーーンと破裂音が響き、本陣備えの武者が駆け込んでくる。そこには尻を叩かれて悶絶する利家と、怒りの表情を浮かべる儂の姿が見えたはずだ。
「殿、又左にも体面と言うものがあらあず。程々にしゃんせ」
「であるな、では百叩きは多すぎるで、あと十回にしてやらあず」
「ひぅっ!?」
悲鳴を上げかけて飲み込んだあたり、利家もなかなか肚が据わってきた。膝を立て、利家の腹を乗せて固定すると、再び右手が翻る。
顔を真っ赤にして、耐える利家と、それに付き従った馬廻りどもが蒼白の表情を浮かべている。
宣言通り、十回の尻たたきを終えた後、地面に腹ばいになっている利家は息も絶え絶えの有様であった。
読んでいただきありがとうございます。
ファンタジー戦記物です。
良かったらこちらもどうぞ
https://ncode.syosetu.com/n9554gl/




